特別番外編 〜はじまりの春と、嵐の中の結成前夜〜
【現在:十二月三十一日 午後十時】
大晦日。世間が紅白歌合戦やカウントダウンイベントで盛り上がる中、星ヶ丘中高一貫校の職員室には、四人の男たちの姿があった。宿直当番ではない。ただ、「家で一人で年を越すのが寂しい」という理由だけで自主的に集まった、独身男たちのささやかな年越し会である。
「……あーあ。今年も終わりますねえ」
羽上が、みかんの皮を剥きながらコタツ(誰かが勝手に持ち込んだ私物)に入って言った。
「僕の美貌も、また一つ歳を重ねて円熟味を増してしまった」
「円熟味というか、目尻の小ジワが増えただけだろう」
空木が、年越しそば(カップ麺)にお湯を注ぎながら突っ込む。
「今年の汚れ、今年のうちにっす!俺、唐揚げもう一個食べていいっすか?」
川島が、オードブルの山に箸を伸ばす。
「川島先生、カロリーの繰り越しはやめてください。来年度予算がパンクします」
海田が、紅白を見ながら冷静に制する。外は静かな雪が降っていた。暖房の効いた職員室で、他愛のない会話を交わす四人。ふと、空木が天井を見上げた。
「……早いもんだな。俺たちが出会ってから、もう四年か」
その言葉に、三人の手が止まった。
「四年……。ですね。僕たちが新任で入ってきたのが、四年前の春でした」
海田が眼鏡を外して拭く。
「あの頃のボス、今よりちょっとだけ髪が多かった気がするっす」
「うるさい!気にしてるんだぞ!」
「僕も、あの頃はまだ『原石』でしたね。今はダイヤモンドですけど」
羽上がふふっと笑う。
「……覚えてるか?俺たちが初めて出会った日のこと」
空木が遠い目をする。
「忘れるわけないっすよ。あの『嵐の夜』のことっすよね?」
「ああ。……あの日がなければ、俺たちはただの同僚で終わっていたかもしれないな」
湯気の中に、四年前の記憶が蘇る。
まだ「四銃士」なんて呼ばれていなかった、春の日の記憶が。
【過去:四年前 四月一日】
桜が満開を迎えた、新年度の初日。三十歳の空木は、緊張で胃を痛めていた。
「……はあ。今日からか。新任指導係……」
空木は今年、初めて「指導教官」を任されたのだ。しかも、同時に三人の新人を一人で見ろという、教頭先生からの無茶振りだった。
『空木先生。君のその熱苦しい……いえ、情熱的な指導力で、彼らを一人前の教師に育て上げてください。期待していますよ』
教頭の言葉がプレッシャーとなってのしかかる。どんな新人が来るんだろうか。真面目で、素直で、俺のことを「先輩!」って慕ってくれるような可愛い後輩だといいな。そんな淡い期待を抱いて、空木は職員室の扉を開けた。
「おはようございます!」
そこには、すでに三人の新人が並んで待っていた。一人目は、背が高く、モデルのように整った顔立ちの男。二人目は、これまた背が高く、眼鏡をかけたインテリ風の男。三人目は、横幅がすごく広く、柔道着を着たような体型の男。
「お、おはよう。俺が指導担当の空木だ。よろしく頼む」
空木が努めて明るく声をかける。まず、インテリ眼鏡が一歩前に出た。
「初めまして。社会科の海田です。……空木先生、一つ質問があります」
「お、おう。なんだ?」
「この学校の業務フローチャートと、リスク管理マニュアルはどこにありますか?今のうちに暗記しておきたいので」
「えっ……マニュアル?いや、そんなの特にないけど……体で覚える感じで……」
「……そうですか。非効率ですね」
海田は冷ややかな目でメモを取った。 (……なんだこいつ。可愛くない!)次に、モデル風の男が髪をかき上げた。
「国語科の羽上です。よろしくお願いします。……ところで空木さん、この学校、全身鏡が少ないですね。僕の輝きを確認できないと、生徒への教育効果が半減してしまいますよ」
「は? 輝き?」
「ええ。美は力なり、ですから」
羽上はウインクを飛ばした。 (……なんだこいつ。変な奴だ!)最後に、巨漢の男が腹をさすりながら近づいてきた。
「ういーッス!数学科の川島っす!母校に帰ってこれて嬉しいっす!先輩、学食って何時からっすか?俺、朝飯食べてなくて死にそうっす!」
「まだ八時だぞ!挨拶より先に飯か!」
「腹が減っては授業ができぬっす!」 (……なんだこいつ。食いしん坊か!)
空木は天を仰いだ。生意気なインテリ、ナルシスト、食いしん坊。 クセが強すぎる。強烈な三連星だ。前途多難な一年が、こうして幕を開けた。
案の定、四月の一ヶ月間は地獄だった。海田は、ことあるごとに空木の指導方針に論理的なツッコミを入れてきた。
「先生、その精神論はエビデンスがありません」
「今の会議、メール一本で済む内容でしたね」
正論すぎて反論できない空木は、ストレスで胃薬が手放せなくなった。羽上は、仕事よりも自分の見え方を気にしていた。黒板に字を書くときも、ポーズを決めてから書くので時間がかかる。
「羽上、もっと速く書け!」
「美しさには時間が必要なんですよ、先輩」
川島は、物理的な被害をもたらした。備品の椅子を座っただけで破壊し、給食の残りをめぐって生徒と本気でジャンケンをし、廊下を走って転んで壁に穴を開けた。
「すんません!身体が止まらなかったっす!」
空木は毎日、彼らの尻拭いに追われていた。始末書を書き、教頭に頭を下げ、彼らを説教する。しかし、彼らはどこか他人事で、空木との距離は縮まらないままだった。
「……俺、指導係向いてないのかな」
四月下旬。ゴールデンウィーク直前の放課後。空木は一人、屋上の手すりにもたれて夕日を眺めていた。孤独だった。先輩らしい威厳も見せられず、ただ怒鳴ってばかりの自分。彼らはきっと、俺のことを「うるさい小男」くらいにしか思っていないだろう。
そして、運命の日がやってきた。五月二日。大型連休の谷間。天気予報は、季節外れの「春の嵐」を告げていた。午後から雨脚が強まり、夕方には暴風雨となった。電車が止まる可能性があったため、生徒たちは早めに下校させられた。教師たちも、管理職を残して帰宅の途についた。しかし、空木は残っていた。終わらない書類仕事と、新人の日誌のチェックがあったからだ。
「……あいつら、ちゃんと帰ったかな」
空木が窓の外を見ると、世界は雨に煙っていた。風が窓ガラスをガタガタと揺らしている。その時。職員室のドアが開いた。
「……あー、濡れた。最悪です」
羽上が入ってきた。びしょ濡れだ。
「あれ?羽上?帰ったんじゃなかったのか?」
「駅まで行ったんですけど、電車が止まってて。タクシーも拾えないし、戻ってきたんです」
続いて、海田と川島も戻ってきた。二人ともずぶ濡れだ。
「バスも運休です。論理的に考えて、学校に避難するのが最善策と判断しました」
「腹減ったっす……。コンビニのおにぎりも売り切れだったっす……」
結局、四人は職員室に取り残された。他の先生はすでに帰宅しており、残っているのは警備員さんだけだ。
「……参ったな。今夜はここで明かすしかないか」
空木がタオルを渡す。
「風邪引くなよ。とりあえず、乾いたジャージに着替えろ」
四人は無言で着替えた。気まずい沈黙が流れる。普段からギスギスしている四人が、嵐の夜に閉じ込められる。最悪のシチュエーションだ。その時。内線電話が鳴った。
ジリリリリ!
空木が受話器を取る。
「はい、職員室」
『あ、空木先生ですか?警備員です』
電話の向こうから、焦った声が聞こえてきた。
『大変です!裏庭の飼育小屋が!風で屋根が飛んで、ウサギたちが逃げ出したみたいなんです!』
「な、なんだって!?」
星ヶ丘学園には、名物のウサギ小屋がある。そこには、校長先生が溺愛している白ウサギ『ユキちゃん』をはじめ、五羽のウサギが飼われていた。
『私一人じゃ捕まえきれません!この嵐の中、外に出て行ってしまったら……』
「わ、分かりました!すぐ行きます!」
空木は電話を切ると、三人に叫んだ。
「緊急事態だ!ウサギが脱走した!全員で捕獲するぞ!」
「はあ? ウサギですか?」
羽上が嫌そうな顔をする。
「こんな嵐の中、外に出るんですか?服が汚れますよ」
「論理的に考えて、この暴風雨の中で小動物を探すのは困難です。二次災害のリスクもあります」
海田も動こうとしない。
「ウサギ……。食べたら美味いっすかね?」
川島だけが違うベクトルで興味を示す。
空木の中で、何かが切れた。
「お前ら……!」
空木が机をバンと叩いた。
「服が汚れる?リスクがある?そんなこと言ってる場合か!ユキちゃんたちは、生徒たちが大事に育ててきた命なんだぞ! 校長先生が毎日キャベツをあげて可愛がってる家族なんだぞ!それを……見捨てるのか!」
空木の怒号が、雷鳴のように響いた。三人がビクッとする。普段は頼りなくて、言い返せばすぐに黙る空木が、初めて見せた本気の怒り。
「俺は行く!お前らはここで震えてろ!」
空木は懐中電灯を掴み、一人で飛び出していった。
外は、立っていられないほどの暴風雨だった。雨粒が弾丸のように顔を打つ。
「ユキちゃーん!どこだー!」
空木は泥だらけになりながら、裏庭を走り回った。飼育小屋は半壊していた。中には一羽もいない。茂みの中。校舎の裏。必死に探す。しかし、見つからない。
「くそっ……!どこ行ったんだ……!」
寒さで指の感覚がなくなってくる。視界も悪い。不安と焦りで、泣きそうになる。
(やっぱり、俺一人じゃ無理か……。指導係としてもダメ、ウサギ一匹救えない……。俺はなんて無力なんだ……)
空木が泥の中に膝をつきかけた、その時。
バシャバシャバシャ!
背後から、水しぶきを上げる音がした。
「先輩!あっちの植え込みに一匹いたっす!」
振り返ると、ずぶ濡れになった川島が立っていた。その手には、茶色いウサギが抱えられている。
「川島……!」
「こいつ、すばしっこくて捕まえるの大変だったっす!でも、俺のタックルで確保したっす!」
「タックルするな!……でも、ありがとう!」
「こっちにもいましたよ。……全く、世話が焼ける子猫ちゃんたちだ」
反対側から、羽上が現れた。彼は自分の高級そうなストールで、二羽のウサギを包んでいた。
「僕のストールが泥だらけです。後でクリーニング代請求しますからね」
文句を言いながらも、その手つきは優しかった。
「残り二羽……。計算通りなら、風を避けるために室外機の裏にいるはずです」
海田が、冷静な声で言った。彼の手には、校内図面とコンパスが握られている。
「風向きと、ウサギの習性を分析しました。……あそこです!」
海田が指差した先。体育館の裏の、狭い隙間に、白い影が身を寄せ合っていた。ユキちゃんだ。
「いた!」
空木が駆け寄る。しかし、そこは側溝のすぐそばだった。雨水が濁流となって側溝を流れている。ウサギたちは、恐怖でパニックになり、側溝の方へ後ずさりしている。
「あぶない!」
一羽が足を滑らせた。濁流に飲み込まれそうになる。
「!!」
空木は、何も考えずに飛び込んだ。泥水の中に身を投げ出し、手を伸ばす。
「届けぇぇぇ!」
ガシッ。
空木の指が、ウサギの耳……ではなく、体を掴んだ。しかし、勢い余って空木自身の体が流されそうになる。
「うわっ!」
その時。
ガシィッ!
強い力で、空木の腕が掴まれた。
「離さないっすよボス!」
川島だ。彼が空木の腕を掴み、仁王立ちで踏ん張っている。
「僕も手伝います!」
羽上が川島の腰を支える。
「海田!そっちはどうだ!」
「確保しました!もう一羽も無事です!」
海田がもう一羽のウサギを抱きかかえている。
「引き上げるっす!せーの、フンッ!」
川島の怪力で、空木は泥水から引きずり出された。腕の中には、震える白いウサギがしっかりと抱かれていた。
「……はあ、はあ……」
四人は、泥まみれになって地面に転がった。雨は降り続いているが、もはや冷たくはなかった。
「……全員、無事か?」
空木が空を見上げて聞く。
「ウサギは五羽とも確保しました。……僕たちの服は全滅ですが」
海田が眼鏡(泥で前が見えない)を拭く。
「俺、腹減ったっす……。ウサギ見たら余計に……」
川島が不穏なことを言う。
「僕のヘアセットが……。もう鏡見たくない……」
羽上が髪をかき上げる。空木は、起き上がって三人の顔を見た。泥だらけで、髪もボサボサで、情けない顔。でも、今まで見た中で一番、頼もしい顔だった。
「……お前ら、最高だ」
空木がニカっと笑った。三人も、顔を見合わせて笑った。
「先輩が無茶するからですよ」
「ボスが流された時、カッパかと思ったっす」
「泥パックだと思えば、肌にいいかも」
雨音にかき消されないくらいの、大きな笑い声が響いた。これが、「四銃士」が誕生した瞬間だった。
【その後:職員室にて】
ウサギたちを安全な用務員室に預け、四人は職員室に戻った。着替えはないので、ジャージの上に毛布をかぶって震えている。
「……寒いな」
「寒いっす」
空木が給湯室へ行き、何かを持って戻ってきた。ヤカンと、四つのカップ麺だ。空木の私物の『激辛タンタンメン』。
「これしかないけど、食うか?」
「食うっす!生き返るっす!」
「……まあ、栄養バランスは最悪ですが、カロリーは必要ですね」
「辛いのは発汗作用があって美肌にいいですしね」
お湯を注ぎ、三分待つ。その三分間が、妙に温かかった。
「いただきます!」
四人で啜るカップ麺。 安っぽい味だが、高級レストランのフルコースよりも美味かった。
「……空木先生」
海田が麺を啜りながら言った。
「さっきの、『命を守る』って言葉……。非論理的でしたが、響きましたよ」
「え?」
「僕たち教師の仕事は、教科書を教えるだけじゃない。……そういうことですよね」
「……まあ、そうだな」
空木が照れくさそうに鼻をすする。
「ボス、俺、ボスのこと見直したっす!ただの口うるさいチビじゃなかったんすね!」
「一言多いぞ川島!」
「僕も、空木さんの泥だらけの背中、ちょっとだけかっこいいと思いましたよ。僕の次くらいに」
「お前もか!」
空木は、カップ麺のスープを飲み干した。胃の中から、熱いものが広がっていく。
「……俺も、お前らのこと誤解してたよ」
空木が言った。
「生意気で、自分勝手で、手のかかる後輩だと思ってたけど……。いざという時は、頼りになる仲間だな」
「仲間……ですか」
海田が少し嬉しそうに呟く。
「そうだよ。……これから先、もっと大変なことがあるかもしれない。生徒のことで悩んだり、失敗したり。……でも、この四人なら、なんか乗り越えられる気がする」
空木が右手を差し出した。
「これからもよろしくな、お前ら」
少しの間があって。川島が大きな手を重ねた。
「もちろんです、ボス!」
羽上がしなやかな手を重ねた。
「仕方ないですね。僕が華を添えてあげますよ」
最後に、海田が手を重ねた。
「……非効率なチームですが、悪くありませんね」
四つの手が重なる。外の嵐はまだ続いていたが、職員室の中は、確かな絆の熱で満たされていた。
【現在:十二月三十一日 午後十一時五十分】
「……そんなこともあったな」
空木がカップそばのスープを飲み干して言った。
「懐かしいっすねー。あの時のカップ麺の味、今でも覚えてるっす」
川島が空のオードブル容器を眺める。
「あの後、校長先生から金一封(図書カード)をもらいましたよね。『ユキちゃんを救ってくれてありがとう』って」
海田が笑う。
「僕のストールはダメになりましたけどね。まあ、名誉の負傷です」
羽上が髪をいじる。
時計の針が、十二時を指そうとしていた。除夜の鐘の音が、遠くから聞こえてくる。
ゴォォォォォン……。
「……あけましておめでとう」
空木が言った。
「「「おめでとうございます!」」」
「今年もよろしくな。……相変わらず手のかかる後輩たちだけど」
「何言ってるんですか。手のかかるリーダーを支えてるのは僕たちですよ」
海田が即答する。
「ボス、今年はもっと美味いもん食いに行くっすよ!」
「僕の美しさも、さらにアップデートされますからね」
空木は笑った。四年前の春、バラバラだった四つのピースは、今では一つの絵になっていた。凸凹で、歪だけど、最強のチーム。
「よし!初詣行くぞ!」
空木が立ち上がった。
「近くの神社まで競争だ!負けた奴が甘酒奢りな!」
「えーっ!寒いですよー!」
「走るの嫌っすー!」
「非論理的です!」
文句を言いながらも、三人は立ち上がり、コートを羽織った。四人は雪の降る外へと飛び出した。白い息を吐きながら、並んで歩く四つの背中。その足跡は、新雪の上にしっかりと刻まれていく。過去から現在、そして未来へと続く、四人の軌跡。
職員室の四銃士。彼らの物語は、まだ終わらない。新しい年も、きっと騒がしく、面倒くさく、そして最高に楽しい日々が待っているだろう。
(エピソード21・特別番外編・完)




