合唱コンクールの乱と奇跡の四重奏(カルテット)
十月。神無月。空が高くなり、校庭の木々が色づき始めるこの季節。星ヶ丘中高一貫校は、一年で最も「騒がしい」時期を迎えていた。どこからともなく聞こえてくるピアノの音色。廊下で響く発声練習の声。そして、教室から漏れ聞こえる怒号と悲鳴。そう、『合唱コンクール』のシーズンである。午後六時。放課後の職員室。空木は、教頭先生の目の前の「監視席」で、深いため息をついていた。
「……はあ。胃が痛い。喉も痛い。耳も痛い」
空木の手元には、のど飴の袋と、胃薬の箱が並んでいる。担任を持つ2年B組が、今、崩壊の危機に瀕していたのだ。
『緊急通信。ボスのライフポイントが低下中。救援求む』
パソコンのチャット画面に、海田からのメッセージが表示された。
『了解。こちら、甘味補給部隊。シュークリームを確保したっす』
川島からのレス。
『僕は今、パック中なので顔が出せませんが、心の中で応援しています』
羽上からのレス。四人は業務終了後、いつものように(こっそりと)家庭科室に集結した。ここは彼らの秘密基地であり、愚痴のこぼし場所である。
「聞いてくれよ、みんな……」
空木がシュークリームを頬張りながら、悲痛な声で訴える。
「うちのクラス、全然まとまらないんだ。『男子が真面目に歌わない問題』が深刻化しててさ。今日なんて、指揮者の女子が指揮棒をへし折って泣き出しちゃって……」
「あるあるですね」
海田がコーヒーを淹れながら頷く。
「合唱コンクールにおける『女子のヒステリー』と『男子の無気力』の衝突は、通過儀礼のようなものです。論理的に解決するのは不可能です」
「俺のクラス(1年D組)は平和っすよ」
川島が自慢げに言う。
「『優勝したら焼肉おごってやる』って言ったら、全員がオペラ歌手みたいに歌い出したっす」
「お前、それは賄賂だぞ。あとで破産するぞ」
空木がツッコむ。
「僕のクラス(3年C組)は、選曲が完璧ですからね」
羽上が手鏡を見ながら言う。
「曲目は『愛の賛歌』。僕が指揮をして、愛を語る。完璧です」
「生徒が主役だろ!」
「とにかく、空木先生」
海田が真面目な顔に戻る。
「クラスの問題も山積みですが……もっと重大な問題があるのを忘れていませんか?」
「……え? なんだ?」
「教頭先生からの『特命』ですよ」
その言葉を聞いた瞬間、空木の顔色が青ざめた。そうだった。一週間前の職員会議で、教頭先生が高らかに宣言したのだ。
『今年の合唱コンクールでは、生徒へのサプライズとして、若手教員による特別合唱を披露します!メンバーは……職員室の四銃士、君たちだ!』
「……忘れたかった。記憶から消去していたのに……」
空木が頭を抱える。
「しかも、曲目はアカペラで『翼をください』。……難易度高すぎます」
海田が楽譜(教頭の手書きコピー)を広げた。
「俺たち四人でハモるなんて、奇跡が起きない限り無理っすよ」
川島が嘆く。
「俺の声量、マイクいらないレベルっすから、みんなの声を消しちゃうっす」
「僕はソロなら自信ありますが、ハモリはちょっと……。主役以外やりたくないですし」
羽上が我儘を言う。
「そして何より……」
海田が空木を見た。
「リーダーである空木先生が、致命的な『音痴』であるという事実」
「言うなァァァ!俺だって悩んでるんだ!」
空木が絶叫した。そう、空木は熱血教師だが、音楽の才能だけは神様から与えられなかった男なのだ。彼の歌声は「ジャイアンのリサイタル」と形容されるほど破壊力がある。
「とにかく、練習するしかありません。本番は三日後です。生徒の前で恥をかくわけにはいきませんよ」
こうして、クラスの指導と、自分たちの練習という二重苦の日々が始まった。
【戦場1:2年B組教室 〜男子 vs 女子の冷戦〜】
翌日の放課後。2年B組の教室は、氷河期のような冷たさに包まれていた。黒板の前には、腕を組んで仁王立ちする女子生徒たち。指揮者の委員長、佐藤さん(鬼軍曹)を筆頭に、怒りのオーラが立ち上っている。対する窓際の後ろ席には、だらけた姿勢で座る男子生徒たち。その中心には、あのお調子者の田中がいる。
「ねえ、田中。口パクはやめてって言ったよね?」
佐藤さんの声が低い。
「えー?歌ってるよー。心のなかで」
田中がヘラヘラと答える。
「心で歌われても聞こえないの!本番まであと二日しかないんだよ!やる気ないなら帰って!」
「おー、帰っていいの? ラッキー。帰ろうぜみんな」
男子たちが立ち上がろうとする。
ガラッ! 教
室のドアが勢いよく開いた。
「待てェェェイ!!」
飛び込んできたのは、担任の空木だった。 汗だくで、ネクタイが曲がっている。
「先生……」
佐藤さんが泣きそうな顔で見る。
「田中!お前たち、また女子を困らせているのか!」
空木が教卓をバンと叩く。
「だってさー先生、合唱とかダサいし。俺らロックしか聞かないし」
田中が悪びれもせずに言う。
「ダサいだと……?」
空木が田中の前に歩み寄る。
「いいか田中。合唱というのはな、一人ではできないんだ。隣の奴の声を聴き、自分の声を重ね、一つのハーモニーを作る。それは……『信頼』なんだよ!」
「信頼……?」
「そうだ!お前がバスケでパスを出す時、仲間を信じるだろう?それと同じだ!声を出すというのは、自分をさらけ出すことだ。恥ずかしがっているというのは、仲間を信じていない証拠だ!」
空木の熱弁。しかし、男子たちの反応は薄い。
「へー。でも俺、バスケ部じゃないし」
「ぐぬぬ……」
空木が言葉に詰まる。正論だけでは、思春期の男子の心は動かない。
「……分かった。じゃあ、俺が手本を見せてやる」
空木が決意の表情で言った。
「え? 先生が?」
「そうだ。俺たち教員も、今度合唱をする。……今日の放課後、音楽室で練習するから、お前ら見に来い。大人の本気を見せてやる!」
売り言葉に買い言葉。空木は自らハードルを上げてしまった。
◇
【戦場2:音楽室 〜地獄のカルテット〜】
その日の夜。音楽室。2年B組の男子数名(田中含む)が、こっそりと覗きに来ていた。中では、四銃士が練習を始めていた。
「いいですか、テイク1です。いきますよ」
海田が指揮棒を振る。
「せーの!」
♪ いま〜 わたし〜の ねがい〜ごとが〜
……カオスだった。まず、川島の声がデカすぎる。
「ゴォォォォォ!」
という轟音のような低音が、メロディを塗りつぶしていく。羽上は、無駄にビブラートを効かせすぎて、演歌のようになっている。 海田は正確だが、抑揚がゼロで、音声合成ソフトが歌っているようだ。
そして、空木。
彼は一生懸命だった。顔を真っ赤にして、首に青筋を立てて歌っている。しかし。音程が、半音どころか、異次元へ旅立っていた。
♪ かな〜うなら〜ば〜(ズレてる) つばさ〜が〜ほしい〜(さらにズレる)
廊下で聞いていた田中たちが、腹を抱えて笑いをこらえている。
「ぶっ……!先生、やべえ!」
「ジャイアンだ!リアル・ジャイアンだ!」
「川島先生の声、工事現場かよ!」
曲が終わった。 音楽室に、不協和音の余韻が残る。
「……ひどいですね」
海田が冷静に言った。
「これでは、感動どころか放送事故です。生徒の鼓膜を破壊します」
「ボス……俺、自分の声で耳がキーンとするっす……」
川島が耳を押さえる。
「空木さん、あなたフリーダムすぎますよ。どこへ飛んでいくんですか」
羽上が呆れる。空木は、膝から崩れ落ちた。
「……ダメだ。俺には無理だ。生徒に偉そうなこと言っておいて、このザマか……」
その時。
ガラッ!
後ろのドアが開いた。
「先生たち!ヘタクソすぎるよ!」
田中たちが入ってきた。 ニヤニヤ笑っているが、その目は楽しそうだ。
「田中……!お前ら、見てたのか!」
「見てたよ。腹痛い。……でもさ」
田中が、少しだけ真面目な顔になった。
「あんなに下手なのに、なんか……楽しそうじゃん」
「え?」
「一生懸命なのは伝わったよ。空木先生の顔、必死すぎてウケるけど」
他の男子生徒も頷く。
「俺らもさ、ちょっと練習してみようかなって気になったわ」
「先生よりはマシに歌える自信あるし」
空木が立ち上がった。
「……そうか。お前ら、やってくれるか」
「おう。その代わり、先生たちももっと練習しろよな!本番、楽しみにしてるから!」
生徒たちが帰っていく。空木は、拳を握りしめた。
「……聞いたか、みんな。生徒に励まされちまったぞ」
「ですね。……これは、負けられません」
海田が眼鏡を光らせる。
「論理的な分析はやめます。ここからは『魂』の領域です」
「俺、腹から声出すのやめるっす!心から出すっす!」
川島が吠える。
「僕も、ビブラート封印します。ストレートな愛を届けます」
羽上が髪をかき上げる。
「よし!特訓だ!朝までやるぞ!」
そこから、地獄の猛特訓が始まった。音楽の先生(厳しいおばあちゃん先生)を叩き起こして指導を仰ぎ、喉が枯れるまで歌い続けた。
【決戦の日:合唱コンクール本番】
体育館は熱気に包まれていた。保護者席も満員。各クラスの発表が進んでいく。1年生の元気な歌声。3年生の完成されたハーモニー。羽上のクラス(3年C組)は、羽上の指揮が無駄に派手すぎて笑いが起きたが、歌自体は素晴らしかった。川島のクラス(1年D組)は、全員が焼肉パワーで絶叫に近い声量を見せつけ、審査員を圧倒した。そして、2年B組の出番。空木のクラスだ。ステージに上がる生徒たち。男子も、女子も、緊張した面持ちで並ぶ。指揮者の佐藤さんが、空木の方を見た。空木は、舞台袖から大きく親指を立てた。
ピアノのイントロが始まる。曲は『COSMOS』。
♪ 夏の草木が 茂るように……
歌声が響く。女子の透き通るようなソプラノ。そして、男子の低音。田中が、口を大きく開けて歌っている。他の男子たちも、真剣な表情だ。決して上手くはないかもしれない。音程が外れる箇所もある。でも、声が一つになっている。
サビの部分。
♪ 君も 星だよ みんな 生きる……
男子の声が、女子の声を支えるように力強く響いた。佐藤さんの指揮棒が、涙で滲んで見える。舞台袖の空木も、すでに号泣していた。
「……あいつら、やりやがった……」
歌が終わり、会場から大きな拍手が送られた。田中が照れ臭そうに鼻をこすりながら降りてくる。
そして、プログラムの最後。『教員有志による特別合唱』のアナウンスが流れた。会場がざわつく。幕が上がり、四人の男たちがステージ中央に立っていた。お揃いの白いシャツ(川島だけサイズがなくてピチピチ)に、黒いスボン。
「えー、生徒の皆さん」
空木がマイクを持って一歩前に出た。
「君たちの素晴らしい歌声に、心から感動しました。……大人は、君たちに負けていられません。不器用な大人たちの、本気の叫びを聞いてください」
クスクスという笑い声が起きるが、空気は温かい。
「曲は、『翼をください』」
海田が合図を出す。伴奏なし。完全アカペラだ。
せーの。
♪ いま〜 わたし〜の ねがい〜ごとが〜
……奇跡が起きた。川島の爆音は、他の三人を包み込むベース音となり、心地よい重低音を響かせている。羽上のビブラートは、ソロパートでのアクセントとなり、哀愁を誘う。海田の正確な音程が、全体のガイド役となり、崩壊を防いでいる。そして、空木。 彼の声は、相変わらず少しズレていた。しかし、その「ズレ」が、不思議なことに、三人の完璧すぎる和音に「人間味」というスパイスを加えていたのだ。必死で、泥臭くて、真っ直ぐな声。
♪ この〜 おおぞら〜に つばさ〜をひろ〜げ〜
サビで四人の声が重なる。美しい……とは言えないかもしれない。でも、熱い。魂が震えるような、男たちの合唱。最前列で見ていた田中が、目を見開いていた。
「すげえ……。先生たち、マジだ……」
♪ とんで〜 ゆき〜たい〜よ〜
最後のロングトーン。空木の声が裏返りそうになったが、隣の海田と羽上がさりげなくフォローし、川島が音量でカバーした。四人の絆が見えた瞬間だった。歌が終わった。一瞬の静寂。
そして。
ワアアアアアアアッ!!
割れんばかりの拍手と歓声。
「先生ー!最高ー!」
「アンコール!アンコール!」
「川島先生、ボタン弾けそう!」
空木は肩で息をしながら、会場を見渡した。生徒たちが笑っている。拍手をしてくれている。
「……やったな」
空木が呟く。
「ええ。計算以上のハーモニーでした」
海田が満足げに眼鏡を直す。
「ボス、俺、腹減って倒れそうっす……」
川島がフラフラする。
「僕の高音、天使みたいでしたよね?」
羽上がドヤ顔をする。
結果発表。2年B組は、見事『金賞』を受賞した。佐藤さんが泣き崩れ、田中たちが
「よっしゃー!」
と抱き合っている。空木は、クラスの生徒たちの輪に入っていった。
「先生!やったよ!」
「俺ら、金賞だよ!」
「ああ……。お前ら、最高にかっこよかったぞ!」
空木が生徒たちの頭をくしゃくしゃに撫でる。
「先生たちの歌も、まあまあだったよ」
田中がニカっと笑う。
「音程ヤバかったけど、なんか感動したわ」
「うるさい!あれが味なんだよ!」
◇
その夜。四人は焼肉屋にいた。打ち上げだ。
「かんぱーい!!」
ジョッキがぶつかる音。網の上では、川島のための特盛カルビが焼かれている。
「いやあ、終わりましたねえ」
空木がビールを飲み干す。
「一時はどうなるかと思ったけど」
「ですね。でも、空木先生のあの音痴が、逆に良い味を出してましたよ」
海田が肉を焼きながら言う。
「『不協和音の奇跡』と名付けましょう」
「褒めてるのか貶してるのかどっちだ」
「ボス、俺、来年もやりたいっす!今度は『第九』とかどうっすか?」
川島が肉を口いっぱいに頬張る。
「ドイツ語かよ!無理だろ!」
「僕はミュージカルがいいですね。『レ・ミゼラブル』とか」
羽上が夢を語る。
笑い声が響く。喉は痛いし、身体はクタクタだが、心は晴れやかだった。空木は思った。学校って、やっぱいいな。生徒と一緒に成長して、仲間と一緒にバカやって。
「……よし、食うぞ‼︎明日は声が出なくてもいい!今日は祭りだ!」
「「「オーッ!!」」」
四銃士の夜は更けていく。彼らの歌声は、きっと生徒たちの心にも、そしてこの星ヶ丘の空にも、長く残ることだろう。ただし、翌日の授業で四人とも声がガスガスになっていて、生徒に爆笑されたのは言うまでもない。
(エピソード19・完)




