深夜の残業と呪われたプリンター
深夜の残業と呪われたプリンター
時刻は午後八時を回っていた。 生徒たちの喧騒が去り、静寂が支配するはずの私立「星ヶ丘中高一貫校」の職員室。しかし、その一角だけは、まるで放課後の部室のような熱気に包まれていた。
そこにいるのは四人の男たち。 通称『職員室の四銃士』。 ……と、自分たちだけで勝手に呼んでいる、仲良し教師グループである。
「あああああ! なんでだ! なんで俺の言うことを聞かないんだ貴様は!」
悲痛な叫び声を上げたのは、国語科の空木だった。 三十四歳。身長一六〇センチと小柄ながら、バスケ部顧問として鍛え上げた筋肉と、若手主任としての貫禄を持つ男。そして、この四人の中で唯一の三十代であり、頼れるリーダー……のはずだった。
空木は今、血走った目で目の前のノートパソコンを睨みつけている。
「どうしました、空木先生。またパソコンに『お前を消す方法』を検索させようとしているんですか?」
冷静かつ、どこか冷ややかな声で応じたのは、社会科の海田だ。 二十五歳。身長一八〇センチの長身痩躯。モデルのような端正な顔立ちをしたイケメンで、陸上部顧問。空木にとっては可愛い後輩であり、同時に最も心を抉ってくる天敵でもある。
「違うぞ海田!こいつが、このエクセルという魔物が、俺の作ったテストのレイアウトを勝手に崩しやがるんだ! 俺はただ、行を一行増やしたいだけなのに、なぜか全ての枠線が消滅して、文字が明後日の方向に吹き飛んだ!」
空木がマウスをガチャガチャと机に叩きつける。昭和のテレビを直すような手つきだ。
「空木さん、貸してくださいよぉ! 僕がちょちょいと直しますって!」
ドスン、と地響きと共に現れたのは、数学科の川島。 海田と同じ二十五歳で、同級生コンビの片割れ。身長は空木と同じ一六〇センチだが、体重は優に一〇〇キロを超える巨漢だ。柔道部顧問であり、その体型は球体に限りなく近い。
「おお、川島!さすが我が愛弟子!頼む、この暴れ馬を鎮めてくれ!」「任せてください!パソコンなんて気合でどうにかなるんすよ!」
川島は極太の指でキーボードを叩こうとしたが、その指が同時に三つのキーを押してしまい、画面上で謎のウィンドウが大量発生した。
『警告:不正な処理が行われました』『警告:データを保存せずに終了しますか?』『ポーン(警告音)』
「ああっ!? 空木さん! なんか画面が真っ青になりました!これ、自爆シークエンスっすか!?」 「バカヤロウ川島!気合でどうにかしろと言ったが、物理攻撃を仕掛けろとは言っていない!」「いやあ、指が太すぎて『Enter』キー押そうとしたら『Delete』も一緒に押しちゃったみたいで。テヘペロ」「テヘペロで俺の三時間の労働を無に帰すな!」
阿鼻叫喚の図を、少し離れた席から優雅にコーヒーを啜りながら眺めている男がいた。国語科の羽上。二十六歳。一七三センチのスマートな体型に、流行りのパーマヘア。一見すると仕事のできるエリート教師に見えるが、その中身は空っぽである。
「空木さーん、ドンマイっすよ。ま、アナログ人間の空木さんには、デジタル社会の洗礼ってやつですかね。僕なんか、昨日iPadで授業しようとしたら、充電切れでただの黒い板を持って四五分間立ち尽くしてましたから」
羽上は爽やかな笑顔で言った。
「羽上、それはただの準備不足だ。そしてお前、その黒い板を持って何をしたんだ」「エアiPad授業ですよ。指で空中にスワイプする真似をして、『はい、ここ重要〜』って。生徒キョトンとしてましたけど、イケメンだから許されました」「許されてないぞ。あとで保護者から『羽上先生がパントマイムをしていた』って電話来てたぞ」
空木は頭を抱えた。これが、彼の愛すべき、そして頭の痛い部下たちである。
なんとか海田の手によってエクセルのデータが復旧(というか、最初から作り直し)され、四人は一息つくことになった。時刻は九時。コンビニで買ってきた夜食を広げながら、話題は今日の授業での出来事へと移っていく。
「そういえば今日、中二のクラスで面白いことがあってさ」
おにぎりを二個同時に頬張りながら、川島が言った。
「数学の授業中、図形の問題を解かせてたんです。『この三角形の面積を求めよ』って。そしたら田中のやつ、答えに何て書いたと思います?」「田中か……あいつ、発想が独特だからな」と空木が苦笑する。「『分かりません』か?」と羽上。「いいえ。『神のみぞ知る』?」と海田。
「ブブーッ!正解は『三角形の気持ちになって考えましたが、これ以上分割されたくないと言っています』でした!」
川島が爆笑しながら机を叩く。その衝撃で空木のデスクの上のペン立てが倒れた。
「物理的な被害を出すな川島!……しかし、最近の生徒は斜め上を行くなあ。俺の国語の授業でもあったぞ」
空木が倒れたペンを拾いながら語り出す。
「『走れメロス』の感想文だ。メロスがセリヌンティウスを人質に置いて城を出るシーンあるだろ?あそこで、ある生徒がこう書いたんだ。『メロスは、友達を担保にして借金をするタイプだと思いました。絶対に連帯保証人にしたくないです』」
「現実的すぎる!」羽上が手を叩いて笑う。 「いや、あながち間違ってないですよ。現代社会において、友情だけで命を賭けるのはリスクが高すぎます。その生徒、社会科の適性がありますね」海田が真顔で頷いた。
「お前な、もっとロマンを持てよロマンを。文学は心で読むもんだぞ」「でも空木先生、この前『羅生門』の授業で、老婆が髪の毛抜くシーンの実演してた時、カツラ落としてましたよね?」「羽上! それは言うな! あれは演出だ!老婆の必死さを表現するために、俺も身を削ったんだ!」「いや、単にサイズが合ってないドンキのパーティグッズ被ってきただけじゃないですか」
海田が冷たく切り捨てる。
「しかもそのカツラ、私の柔道着の中に隠すのやめてくださいよ。部活の時、帯締めようとしたら金髪のロン毛が出てきて、部員全員凍りついたんですから」「悪かったよ川島! 隠し場所に困ったんだよ!」
空木は赤面して叫んだ。授業のために体を張るのは空木の美徳だが、その方向性は常にどこか間違っている。
「そういえば」羽上が唐揚げ棒を齧りながら、ふと思い出したように言った。「今日、予期せぬ出来事といえば、放課後の旧校舎。あそこ、やっぱり出るみたいっすよ」
その言葉に、職員室の空気が一瞬にして凍りついた。星ヶ丘学園には、取り壊しが決まっているものの、倉庫として使われている木造の旧校舎がある。そこには、『開かずの音楽室』や『夜中に走る人体模型』など、ベタな怪談が数多く存在していた。
「お、おい羽上。脅かすなよ。俺はそういうの苦手なんだ」空木が少し声を震わせる。バスケ部顧問として体育館の鍵閉めを一人でする時、彼は常に全力ダッシュで帰ってくるほどの怖がりだ。
「いや、マジなんすよ。今日、部活の見回りで旧校舎の裏を通った時、中から『う〜……う〜……』って低い唸り声と、ドスン、ドスンっていう重い音が聞こえてきて」「ひいっ! やめろ! 描写がリアルだ!」「で、窓ガラスに白い影がへばりついてたんです」
「ぎゃあああ! もう帰る! 俺は帰るぞ!」空木が鞄を掴んで立ち上がる。
「待ってください空木先生。それ、何時頃ですか?」 海田が冷静に尋ねた。「えーと、六時半くらいかな」
海田と川島が顔を見合わせた。そして、二人の視線がゆっくりと、空木……ではなく、川島の方へ向く。
「……あー、それ、俺っすね」 川島が気まずそうに頭を掻いた。
「は?」空木と羽上が同時に声を上げる。
「いや、その……来週健康診断あるじゃないですか。俺、また体重増えちゃってて。こっそりダイエットしようと思って、旧校舎の空き教室で隠れてトレーニングしてたんすよ」
「トレーニング?」と空木。「はい。スクワットしてたんです。『う〜、きつい〜』って唸りながら。で、ドスンっていうのは、バランス崩して尻餅ついた音で……」
「じゃあ、窓の白い影は?」羽上が問う。「あまりに汗かいたんで、柔道着を脱いで上半身裸になって、窓ガラスに背中押し付けて涼んでたんすよ。俺の背中、色白なんで」
沈黙が流れた。やがて、空木の額に青筋が浮かぶ。
「川島ァァァァァ!!てめえ、紛らわしいことしてんじゃねえ!俺の寿命が三年縮んだぞ!」 「すんません! でも、誰にも見られたくなかったんで!」「見られたくないなら痩せろ!その唐揚げを今すぐ置け!」
「空木先生、落ち着いてください。川島先生の背中が幽霊に見えるというのは、ある意味で怪奇現象より恐ろしい事実です。物理的な質量として」海田が淡々と言う。「うるさいよ海田!俺だって痩せたいんだよ!でも空木さんが『今日は頑張ったからラーメン行くか!』って誘うから!」「俺のせいかよ!」
空木のツッコミが夜の職員室に響き渡る。
騒動が一段落し、四人は再び仕事に戻ろうとしていた。しかし、トラブルの神様は彼らを見放さない。
「あ、そうだ。空木先生」 海田がパソコンの画面を見ながら言った。「来月の修学旅行のしおり、先生の挨拶文まだですよね?印刷のリミット、明日までなんですけど」
「えっ」 空木が固まる。「う、嘘だろ? 来週じゃなかったか?」「日程変更のメール、一週間前に回覧しましたよ。……まさか、読んでないんですか?」
海田の目が、獲物を狙う鷹のように鋭くなる。空木は脂汗を流しながら視線を泳がせた。
「よ、読んでるよ! もちろん読んでる!ただ、その……構想を練りすぎて、まだ形になっていないというか、俺の中の文学性が爆発寸前というか!」「要するに忘れてたんですね」「はい忘れてましたごめんなさい!」
空木は見事なジャンピング土下座を披露した。もはや伝統芸である。
「仕方ないですね。じゃあ今から書きましょう。僕たちが手伝いますから」海田がため息交じりに言った。「おお、海田!やっぱりお前はいい奴だ!愛してるぞ!」「気持ち悪いので寄らないでください。セクハラで訴えますよ」
「僕も手伝いますよ!」と羽上「僕のセンスあふれる文章力で、生徒が涙する感動の挨拶文を捏造しましょう!」 「捏造するな。……でも、頼む!」
「俺も応援します! フレー! フレー! ボス!」 川島がメガホン(丸めたポスター)で叫ぶ。
こうして、緊急ミッション『修学旅行の挨拶文作成』が始まった。
「まず書き出しはどうします?『紅葉の候』とか無難なやつでいきますか?」と海田。「いや、堅苦しいのは俺らしくない。もっとパッションを伝えたいんだ!」空木が熱弁する。「じゃあ、『Hey guys! 調子はどうだい?』で始めましょう」と羽上。「アメリカのDJか!校長に殺されるわ!」
「じゃあこれどうっすか。『修学旅行。それは、合法的に枕投げができる唯一の聖戦』」と川島。「お前は修学旅行を何だと思ってるんだ!あと枕投げは禁止だ!」
「空木先生、シンプルに自分の想いを書けばいいんですよ」 海田がキーボードを叩く準備をする。「先生が一番生徒に伝えたいことは何ですか?」
空木は少し考え込み、真剣な表情になった。 普段は抜けているが、生徒への愛情だけは誰にも負けない。それが空木という教師だ。
「……そうだな。『失敗してもいい。仲間と一緒に笑い合える思い出を作ってほしい』。これかな」
三人が一瞬、静かになる。「お、珍しくまともなこと言いましたね」と海田。「ちょっと見直しました」と羽上。 「ボス、かっこいいっす!」と川島。
「よし、じゃあそれを海田、いい感じに整えてくれ!」「わかりました。……カタカタカタ……ッターン!」
海田がエンターキーを強打する。「できました。確認してください」
空木が画面を覗き込む。
『生徒諸君。 失敗を恐れるな。私が普段から職員室で晒している数々の失態に比べれば、君たちの失敗など塵のようなものだ。仲間と共に笑え。私が海田先生に毎日冷ややかな目で見られ、川島先生に物理的に圧迫され、羽上先生に適当にいじられても、強く生きているように。この修学旅行が、君たちにとって最高の思い出になることを祈っている。追伸:バスの中で私の悪口を言うのは禁止とする。 学年主任 空木』
「……海田」「はい」「これ、俺の公開処刑文になってないか?」「事実を列挙しただけですが」
「あと、追伸が情けなさすぎるだろ!」「でも先生、去年の林間学校の時、バスのマイク切り忘れて『あ〜、バス酔いした。吐きそう』って呟いたの全車両に流れて、生徒爆笑してたじゃないですか。あれの再発防止です」
「うぐっ……あれはトラウマなんだ……」
「まあまあ、いいじゃないですか、空木先生らしくて!」羽上が無責任に笑う。「そうっすよ!生徒も喜びますって!」 川島も親指を立てる。
「お前らなぁ……」
空木は溜息をついたが、その顔には微かな笑みが浮かんでいた。 馬鹿にされ、いじられ、振り回されているが、この三人がいなければ、自分の教師生活はもっと味気ないものになっていただろう。 頼りない先輩と、優秀すぎる(そして性格に難のある)後輩たち。このバランスこそが、星ヶ丘職員室の平和(?)を保っているのだ。
「よし、もうこれでいい! 印刷だ!」 空木がヤケクソ気味に叫んだ。
「了解です! 印刷ボタン、ポチッとな!」川島が勢いよくボタンを押す。
ウィーン、ガシャン。ウィーン、ガシャン。プリンターが軽快な音を立てて紙を吐き出し始める。
「よし、これで任務完了……」 空木が安心したのも束の間。
ガガガガガッ!ブチブチブチッ! プリンターから異音が響き渡った。
「ひいいい!なんだ!?爆発か!?」「紙詰まりです!川島先生、さっきお菓子の粉こぼした手でトレイ触ったでしょう!」 海田が叫ぶ。「あ、お菓子の粉がついたかも」「貴様ァァァ!!魔法の粉で精密機器を破壊するな!!」
「わあ、すごい。紙がアコーディオンみたいになって出てきましたよ。芸術的ですね」羽上が呑気にジャバラ状になった紙を広げている。
「悠長なこと言ってる場合か!直すぞ!海田、川島、羽上!総員、戦闘配置につけ!」「「「了解!!」」」
深夜の職員室に、男たちの叫び声とプリンターの駆動音が虚しく響き渡る。
彼らの夜は、まだ終わらない。
これが、『職員室の四銃士』の日常である。
明日の授業の準備は、未だ終わっていない。
(エピソード1・完)




