三者面談の悲劇とピンク色の罠
その週、星ヶ丘中高一貫校の職員室は、いつもとは違う重苦しい空気に包まれていた。原因は一つ。『三者面談』である。生徒、保護者、そして教師。この三者が膝を突き合わせ、成績や進路、そして学校での生活態度について語り合う、血と汗と涙の二週間。 午後六時。本日の面談日程を全て終えた四銃士たちは、まるでボクシングのフルラウンドを戦い抜いた後のように、それぞれのデスクで燃え尽きていた。
「……終わった……。俺のライフはもうゼロだ……」
空木が机に突っ伏しながら、虫の息で呟いた。彼の魂は、どこか遠い宇宙へと旅立っているようだった。
「お疲れ様です、空木先生。今日は特に手強い保護者が多かったようですね」
海田がネクタイを少し緩めながら、相変わらず涼しい顔でパソコンに向かっている。こいつだけは、どんな時でもHPが減らないチート仕様だ。
「聞いてくれよ海田……。今日来たお母さん、すごかったんだぞ。開口一番、『うちの子が家で勉強しないのは、学校の椅子の座り心地が悪いからじゃないですか?』って言われたんだ」
「それは斬新な責任転嫁ですね。家具メーカーにクレームを入れるべき事案です」
「だろ!? だから俺、必死に説明したんだ。『いや、息子さんは授業中、椅子じゃなくて空気椅子で筋トレしてるんで、座り心地は関係ないです』って」
「事実を伝えただけなのに、なぜか余計に怒られそうな返しですね」
空木は深いため息をついた。
「そっちはどうだったんだ、川島」
空木が視線を向けると、川島は机の上にお茶菓子の山を築いていた。どら焼き、マドレーヌ、せんべい……。全て保護者からの差し入れである。
「いやあ、面談って最高っすね! 鈴木君のお母さんからは『うちの子をよろしく』って羊羹もらったし、佐藤君のお母さんからは『痩せてください』ってダイエットクッキーもらいました!」
「お前、面談しに来たのか、食糧調達しに来たのかどっちだ」
「ちゃんと話もしましたよ!『息子さんの成績はカロリーで言うと低めですね』って言ったら、『先生のお腹は高カロリーですね』って返されました。一本取られましたわ!」
「お前らの面談、漫才かよ」
川島がバリボリとせんべいをかじる音が響く中、羽上がニヤニヤしながら会話に入ってきた。
「僕なんて、もっと大変でしたよ。あるお母さんが、『先生、独身ですか?』って聞いてきて」
「ほう、それはまた……」
「『はい、独身です』って答えたら、『じゃあ、うちの娘(大学三年生)どうですか? 写真ありますけど』って、その場でお見合いが始まりそうになったんですよ」
「で、どうしたんだ?」
「『お母様の方がタイプです』って言ったら、顔を真っ赤にして帰られました。いやあ、熟女キラーの才能が開花しちゃったかな」
「羽上」
空木と海田が同時に声を上げた。
「お前、いつか刺されるぞ」
「冗談ですよ。丁重にお断りして、代わりに僕のサイン入りブロマイドを渡しておきました」
「いらねえよ! 魔除けにしかならんわ!」
そんな馬鹿話で盛り上がっていると、空木がふと自分のデスクの異変に気づいた。書類の山の隙間に、見慣れないものが挟まっている。それは、淡いピンク色の封筒だった。しかも、ハートのシールで封がされている。
「……ん?」
空木が恐る恐るそれを摘み上げる。表書きには、丸っこい可愛らしい文字で『空木先生へ』と書かれていた。
「おっ!おい見ろ!なんだこれ!?」
空木の声が裏返る。三人が瞬時に反応し、空木のデスクに集結した。
「こ、これは……まさか……」
川島が息を飲む。
「ピンクの封筒にハートのシール。記号論的に解釈すれば、その意味は一つしかありませんね」
海田が眼鏡の位置を直す。
「ラブレター、ですね」
羽上がニヤリと笑う。
「ラ、ラブレター!? 俺に!?」
空木は封筒を持ったまま、小刻みに震え出した。三十四歳、独身。彼女いない歴=年齢ではないが、ここ数年は恋の噂など微塵もなかった男に、春が来たのか。
「誰からだ!?生徒か?それとも……」
「空木先生、落ち着いてください。まずは差出人の確認です」
海田が冷静に促す。空木が封筒を裏返す。しかし、そこには差出人の名前はなかった。
「名前がない……!これは、匿名希望の恥ずかしがり屋さんということか!」
「あるいは、ストーカーという可能性も否定できません」
「怖いこと言うな海田!夢を見させろ!」
「開けましょうよ、ボス!中を見ればわかるっす!」
川島が身を乗り出す。
「ま、待て。心の準備が……」
空木は深呼吸を繰り返した。ヒッ、ヒッ、フー。ラマーズ法である。
「もし、すっごい美人の教育実習生とかだったらどうする?『先生の、その天然なところにキュンとしました』とか書かれてたら!」 「空木先生」
羽上が肩に手を置く。
「現実は非情ですよ。大抵こういうのは、『先生、鼻毛出てます』とか『チャック全開です』っていう親切な指摘のパターンです」
「やめろ!俺の淡い期待をへし折るな!」
「でも、ハートのシールですよ?鼻毛の指摘にハートは使わないでしょう」
川島がもっともなことを言う。
「よし……開けるぞ……!」
空木は意を決して、ペーパーナイフ(定規)で封を切った。中から出てきたのは、一枚の便箋。ほのかに、フローラルな香りがする。
「香り付き……!これは本気だ!」
空木の手が震える。彼はゴクリと唾を飲み込み、便箋を開いた。
『空木先生へ
突然のお手紙ごめんなさい。先生に、どうしても二人きりでお伝えしたいことがあります。今日の午後七時、理科準備室でお待ちしています。誰にも見つからないように来てください。
P.S.先生のこと、ずっと見ていました。』
読み終えた瞬間、職員室に静寂が訪れた。そして次の瞬間、爆発的な歓声が上がった。
「うおおおおお!マジだ!ガチの呼び出しだ!」
川島が自分のことのように喜んで飛び跳ねる(床が揺れる)。
「『ずっと見ていました』……。これは決まりですね。完全にロックオンされています」
海田も珍しく興奮気味だ。
「理科準備室っていう場所のチョイスがまた、イケナイ感じがしていいですねえ」
羽上が下世話な笑みを浮かべる。
「ど、どうしよう……!俺、今日ジャージだぞ!?しかもさっき給食のカレーうどんの汁を飛ばして、胸元に黄色いシミがついてるんだぞ!」
空木がパニック状態で叫ぶ。
「大丈夫ですボス!僕の予備のネクタイ貸しますから!柔道着の帯ですけど!」
「いらんわ!」
「僕の香水を貸しましょうか?『フェロモン・スプラッシュ』っていう怪しい通販で買ったやつ」
「名前が怖いわ!」
「空木先生」
海田が空木の両肩を掴み、真剣な眼差しで見つめた。
「時刻は六時五十分。約束の時間まであと十分です。シミ抜きをしている暇はありません。このまま、男としての魅力をぶつけてきてください」
「か、海田……」
「もしフラれても、僕たちが朝まで慰めてあげますから。カラオケ代は割り勘ですけど」
「お前ら……!」
空木は涙ぐんだ。持つべきものは、やはり友(部下)である。
「よし、行ってくる!男・空木三十四歳、散ってくるぜ!」
「行ってらっしゃいませ!」
空木は風のように職員室を飛び出した。残された三人は、顔を見合わせる。
「……で、どうします?」
と羽上。
「決まっているだろう。尾行だ」
と海田。
「見届けるのが愛弟子の務めっす!」
と川島。三人は忍者(一人は巨漢)のような足取りで、空木の後を追った。
夜の校舎は静まり返っていた。廊下の突き当たりにある理科準備室。そこは普段、薬品の匂いとホルマリン漬けの生物たちが眠る、あまりロマンチックとは言えない場所だ。
空木はドアの前で立ち止まり、心臓を押さえた。バクバクと音が聞こえてきそうだ。
(誰だ……? 国語科の新人、佐々木先生か? それとも、家庭科のマドンナ、高橋先生か?)
妄想は膨らむばかりだ。彼は意を決して、ドアノブに手をかけた。
ガチャリ。
「し、失礼します……! 空木です!」
ドアが開く。薄暗い部屋の中、実験台の向こうに人影があった。白衣を着ている。後ろ姿だ。
(白衣……! 理系の先生か!)
空木の胸が高鳴る。その人物が、ゆっくりと振り返った。
「……遅かったじゃないか、空木先生」
低い、しゃがれた声。そこに立っていたのは、佐々木先生でも高橋先生でもなかった。
白髪で、瓶底眼鏡をかけた、理科の重鎮。定年間近のベテラン、大河内先生(六十四歳・男性)だった。
「……え?」
空木の思考が停止した。脳内で「春の小川」のメロディが逆再生で流れ始める。
「お、大河内先生……?え、あの、僕への手紙……」
空木が震える手でピンクの封筒を差し出す。大河内先生は眼鏡の奥の目を光らせ、ニヤリと笑った。
「ああ、読んでくれたかね。若い女の子のような字を書く練習をしてみたんだが、どうだった?最近の『ペン字講座』の成果が出ただろう?」
「……は?」
「で、本題だがね」
大河内先生が実験台の上にある「ある物」を指差した。それは、粉々に砕け散ったガラスの破片だった。
「先週、君がバスケ部のボールを探しに入ってきた時、私の愛用していたドイツ製の高級ビーカーを割ったのを覚えているかね?」
空木の顔から血の気が引いていく。記憶の彼方に、確かに「ガシャーン」という音が蘇る。あの時は急いでいたので、「あ、後で謝ろう」と思ってそのまま忘れていたのだ。
「『ずっと見ていました』よ。防犯カメラでね」
大河内先生がリモコンを操作すると、モニターに空木がビーカーを尻で薙ぎ倒して逃走する姿が鮮明に映し出された。
「……ひっ」
「弁償代、一万五千円。……まさか、逃げるつもりじゃないよね?」
大河内先生の背後に、ホルマリン漬けのカエルたちが怨念のように浮かび上がって見えた。
「は、払います! 今すぐ払いますぅぅぅ!!」
◇
廊下の陰からその様子を見ていた三人は、必死に笑いを堪えていた。
「ぷっ……くくく……!まさかの大河内先生……!」
羽上が腹を抱えて蹲る。
「『ずっと見ていました(防犯カメラで)』……! これは名言ですね。メモしておかなくては」
海田も肩を震わせている。
「ボス……ドンマイっす。一万五千円は痛いけど、命までは取られなかったっすね」
川島だけは少し同情しているようだ。その時、理科準備室から魂の抜けた空木が出てきた。足取りはゾンビのように重い。三人の姿を見つけると、彼は虚ろな目で呟いた。
「……見たか?」
「見ました。最高のコメディでした」
と海田。
「ピンクの封筒の正体が、請求書だったとは。オチとしては百点満点ですよ」
と羽上。
「うるさい……!俺の純情を返せ……!あと一万五千円返せ……!」
空木はその場に崩れ落ちた。カレーうどんのシミが、涙で滲んでいるように見えた。
翌日。職員室には、再び平和(?)な日常が戻っていた。
「あ、そうだ空木先生」
海田が思い出したように言った。
「実は今日の朝、僕の下駄箱にも手紙が入ってたんです」
「なにっ!? またか! 今度は誰の請求書だ!?」
空木が過敏に反応する。
「いえ、これは本物っぽいです。差出人の名前も書いてありますし」
海田が水色の封筒を取り出す。
「『三年B組 田中より』って」
「田中!? あの問題児の田中か!?」
「中身、読みますね」
海田が封を開ける。空木、川島、羽上が固唾を飲んで見守る。
『海田先生へ
先生の授業、いつも眠いけど聞いてます。この前、俺が落とした財布を拾ってくれてありがとうございました。中に入ってた五百円、なくなってなくてよかったです。これ、お礼です。』
封筒の中から出てきたのは、駄菓子屋で売っている「蒲焼さん太郎」が一枚だった。
「……か、蒲焼さん太郎……!」
川島が叫ぶ。
「ふっ……。あいつらしいな」
海田が少しだけ口元を緩めた。
「五百円のお礼が十円の菓子とは。利率は低いですが、気持ちは受け取っておきましょう」
「いい話じゃねえか……」
空木が感動して涙ぐむ。
「俺の一万五千円の悲劇とは大違いだ……」
「元気出してくださいよ空木さん」
羽上が空木の背中を叩く。
「空木さんには、僕たちがいるじゃないですか。……あ、そういえば空木さん、昨日の夜、理科室に行った時、鍵かけ忘れましたよね?」
「え?」
「さっき教頭先生が鬼の形相で探してましたよ。『誰だ、理科室を開けっ放しにして帰った奴は!』って」
空木の顔色が再び土色に変わる。
「……う、嘘だろ……?」
「本当です。今すぐ職員室から逃げた方がいいかもしれません」
「ひいいいい!俺はもう帰る!探さないでくれ!」
空木は脱兎のごとく職員室の窓から飛び出そうとし、海田に「ここは三階です」と冷静に止められた。
今日もまた、星ヶ丘職員室の一日は騒がしく過ぎていく。
教師たちの戦いは、まだまだ続くのだ。
(エピソード3・完)




