涙の解散危機と殺人第二ボタン
三月。弥生。別れの季節である。星ヶ丘中高一貫校の校庭では、梅の花がほころび始め、少しずつ暖かくなる日差しとは裏腹に、職員室にはシベリア寒気団のような凍てついた緊張感が漂っていた。原因はただ一つ。『人事異動』の噂である。公立学校ほど頻繁ではないものの、私立学校とて組織である以上、異動や配置換えは避けられない運命だ。特に今年は、「学園改革」を掲げる理事長の方針で、大規模な人事刷新があるという噂がまことしやかに囁かれていた。午後八時。残業中の職員室。いつもの四人が集まる「四銃士」の島(デスク周り)は、お通夜のような静けさに包まれていた。
「……聞いたか、お前たち」
空木が、この世の終わりのような顔で口を開いた。その手には、シュレッダーの前で拾ったという、細切れになった紙片が握られている。
「教頭先生が、電話で話しているのを盗み聞きしてしまったんだ……。『あいつらはもう限界だ』『バラバラにするしかない』『特にあのリーダー格は、遠くへ飛ばそう』と……」
空木の声が震える。「リーダー格」。それはどう考えても、このグループの最年長である空木のことだ。
「……マジっすか」
川島が、食べかけのアンパンを落とした。彼が食べ物を落とすなど、天変地異の前触れとしか思えない。
「バラバラに……?俺たち四人がっすか?嫌だ!俺は嫌だ!海田の毒舌がないとご飯が美味しくないし、羽上の自慢話がないと眠れないんすよ!」
「俺の話を睡眠導入剤にするな」
と羽上。
海田は、腕を組んで天井を仰いだ。
「……論理的に考えて、僕たちが解散させられる理由は十分にありますね」
「なんだと!?」
「勤務中の無駄話の多さ、給湯室の占拠率、お菓子消費量、そして何より、僕たちが集まると必ず何かしらのトラブルが発生するという『災害発生源』としての実績です」
「うぐっ……」
空木が言葉に詰まる。心当たりがありすぎる。
「でも、飛ばされるってどこへ?」
羽上が、手鏡を見つめながら寂しげに呟く。
「僕のこの美貌を活かせない場所なんて、この世に存在するのかな。……まさか、アマゾンの奥地にある分校とか?」
「そんなものはない。あったとしても、お前はピラニアの餌だ」
空木が突っ込むが、覇気がない。
「……とにかく、だ」
空木は涙目で三人を見回した。
「これが、俺たち四人で過ごす最後の三月になるかもしれない。……だからこそ!今週の『卒業式』だけは、完璧に成功させるぞ!」
「ボス……!」
「俺たち四人の絆の集大成を見せるんだ!『四銃士は最後まで最高だった』と、伝説を残して散ろうじゃないか!」
空木の熱い演説に、三人が大きく頷いた。勘違いから始まった悲壮な決意。しかし、彼らが「完璧」を目指す時、それはすなわち「大惨事」のフラグであることを、神様以外はまだ知らない。
卒業式まであと三日。四人には、それぞれ重要な役割が与えられていた。まず、リーダーの空木。彼は式の進行を司る『司会進行』の大役を仰せつかった。一番噛んではいけない、一番ミスが許されないポジションである。
「『卒業生、起立』……『礼』……よし、言える。俺は言えるぞ!」
空木はトイレの個室で、ブツブツと台本を練習していた。しかし、極度の緊張しいである彼は、すでに胃薬をラムネのようにボリボリ食べている。次に、海田。彼は『音響・照明担当』だ。式の雰囲気を決定づける演出の要である。
「任せてください。僕の完璧な計算で、涙腺崩壊のタイミングに合わせて『旅立ちの日に』をフェードインさせます。ハンカチの予備を用意しておいてください」
自信満々だが、彼が機械を触ると時々「AIが自我を持った」かのような誤作動を起こすのが不安材料だ。そして、羽上。彼は『卒業生誘導係』。生徒たちの先頭に立ち、優雅に歩く花形の役だ。
「ふふっ。僕の歩く姿を見て、保護者のお母様方が卒倒しないか心配ですね。ウォーキングのレッスンに行ってこようかな」
彼は廊下でモデル歩きの練習をしていて、生徒に
「先生、トイレ我慢してるんですか?」
と心配されていた。
最後に、川島。彼は『会場設営・警備』兼『教員代表として君が代を一番大きな声で歌う係』だ。しかし、彼にはもっと深刻な問題があった。
「……入らないっす」
更衣室から、悲痛な叫び声が聞こえた。礼服である。数年前に作ったはずのスーツが、度重なる暴飲暴食(エピソード1〜9参照)により、パンク寸前なのだ。
「うおおお!閉まれ!閉まるんだズボンのチャック!俺の脂肪よ、亜空間へ消えろ!」
ブチッ。ベリッ。 不吉な音が響く。
「川島、大丈夫か?」
空木が心配して覗き込むと、そこにはハムのように服に締め上げられた川島の姿があった。ジャケットのボタンは、今にも弾け飛びそうなほど糸が悲鳴を上げている。
「ボス……。息が……息が吸えないっす……。これ以上吸ったら、ボタンが散弾銃のように発射されるっす……」
「新しいのを買えよ!」
「間に合わないっす!それに、このスーツは『痩せてた頃の自分への誓い』なんすよ!」
「誓い破りすぎだろ!」
こうして、不安要素しかない状態で、卒業式予行演習の日がやってきた。
体育館。全校生徒と教職員が集まり、本番さながらの緊張感で行われる予行演習。ステージ袖には、マイクを握りしめてガタガタ震える空木の姿があった。
(落ち着け……。これは予行だ。失敗しても死にはしない。いや、失敗したら異動先が『無人島分校』になるかもしれない……!)
空木の被害妄想は極限に達していた。ステージ下には、音響機材に囲まれた海田が、スナイパーのような目で空木を見守っている。アリーナの中央には、パツパツの礼服を着て、ロボットのような動きで直立する川島がいる。そして、花道の入り口には、無駄にポーズを決めている羽上がいた。
「これより、第××回、卒業証書授与式予行を始めます」
教頭先生の開会宣言。いよいよ、空木の出番だ。
「そ、卒業生……入、入、入……」
噛んだ。盛大に噛んだ。
「入浴! ……じゃなくて、入場!」
ドッ! 体育館中が爆笑に包まれる。厳粛な雰囲気が一瞬にして銭湯になった。
(しまったぁぁぁ!『入場』と『入浴』、字面が似てないのになぜ間違えた俺の脳!)
空木は真っ赤になりながら、海田に目配せを送った。
(曲だ! 曲で誤魔化せ!)
海田が頷き、再生ボタンを押す。 厳かなクラシック『威風堂々』が流れる……はずだった。
♪ デーデッデッデッデ、デーデッデッデッデ……(サンバのリズム)
「なんでマツケンサンバなんだ!!」
空木がマイクを切るのを忘れて絶叫した。生徒たちの爆笑は止まらない。手拍子まで始まった。海田が慌てて操作する。
「し、失礼しました!昨日の夜、プレイリストの整理中に指が滑ったようです!」
「どんな整理したら威風堂々とサンバが入れ替わるんだ!」
ようやく正しい曲が流れ、羽上の先導で卒業生が入場を始める。羽上は、まるでパリ・コレのランウェイを歩くように、優雅に、そしてねっとりと歩いていた。いちいちターンを決める。生徒にウインクをする。
「羽上!普通に歩け!尺が押す!」
空木が小声で叫ぶが、羽上は自分の世界に入っていて聞こえていない。なんとか入場が終わり、次は『卒業証書授与』だ。担任の先生が名前を呼び上げ、生徒が返事をする。そして、校長先生から証書を受け取る。
ここで、川島の出番がやってきた。彼は演台の横で、生徒がスムーズに動けるように誘導する係だ。しかし、彼のスーツは限界を迎えていた。生徒にお辞儀をするたびに、ズボンから「ミシッ」「ピキッ」という音がする。
(やばい……。さっき予行の前に、緊張をほぐすためにカツサンドを二個食べたのが致命傷だったかもしれない……)
川島は冷や汗を流しながら、そろりそろりと動いていた。その時。校長先生が、証書を落としてしまった。
「おっと」
ヒラヒラと舞い落ちる証書。川島は反射的に動いた。元柔道部顧問の性。落ちるものを拾う時の、迅速かつ鋭い前傾姿勢!
「拾いますっ!」
川島が勢いよく屈んだ、その瞬間。
パァァァァァァァン!!!
体育館に、乾いた発砲音が響き渡った。全員が
「えっ?テロ?」
と身構えるほどの爆音。それは、川島のジャケットの第二ボタンだった。極限まで圧縮された腹圧に耐えきれず、ボタンは音速を超えて射出されたのだ。
ヒュンッ!
空を切る凶器。 その軌道は、正確にステージ上の「金屏風」へと向かった。
カーン!!
金属音が響き、金屏風に小さな凹みができる。さらに跳ね返ったボタンは、校長先生のカツラ……の数センチ横をかすめ、演台のマイクに直撃した。
ボフッ!
マイクから凄まじいハウリング音が鳴り響く。
キィィィィィーン!
「ぎゃああああ!」 「耳がぁぁぁ!」
阿鼻叫喚の体育館。 川島は、前屈みの姿勢のまま凍りついていた。彼のジャケットは、お腹の部分がパッカーンと開き、中からワイシャツ(これもパツパツ)が白旗のように飛び出している。
「……か、川島ァァァァ!!」
空木の絶叫が、ハウリング音と混ざり合う。予行演習は、一時中断となった。 教頭先生の顔色は、赤鬼を超えて紫鬼になっていた。
放課後の反省会。 職員室の四銃士コーナーは、お通夜どころか、爆撃を受けた後の焼け野原のような雰囲気だった。
「……申し訳ありませんでした」
四人は並んで頭を下げていた。目の前には、腕を組み、血管をピキピキさせている教頭先生がいる。
「君たちは……君たちは、卒業式を何だと思っているんですか!入浴?サンバ?そして発砲事件?学校始まって以来の不祥事ですよ!」
「弁解の余地もございません……」
空木が消え入りそうな声で言う。
「特に川島先生!君のそのスーツは凶器です!今すぐ脱ぎなさい!」
「脱いだら下着になってしまいます!」
「だったら新しいのを買いに行きなさい!今すぐに!」
教頭の説教は一時間にも及んだ。ようやく解放された頃には、外はすっかり暗くなっていた。
「……終わったな」
空木がデスクに突っ伏す。
「これで、俺たちの異動は確定だ。いや、懲戒免職かもしれない……」
「ボス、ごめんね……。俺の腹が……俺の食欲が、全てを壊したっす……」
川島が泣いている。その涙で、また少し体重が減ればいいのだが。
「僕も、サンバはわざとじゃなかったんです……。AIが『この場の空気を盛り上げろ』と判断したのかもしれません」
海田が苦しい言い訳をする。
「僕のウォーキングも、ちょっと気合が入りすぎました……」
羽上も珍しくしょげている。四人は無言になった。 これが、最後なのか。こんな終わり方でいいのか。その時、空木が顔を上げた。
「……いや、まだだ」
彼の目には、まだ小さな炎が宿っていた。
「本番は、明後日だ。……俺たちの評価なんて、もうどうでもいい。ただ、生徒たちのために。最後くらい、教師らしい背中を見せてやろうじゃないか」
空木が立ち上がる。
「川島、今から紳士服の『アオキ』に行くぞ!特大サイズの礼服を買うんだ!」
「ボス……!」
「海田、音響の再チェックだ!プレイリストからサンバとメタルと演歌を全削除しろ!」
「了解です。工場出荷状態に戻します」
「羽上、お前は……普通に歩く練習だ!
ロボット歩きでもいいから、腰を振るな!」
「善処します!」
「そして俺は、徹夜で台本を読み込む!
『入場』を『入浴』と言わないように、手に『場』と書いておく!」
四人は拳を突き合わせた。
「やるぞ! 最後の聖戦だ!」
卒業式当日。空は快晴。絶好の卒業式日和だ。体育館は、厳粛な空気に包まれていた。保護者席も満席。来賓席には理事長の姿もある。失敗は許されない。司会席の空木は、深呼吸をした。手には『場』と書かれたマジックの文字。
「卒業生、入場」
言えた。噛まずに言えた。海田の操作で、完璧なタイミングで『威風堂々』が流れる。羽上が先導して入ってくる。その歩き方は……驚くほど普通だった。いや、少し猫背気味だが、モデル歩きよりはずっといい。
(やった……! 順調だ!)
式は進む。証書授与。川島は、昨日買ったばかりの特大サイズ(5L)の礼服を着ていた。ブカブカだ。まるで借りてきた衣装を着た芸人のようだが、少なくともボタンが弾け飛ぶ心配はない。彼は慎重に、丁寧に生徒を誘導している。
そして、式はクライマックスへ。『送辞』『答辞』と続き、最後の『卒業生の歌』。生徒たちがステージ前に並ぶ。指揮者の生徒が手を挙げる。ピアノの伴奏が始まる。曲は『旅立ちの日に』。
♪ 白い光の中に 山並みは萌えて……
生徒たちの歌声が響き渡る。三年間、共に過ごした生徒たち。空木のクラスの、あの問題児・田中も、大きな口を開けて歌っている。バレンタインで二股をかけて怒られた男子も、泣きながら歌っている。空木の視界が滲んだ。
(あいつら……大きくなりやがって……)
ふと見ると、音響席の海田が、眼鏡を外して涙を拭っていた。川島は、すでに号泣していて、ハンドタオルの代わりにカーテンの端っこで顔を拭いていた(やめろ)。羽上も、手鏡を見るのを忘れ、生徒たちを真剣な眼差しで見つめている。これが、教師という仕事だ。どんなに大変でも、この瞬間があるから報われる。歌が終わり、拍手が鳴り止まない。空木は震える声で、最後のアナウンスをした。
「卒業生、退場」
海田が流したのは、生徒たちがリクエストしたJポップの卒業ソング。完璧なタイミング。完璧な音量。生徒たちが退場していく。担任の空木の前を通る時、田中が立ち止まった。
「空木先生! ……あざっした!」
深々と頭を下げる田中。
「先生の授業、脱線ばっかりで面白かったよ!」
「先生、あのゴリラチョコ食べた話、一生忘れません!」
「先生、ボタン大丈夫?」
生徒たちが次々と声をかけていく。空木はもう、涙で前が見えなかった。
「うるさい!早く行け!……元気でな!」
川島も、羽上も、海田も、生徒たちに囲まれていた。
「川島先生、痩せろよー!」
「羽上先生、ナルシスト直せよー!」
「海田先生、毒舌最高でした!」
笑いと涙の中、卒業式は幕を閉じた。それは、間違いなく「伝説」に残る、最高の卒業式だった。
その日の夕方。生徒たちが去り、静寂が戻った職員室。四人は、教頭先生に呼び出されていた。いよいよ、処分の言い渡しだ。
「……さて」
教頭が重々しく口を開く。
「今日の卒業式。……進行も、音響も、誘導も、設営も……まあ、合格点でしょう」
「え?」
四人が顔を上げる。
「生徒たちのあの表情を見れば、分かります。君たちがどれだけ生徒に向き合ってきたか」
教頭の表情が、少しだけ緩んだ。
「ありがとうございます……!」
空木が安堵の息をつく。
「ですが」
教頭の声が再び鋭くなる。 「
予行演習での不始末、および、日頃の素行不良についての処分は別です」
「は、はい……。異動、ですよね……」
空木が覚悟を決める。
「異動?何を言っているんですか?」
教頭が怪訝な顔をする。
「え?だって、教頭先生が電話で『あいつらはバラバラにするしかない』って……」
「ああ、あれですか」
教頭が呆れたように言った。
「あれは、『職員室のレイアウト変更』の話ですよ」
「レイアウト……?」
「君たち四人が固まっていると、うるさいし、お菓子は食べるし、生産性が悪い。だから、来年度からは君たちの席を、職員室の四隅に配置することにしました。物理的に距離を置く。それが『バラバラにする』という意味です」
「……は?」
四人は顔を見合わせた。異動じゃない。クビじゃない。ただの……席替え?
「それと、『リーダー格を飛ばす』というのは……」
「ああ、空木先生の席を、私の目の前の『教頭補佐席』に移動させるということです。一番監視しやすい場所へ『飛ばす』という意味ですよ」
「……」
空木の魂が口から抜け出た。教頭の目の前。それはすなわち、サボることも、お菓子を食べることも、昼寝をすることも許されない、地獄の特等席である。
「な、なんだぁ……。よかったぁ……」
川島がへなへなと座り込む。
「離れ離れにならなくて済むんすね……」
「ですが、会話は禁止ですよ。大声を出したら、席の間に防音アクリル板を設置しますからね」
その夜。 四人は近くの居酒屋で、祝杯(?)を挙げていた。
「かんぱーい!!」
「いやあ、焦ったっすよー!マジで左遷かと思ったっす!」
川島が唐揚げを吸い込んでいる。
「でも、席が離れるのは不便ですね。筆談でもしますか?」
と羽上。
「チャットツールを使いましょう。グループ名は『地下組織・四銃士』で」
と海田。空木はビールを飲み干し、プハーッと息を吐いた。
「まあ、よかったじゃないか。来年もまた、このメンバーでやれるんだから」
「そうですね。……でも空木先生、教頭の目の前って、一番キツいポジションですよ」
海田がニヤリと笑う。
「ふん。一年後には、教頭も四銃士のメンバーに入れてやる」
「それは無理っす。教頭はキャラが濃すぎるっす」
笑い声が響く。 別れの季節を乗り越え、彼らの絆はより一層強まった(物理的な距離は離れたが)。
帰り道。 夜桜を見上げながら、空木はポケットの中を探った。 そこには、予行演習で弾け飛んだ、川島の第二ボタンが入っていた。 記念に拾っておいたのだ。
「……これ、お守りにするか」
「やめてください、呪いのアイテムですよ」
職員室の四銃士。彼らの騒がしくも愛おしい日々は、春からもまだまだ続いていく。新学期、新たな伝説の予感を乗せて。
(エピソード10・完)




