赤ペン地獄と幻のプレミアムカレー
定期考査期間中。それは教師にとって、一年で最も精神を削られる時期の一つである。テスト作り、試験監督、そして何よりも恐ろしい「採点」という名の苦行が待ち受けているからだ。
午後一時。昼休みだというのに、職員室の四銃士たちのデスクには、白いエベレストのような答案用紙の山がそびえ立っていた。
「読めん……!全く読めんぞ!これは日本語なのか!?」
静まり返った職員室に、空木の悲鳴が響き渡った。彼は赤ペンを握りしめたまま、一枚の答案用紙を頭上で透かして見ている。まるで古文書の解読に挑む考古学者のようだ。
「どうしました空木先生。また生徒が独自の言語を発明しましたか?」
隣の席で、恐ろしいスピードで採点を進めていた海田が、手を止めずに尋ねる。彼のペン先は残像が見えるほど速い。
「聞いてくれ海田!現代文の記述問題だ。『主人公の心情を答えよ』という問いに対して、こいつはミミズがのたうち回ったような線を描いてきた!解読班を呼べ!」
「どれどれ」
向かいの席から川島が身を乗り出した。その拍子に、彼の腹が机の上の消しゴムカスを大量に床へ追いやった。
「うーん……これ、『つらい』って書いてあるんじゃないっすか?ほら、このグニャグニャした線が涙に見えなくもない」「なるほど。テストが難しすぎて『つらい』という、生徒自身のダイイングメッセージか。……バツだ!」
空木は無慈悲に大きなバツを書き込んだ。
「厳しすぎますよ空木さーん。僕なら『その気持ちわかるよ』ってコメント書いて三角あげますけどね」
羽上が背伸びをしながら言った。彼の手元には、まだ手付かずの答案用紙の山がある。
「羽上、お前さっきから全然進んでないじゃないか。何してるんだ?」
「いやあ、生徒の珍回答が面白すぎて、いちいちスマホで写真撮ってインスタのストーリー(親しい友達限定)にあげようかなーって悩んでて」
「やめろ! 情報漏洩でクビになるぞ!で、どんな回答だ」
結局、気になる空木。
「これです。漢字の読み問題。『健気』をなんて読んだと思います?『たけき』ですよ。『たけき』って誰だよ」
「強そうな名前だな」
と川島が笑う。
「あとこれ。『躊躇』の読み方。『ためらい』って書いてあるんですよ。意味は合ってるのに!惜しい!」
「それはむしろ褒めてやりたいな」
空木が苦笑する。 この四人の間では、採点中の珍回答報告会は唯一の娯楽となっていた。
「僕の社会科もありましたよ」
と海田が口を開く。
「『徳川家康が江戸幕府を開いたのは何年か』という問題で、『一六〇三年』と書いてありました」「(たぶん)って何だよ。自信なさげだな」
「なので、僕も赤ペンで『正解』と書いてマルにしました」
「お前も適当かよ!」
「数学もすごいっすよ」
川島がおにぎり(本日三個目)を開封しながら言った。
「『Xの値を求めよ』って問題で、X=5って答えが出た後に、丁寧に『今まで見つからなくてごめんね』ってメッセージが添えてありました」
「Xは迷子だったのか」
「感動したので花丸あげました」
「お前ら……採点基準がガバガバすぎるだろ」
空木は呆れたが、自分の手元の答案に目を落とし、再び頭を抱えた。
「俺なんて……『作者の意図を答えよ』って問題で、『原稿料が欲しかった』って書かれたんだぞ。あまりにリアリストすぎて、何も言えねえ……」
採点の疲れがピークに達した頃、職員室に魅惑的な香りが漂い始めた。スパイスの効いた、濃厚で、胃袋を直接掴んで揺さぶるような暴力的な香り。
「こ、この匂いは……!」
川島の鼻が警察犬のようにピクピクと動く。
「今日は月に一度の『星ヶ丘特製・プレミアム牛すじカレー』の日……!」
そう。この学校の食堂は、月に一度だけ、有名ホテルで修行したシェフ(現在は学食のおじちゃん)が本気を出すカレーの日があるのだ。生徒も教師も、この日は目の色が変わる。
しかし、四人は採点地獄の真っ最中。食堂に行く時間などない。絶望的な空気が流れたその時、食堂のおばちゃんがワゴンを押して職員室に入ってきた。
「先生たち〜、お疲れ様! 採点で忙しいと思って、鍋ごと持ってきたわよ〜!」
「「「女神!!!」」」
四人は同時に叫び、ワゴンに殺到した。 そこには、寸胴鍋に入った黄金色のカレーと、炊きたてのご飯。そして福神漬けのタッパー。
「ありがとうございます! 一生ついていきます!」
川島が感涙にむせびながら寸胴の蓋を開ける。
しかし。
「……あれ?」
川島の動きが止まった。 空木、海田、羽上も鍋の中を覗き込む。
鍋の底には、確かにカレーがあった。しかし、その量はどう見ても……
「……三人分しかないな」
空木が重々しく呟いた。そう。四人に対して、カレーは三人分。残酷な数式がそこに成立していた。
沈黙。先ほどまでの和やかな空気は消え失せ、職員室は一瞬にして戦場へと変貌した。四人の目が、獲物を狙う野獣のように鋭く光る。
「……さて」
最初に口を開いたのは、最年長の空木だった。
「年功序列という言葉を知っているかね、君たち」
「空木先生」
海田が冷徹な声で遮る。
「ここは学校です。実力主義が支配する世界。年功序列などという古臭い制度は、明治維新と共に終わりました」
「終わってねえよ!日本企業の伝統だよ!」
「僕は育ち盛りなんで、栄養が必要っす!」
川島が巨体を揺すって主張する。
「川島先生。貴方の体脂肪率は既に生命維持に必要なラインを遥かに超えています。これ以上の摂取は、物理的に柔道着の帯が千切れるリスクを高めるだけです」
海田の論理的な攻撃が川島に突き刺さる。
「うっ……でも、カレーは飲み物だからカロリーゼロっすよ!」
「その理論、医学会に発表してきてください。笑われますよ」
「まあまあ、喧嘩はやめましょうよ」
羽上が爽やかな笑顔で割って入る。
「ここは平和的に解決しましょう。そう、『一番イケメンな人』が辞退するっていうのはどうですか?僕、みんなのために我慢しますよ?」
三人の視線が羽上に集中した。
「……お前、自分が食べる気満々だろ」
と空木。
「その『辞退するフリして好感度上げつつ、結局譲ってもらうのを待つ』作戦、透けて見えますよ」
と海田。
「羽上、お前はラッキョウでも食ってろ」
と川島。
交渉は決裂した。 ならば、力で決めるしかないのか。 川島が柔道の構えを取り、空木がバスケのディフェンスの姿勢をとる。海田はペンのキャップを外して臨戦態勢(?)に入った。
その時、海田が不敵に笑った。
「野蛮ですねえ。僕たちは教師ですよ?知性で勝負しましょう」
「知性だと……?」
「ルールは簡単です。『採点が早く終わった順』にカレーを食べる権利を得る。どうです?」
空木がゴクリと唾を飲み込む。スピード勝負なら、若くて事務処理能力の高い海田が圧倒的に有利だ。しかし、空木にも「記述式の部分点を適当につける」という裏技(職権濫用)がある。
「……いいだろう。受けて立つ!」
「望むところっす! 数学の答え合わせなんて、記号さえ合ってれば一瞬っすからね!」
「僕もやりますよー。フィーリング採点法を見せてやります」
「では……位置について。よーい、スタート!」
ゴングが鳴った。 職員室に、凄まじいペンの音が響き渡る。カッカッカッカッ!シュッ、シュッ!
「おりゃあああ! 合ってる! 合ってる!はいオッケー!」
川島が猛スピードで丸をつけていく。
「ちょ、川島!お前、途中計算見てないだろ!答えしか見てないだろ!」
「結果が全てなんすよ世の中は!」
「ふっ、甘いですね」
海田は両手に赤ペンを持つ二刀流を披露していた。
「僕は右手で記号問題、左手で語句問題を同時に採点しています」
「人間じゃねえ!阿修羅かお前は!」
空木は苦戦していた。 国語の記述問題は、一文字ずつ読まなければならない。
「くそっ……! なんだこの字は!『夏目漱石』の『漱』の字が、どう見ても『激』に見える……!『夏目激石』って誰だよ! ロックバンドか!」
その時、羽上がスッと立ち上がった。
「終わりました〜」
「「「はあ!?」」」
三人が手を止めて羽上を見る。
「羽上、お前、まだ半分も残っていただろ!?」 「いやあ、実はですね。作文の採点、面倒くさいんで『AIに読み込ませて採点させるアプリ』使おうとしたんですけど、エラー出たんで、とりあえず全員に『感動した!』って書いて満点にしときました」
「貴様ァァァ!! 教師の風上にも置けねえ!」
空木が激怒して羽上の胸ぐらを掴もうとした瞬間。
ガララ……。 職員室の扉が開いた。
現れたのは、白髪の上品な老紳士。 この学校の校長先生である。
「おや、みんな熱心だねえ。採点かな?」
四人は一瞬で石像のように固まった。 もみ合いになっている空木と羽上。二刀流のまま固まる海田。おにぎりを口にくわえたままの川島。
「あ、いや、これはその……教育的指導のシミュレーションを……」
空木がしどろもどろに言い訳をする。
校長はニコニコしながら、部屋の中央にあるワゴンに目を留めた。 そこには、冷めかけた、しかし未だ芳醇な香りを放つカレー鍋。
「おっ、カレーじゃないか。懐かしいねえ。私が若い頃も、よく残業しながらカレーを食べたものだよ」
校長がおもむろに皿を手に取る。 四人の顔色が青ざめる。 ま、まさか……。
「ちょうど小腹が空いていてね。……頂いてもいいかな?」
「あ……」
「その……」
ダメです、と言える勇者はこの中にはいなかった。 校長はたっぷりと、それはもうたっぷりと、三人分のカレーのルーを皿によそった。ご飯も山盛りにした。
「いやあ、ありがとう。君たちも、頑張りたまえよ」
校長は「大盛りカレーライス」を手に、優雅に校長室へと去っていった。後には、綺麗に空になった寸胴鍋と、白いご飯がほんの少しだけ残されたワゴン。そして、魂の抜け殻となった四人の男たちが残された。
三十分後。 四人は無言で、給湯室でお湯を沸かしていた。それぞれの手に握られているのは、コンビニのカップ麺。
「……シーフード味、美味しいですね」
羽上が虚ろな目で呟いた。
「……ああ。染みるな」
空木が麺をすする。その背中は哀愁で満ちていた。
「校長先生、あの細い体のどこにあの量のカレーが入ったんすかね……」
川島が恨めしそうに言う。
「ブラックホール胃袋説が有力ですね」
海田が冷静に分析するが、その手も震えていた。
結局、争いは何も生まない。残るのは、伸びかけたカップ麺と、終わらない採点の山だけである。
「よし……採点に戻るか」
空木が立ち上がった。
「そうですね。……あ、空木先生」
「ん?」
「さっきの『夏目激石』の生徒、よく見たら裏面に『先生、いつも授業楽しいです』って書いてありますよ」
空木はハッとして、その答案を奪い取った。 汚い字の端っこに、確かに小さなメッセージが書かれている。
「……ふっ。……あいつ、字は汚いけど、心は綺麗だな」
空木は赤ペンを走らせた。 『夏目漱石』の横に、小さく『おまけ』と書いて、マルをつける。
「空木さん、甘いっすねえ」「うるさい。教師の特権だ」
職員室に、少しだけ温かい空気が戻った。 彼らの戦いは続く。赤インクが尽きるまで、あるいは、次の給料日までは。
(エピソード2・完)




