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職員室の四銃士  作者: 花曇り


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17/22

灼熱のサバイバルと深夜の怪談大会

 七月中旬。梅雨明けと共に、日本列島は太平洋高気圧という名の透明な蓋に覆われ、逃げ場のない蒸し風呂と化した。連日の猛暑日。最高気温三十八度。アスファルトの上では陽炎が揺らめき、セミの鳴き声が脳みそを直接揺さぶってくるような、そんなある日の午後。星ヶ丘中高一貫校の職員室で、悲劇は起きた。

ブツン……。  ヒューン……。

不吉な音が響き、天井に埋め込まれた業務用エアコンの送風口が、ゆっくりと、まるで断末魔を迎えるかのように閉じていったのだ。

「……おい」

空木が、採点中の赤ペンを止めて天井を見上げた。額から一筋の汗が流れ落ち、答案用紙に赤いシミを作る。

「……嘘だろ?止まったのか?このタイミングで?」

隣の席では、海田がパソコンのキーボードを叩く手を止めていた。彼の眼鏡は、湿度の上昇と共に一瞬で白く曇った。

「……室温上昇を確認。現在の室温、三十一度。湿度、七十パーセント。……これは、生命維持の限界ラインを突破する予兆です」

部屋の隅、窓際の席からは、すでにうめき声が聞こえていた。

「あづい……。とける……。俺のラードが……液体になる……」

川島である。彼はすでに椅子の形に溶けかかっていた。ワイシャツは汗でスケルトン状態になり、机の上に置かれたチョコレート菓子はドロドロの茶色い液体と化している。

「嫌だぁぁぁ!エアコンつけてぇぇ!僕のファンデーションが!化粧崩れが!」  

入り口付近で、羽上が悲鳴を上げた。彼はポータブル扇風機を三台、顔に向けて回していたが、熱風を浴びているだけで効果は皆無だった。空木が内線電話を掴んだ。

「事務室!事務室!エアコンが息をしていない!至急、蘇生措置を頼む!」

電話のむこうから、事務長先生の申し訳なさそうな声が聞こえてきた。

『あー、空木先生。今、業者に連絡したんですがね……。この猛暑で修理依頼が殺到していて、最短で来られるのが明後日だそうです』

「明後日!?それまで俺たちは干物になれと言うんですか!」

『扇風機をかき集めて持って行きますから、なんとか耐えてください。では』  

ガチャリ。

通話が切れた。空木は受話器を握りしめたまま、絶望的な目で三人を見た。

「……だ、そうだ。明後日まで、ここはサウナだ」

職員室に、絶望の溜息が充満した。期末テストの採点、通知表の作成、夏期講習の準備。やることは山積みだ。帰るわけにはいかない。しかし、この環境で作業を続ければ、確実に誰かが熱中症で運ばれる。特に、脂肪という名の断熱材をまとった川島が危ない。

「……移動しましょう」  

海田が眼鏡を拭きながら立ち上がった。

「論理的に考えて、ここに留まるのは自殺行為です。校内で、エアコンが効いている別の場所へ避難すべきです」

「ど、どこに行くんだ?教室は生徒が部活で使ってるし、図書室は満員だし……」

海田がニヤリと笑った。

「一箇所だけ、ありますよ。……『開かずの資料室』が」

        

 『開かずの資料室』。それは北校舎の最上階、突き当たりにある古い部屋だ。かつては重要な書類や文化財を保管していた場所だが、今はほとんど使われていない。しかし、文化財保護のために、そこだけ独立した強力な空調設備が導入されているという噂があった。そして、もう一つの噂。そこには、『出る』という噂があった。

「ま、マジで行くんですか……?あそこ、夜な夜な『首なし用務員』がモップを持って歩いてるって話っすよ……」  

川島が汗だくの顔で怯える。

「背に腹は変えられません。熱中症で倒れるか、幽霊に会うか。どちらを選びますか?」  

海田が冷徹に問う。

「……涼しいなら、幽霊でもなんでもいい!」  

空木が決断した。

「行くぞ!採点道具を持って、北校舎へ大移動だ!」

四人は、それぞれの荷物を抱えて職員室を脱出した。廊下も暑い。階段も暑い汗を垂れ流しながら、ゾンビのような足取りで北校舎を目指す。最上階。突き当たりの重厚な鉄扉の前。

「……ここか」  

空木がドアノブに手をかける。

「鍵は開いているのか?」

「以前、教頭先生が隠し持っていたスペアキーの場所を目撃しました。……ここです」  

海田がドア枠の上を探ると、埃まみれの鍵が出てきた。

「セキュリティ意識が低すぎますね」

ガチャリ。  

重い音を立てて、ドアが開いた。

ヒュオオオオオ……。  

中から、冷気が吹き出してきた。それは、天国の風だった。

「す、涼しいいいいい!」  

川島が叫んで飛び込んだ。

「生き返るっす!ここはアラスカっすか!」

中は薄暗く、埃っぽい匂いがしたが、確かにエアコンがガンガンに効いていた。設定温度十八度くらいだろうか。部屋の中央には大きな会議用テーブルがあり、壁際には古い文献や剥製が並んでいる。

「極楽だ……。もうここから一歩も出たくない……」  

羽上が長机の上に寝転がる。

「汗が引いていく……。美肌が守られた……」

「さあ、仕事です。涼しいうちに終わらせましょう」  

海田がコンセントを探し、パソコンを繋ぐ。

四人はテーブルを囲んで座った。外の猛暑が嘘のような、冷え冷えとした空間。しかし、空木は背中にゾクッとするものを感じていた。

「……なんか、視線を感じないか?」

「気のせいですよ、ボス。ここにあるのは剥製だけっす」  

川島が指差した棚には、ガラスの目が光るフクロウやイタチの剥製が並んでいた。

「……あれに見られてると思うと、採点の手が進まないな」

        

 時刻は午後八時を回った。外はすっかり暗くなっている。資料室の窓ガラスには、自分たちの顔と、背後の暗闇だけが映っている。

カッカッカッ……。  

四人のペン走る音と、キーボードを叩く音だけが響く。

「……終わらねえ」  

空木がペンを投げ出した。

「なんで現代文の記述問題って、こんなに採点が面倒なんだ……。『主人公の気持ちを答えよ』って、俺が主人公の気持ちを知りたいよ。『早く帰ってビール飲みたい』って書いてあったら丸にしたい」

「ボス、俺も限界っす。……腹減ったっす」  

川島が机に突っ伏す。

「涼しくなったら、食欲が復活したっす。ここにある剥製、唐揚げにしたら美味いっすかね?」

「剥製を食うな。防腐剤まみれだぞ」

「……ちょっと、休憩しませんか?」  

羽上が提案した。

「あまりに静かすぎて、逆に怖くなってきました。何か、気晴らしをしましょうよ」

「気晴らし?」

「そう、例えば……怪談とか」

羽上がニヤリと笑った。懐中電灯を取り出し、下から自分の顔を照らす。

「やめろ羽上!俺はそういうの苦手なんだ!」  

空木が拒否反応を示す。

「いいじゃないですか、夏らしくて。このシチュエーション、最高ですよ」  

海田も眼鏡を光らせて乗ってきた。

「科学的に解明できない現象について考察するのは、知的好奇心を刺激します」

「多数決ですね。じゃあ、言い出しっぺの僕から」  

羽上が語り始めた。

「これは、僕が教育実習生だった頃の話です……」

羽上の声が低くなる。 深夜の教室。 忘れ物を取りに行った実習生。 廊下の突き当たりに見えた、白い影……。

「……近づいてみると、それはマネキンだったんです。でも、そのマネキンが……僕を見て、ニヤリと笑ったんですよ」

「ひいっ!」  

空木が耳を塞ぐ。

「で、よく見たら、そのマネキンの顔……教頭先生にそっくりだったんです」

「オチが弱いな!」  

空木がツッコむ。

「次は俺っす」  

川島が身を乗り出す。懐中電灯の光が、彼の二重顎に陰影を作る。

「これは、俺が夜中にラーメン屋に行った時の話っす……」

「食いもんの話かよ!」

「店に入ったら、客が一人もいなくて。でも、厨房からは『ヘイお待ち!』って声が聞こえるんすよ。……で、カウンターを見たら、ドンブリの中に……麺じゃなくて、髪の毛がギッシリ入ってて……」

「うわあああ!気持ち悪い!やめろ!」  

空木が本気で嫌がる。

「で、店主が振り返ったら、顔がなくて、ただ口だけがあって、『替え玉はいかがっすか?』って……」

「お前が替え玉頼みすぎた幻覚だろ!」

「最後は僕ですね」

海田が静かに口を開いた。

「これは、この学校の……この資料室にまつわる話です」

「やめろ海田!ご当地怪談はやめろ!」

「昔、ここで一人の生徒が、夏休みの補習中に閉じ込められたそうです。……エアコンの設定温度を下げすぎて、凍死したとかしないとか」

「設定温度下げすぎただけで凍死するか!」

「それ以来、夜な夜なこの部屋から、『寒い……寒い……設定温度を上げてくれ……』という声が聞こえるそうです」

ヒュオオオオオ……。  

タイミングよく、エアコンの風が強まった。

「……なあ、海田」  

空木が震える声で言った。

「さっきから、妙に寒くないか?設定温度、何度になってるんだ?」

「十八度ですが」

「下げすぎだ!二十八度にしろ!エコじゃないし、怪談とリンクしすぎて怖い!」

空木がリモコンを探そうとした、その時。

カタッ……。

部屋の奥。 書棚の陰から、物音がした。

「……え?」  

四人の動きが止まった。

カタカタカタ……。  

今度ははっきりと聞こえた。何かが、小刻みに震えるような音。

「な、なんだ? ネズミか?」  

空木が海田の後ろに隠れる。

「……ボス、ネズミにしては音がデカイっす」  

川島が手近にあったほうきを構える。

「……見に行きましょう」  

海田が懐中電灯を持つ。

「い、嫌だ!俺はここで待ってる!」

「リーダーでしょう。先頭を歩いてください」  

海田に背中を押され、空木は渋々、音のする方へ歩き出した。書棚の角を曲がる。そこには、古い木箱が積まれていた。その木箱の一つが、ガタガタと揺れていたのだ。

「ひいっ!ポルターガイスト!」  

羽上が叫ぶ。

「待て……。なんか、匂わないか?」  

川島が鼻をヒクヒクさせる。

「……甘い匂いがするっす」

「甘い匂い?」

川島が恐る恐る、揺れている木箱に近づき、蓋を開けた。

バササッ!  

中から、何かが飛び出してきた。

「うわああああ!」  

四人が腰を抜かしてひっくり返る。飛び出してきたのは……コウモリだった。パタパタと部屋の中を飛び回り、開いていた換気口から外へ逃げていった。

「はあ……はあ……。コウモリかよ……。寿命が三年縮んだ……」  

空木が胸を押さえる。

「ボス、これ見てください」  

川島が木箱の中を指差した。そこには、大量の『あんぱん』が入っていた。しかも、賞味期限は今日。

「……なんで資料室にあんぱんが?」

「誰かの非常食でしょうか。……というか川島先生、食べようとしないでください」  

海田が止める。

その時だった。    

ガチャリ……。キィィィィ……。

入り口の鉄扉が、ゆっくりと開いた。

「「「!!!」」」

四人は凍りついた。コウモリの騒ぎで、誰もドアには近づいていない。誰が入ってきたんだ? 警備員さんか?それとも……『首なし用務員』か?暗闇の中から、ヌッと人影が現れた。白い服を着ている。髪が長い。そして、手には……光る棒(?)を持っていた。

「……誰だ?」  

空木が震える声で問う。人影が、ゆっくりと顔を上げた。懐中電灯の光が、その顔を照らす。

そこには……

パックをして、頭にタオルを巻き、片手にアイスキャンディーを持った、教頭先生がいた。

「……え?」  

四人の思考が停止した。

「……あ」  

教頭先生も固まった。 口からアイスキャンディーを離し、パックの下の目が泳いでいる。

「……き、教頭先生?」  

空木がおそるおそる呼ぶ。

「……」  

教頭が無言で後ずさりする。

「……見なかったことにしなさい」

教頭は踵を返し、猛ダッシュで逃げようとした。

「待ってください教頭!」  

四人が追いかけ、廊下で確保した。

        

 事情聴取の結果、驚くべき真実が判明した。教頭先生は、この猛暑に耐えかね、夜な夜なこっそりとこの資料室に涼みに来ていたのだ。あの「開かずの資料室」の噂も、「エアコンが効いている」という情報も、すべて教頭が独占するために流していたダミー情報(あるいは黙認していた都市伝説)だったのだ。木箱のあんぱんは、教頭のおやつストックだった。

「……君たちに、エアコン故障の不便を強いておきながら、私だけ涼んでいたこと……深く反省します」  

パックを剥がした教頭が、シュンとして謝った。素顔の教頭は、少しだけ若く見えた。

「ズルいっすよ教頭!俺たち、汗だくで仕事してたんすよ!」  

川島が抗議する。

「まあまあ、川島。教頭先生も人間だということです」  

海田がフォローする(ように見せて追い詰める)。

「この事実は、職員会議で報告すべき案件ですね。『管理職による空調設備の私的流用』として」

「そ、それだけは!勘弁してください!」  

教頭が慌てる。

「な、なんでもしますから!君たちの評価をSランクにしますから!」

空木がニヤリと笑った。

「教頭先生。口止め料は、評価なんかじゃありませんよ」

「え?」

「そこに持っている、高級そうなアイスキャンディー。……人数分、奢ってください」

        

 数分後。涼しい資料室で、五人の男たちが並んでアイスを食べていた。教頭先生が隠し持っていた『プレミアム・マンゴーアイス』だ。

「うめえええ!冷てえええ!」  

川島が絶叫する。

「生き返る……。この甘さが、疲れ切った脳に染みる……」

「教頭先生、いいセンスしてますね。このマンゴー、果肉入りじゃないですか」  

羽上が満足げに舐める。

「……君たちには敵いませんね」

教頭が苦笑いしながら、自分の分のアイスをかじる。

「まあ、たまにはこういうのも、悪くないですが」

空木はアイスを食べながら、窓の外を見た。月が綺麗だ。猛暑も、怪談も、教頭先生の秘密も、すべて夏の夜の夢のようだ。

「……よし、食ったら仕事再開だ!涼しいうちに終わらせるぞ!」

「えー、もう帰りましょうよー」

「ダメだ。終わるまで帰れまテンだ」

結局、彼らは朝まで資料室で過ごした。採点は終わったが、全員が冷房病で風邪を引きかけたのは言うまでもない。翌日。業者が来て、職員室のエアコンは無事に修理された。快適な風が吹き込む職員室で、空木は教頭先生と目が合った。教頭先生は、一瞬だけウィンクをして、すぐに厳しい顔に戻った。それは、五人だけの「夏の夜の秘密」だった。ただし、川島が「資料室にあんぱんが隠してある」という情報を嗅ぎつけ、後日こっそり侵入しようとして警報機を鳴らしてしまったのは、また別の話である。


(エピソード17・完)

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