後篇
目を覚ますと、そこは――白い天井の下だった。
瞼を開いた瞬間、まぶしさと鈍い痛みが同時に押し寄せる。
柔らかな陽光が、カーテンの隙間から静かに差し込んでいる。
その光は穏やかでありながら、どこか異国の冷たさを孕んでいた。
空気には薬草と香油の混じった甘い匂いが漂う。
けれどその香りが、癒しではなく、まるで「捕らえた獲物を生かすための処置」に感じられるのは気のせいだろうか。
耳を澄ませば、窓の外から人々の足音や馬車の車輪の音が遠くに響いている。
だがその響きさえも、どこか整然としていて、王国の喧噪とは違う。
均整と秩序の中に潜む、監視と支配の匂い――。
――ここは、帝都。
ミディアは、瞬時に悟った。
寝具から体を起こした途端、鈍い痛みが両腕を走る。
包帯の下から覗く手首には、薄く縄の痕。
それは皮膚に刻まれた、自分の“敗北”の証のように見えた。
焼けるように痛むのに、彼女は顔をしかめない。
痛みを感じることで、自分がまだ折れていないことを確かめているようだった。
視線を上げると、部屋は王国の療養室とはまるで異なる様式で飾られていた。
重厚な石造りの壁、金属の細工が施された窓枠、
整いすぎた家具――どれもが美しく冷たい。
まるで豪奢な牢獄。
そのとき、扉が音もなく開いた。
入ってきたのは、侍女服を着た若い女性。
黒髪をきっちりと結い上げ、動作には一片の乱れもない。
まるで機械のような静けさをまとい、深く頭を下げた。
「お目覚めでございますか、ミディア様。皇子殿下がお呼びです」
――皇子。
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥が強く締めつけられた。
あの朱の瞳、あの笑み、あの裏切り。
脳裏に焼きついた光景が、一瞬で蘇る。
血の匂い。燃える風。あの手の温度。
心が軋む音がした。
それでも、ミディアは息を吸い、静かに吐いた。
――泣くものですか。
彼女の中で何かが固く結晶する。
恐怖も怒りも、屈辱も、すべてが透明に凍っていく。
その中心にはただ、「自分を取り戻す」という静かな炎だけがあった。
「そう。案内してちょうだい」
声は思いのほか穏やかだった。
けれど、その瞳の奥では、戦場で剣を構えたときと同じ光が宿っている。
ミディアはベッドの端に手をつき、立ち上がった。
包帯の下で傷が軋む。だが、痛みはただの現実――恐れる理由にはならない。
彼女は背筋を伸ばし、鏡に映る自分を見つめた。
やつれた顔に疲労の影が落ちている。
だがその瞳には、もう一度立ち上がる者の強さが宿っていた。
敗者ではない。
――まだ、終わっていない。
侍女が恭しくドアを開ける。
廊下には高い天井と、足音を吸い込む赤い絨毯。
壁には帝国の紋章が規則正しく並び、窓の外では黒い旗が風にはためいている。
すべてが敵の領域。
それでも、ミディアは歩みを止めなかった。
その一歩一歩が、帝国の静寂を揺らすように――確かな音を立てて響いた。
◆
帝都の宮廷は、王国とはまるで異なる空気を纏っていた。
白と金の王国に対し、帝国は黒と紅。
燃え盛る夕陽のような色合いの絨毯が玉座までまっすぐ伸び、その上を歩くたびに靴音が石壁に反響して、まるで裁きを待つ囚人のような錯覚を覚える。
天井は異様なほど高く、双頭の鷲が見下ろしていた。
その鋭い眼光が「ここはお前の居場所ではない」と告げているようだった。
ミディアは銀の鎖をつけられたまま、その広間の中央に立っていた。
鎖には魔力封じの紋章が刻まれており、力を使うことはできない。
それでも背筋を伸ばし、瞳だけは凛とした光を宿していた。
捕虜であろうと、屈服だけはしない――その誇りだけが、彼女を支えていた。
そして、その視線の先に――朱の瞳があった。
帝国の第一皇子。
黒の軍服を纏い、玉座の前に立つその姿は、獣の静寂と支配の気配を纏っている。
あの日、国境で出会った少年の面影は微塵もない。
彼の中で、少年は死に、支配者だけが生きていた。
ゆっくりと歩み寄るその姿は、まるで獲物を見定める狩人のようだった。
「ようこそ、帝国へ。ミディア元辺境伯令嬢」
穏やかに告げる声。けれど、その底には冷たく研ぎ澄まされた刃が潜んでいる。
ミディアは微かに目を細めた。
「……わたしを、捕虜として扱うのね」
リヒトの唇がわずかに弧を描く。
「まさか。あなたは賓客だ」
その言葉に、玉座の左右に並ぶ貴族たちが一斉にざわめいた。
捕虜が賓客――ありえない。侮辱か、それとも挑発か。
しかし、誰ひとり声を荒げることができない。
皇子の声には、誰も逆らえぬ圧があった。
「あなたには、帝国王宮で過ごしてもらう。外出は制限されるが、衣食住は皇族に準ずる待遇だ」
「つまり、籠の鳥ということね」
ミディアの皮肉に、リヒトは片眉を上げる。
朱の瞳がゆらりと光を帯び、低く囁いた。
「それでも――かつての婚約者よりはましだろう?」
その名を出されずとも、ミディアの胸の奥で何かが鈍く痛んだ。
レオン。
国境を共に守り、笑い合った婚約者。
けれど、今や彼は「国を裏切った男」として断罪されているそうだ。
皇子はゆっくりと玉座から降り、彼女の前まで歩み寄った。
その足音が、ひとつひとつ、彼女の鼓動をかき乱していく。
「現在、王国の半分は帝国軍の支配下にある。そして君の元婚約者は――“国境を放棄した裏切り者”として、民の怒りを買っている」
その声は淡々としていたが、どこか悲哀が滲んでいた。
「国王も、貴族も、君を守らなかった。……君の忠義を、敗北として葬ったんだ」
ミディアは小さく息を吐き、冷ややかに笑った。
守りたかった領民も、辺境伯家も、公爵家も、おそらく今はもう灰の中。
自分だけが生き残った――その事実だけが、重くのしかかる。
「なるほど。あなたたちは、敵国の象徴としてわたしを飾り立てるつもりなのね。
王国への屈辱として、政治の人形として」
「聡いな。だが――人形としてだけとは言っていない」
リヒトは彼女の前で立ち止まり、ゆっくりとその鎖を外した。
金属が床に落ちる乾いた音が、広間に響く。
自由になった手首を見つめるミディアの前で、彼はその手を取った。
その掌は、熱を孕んでいた。怒りでも恐怖でもなく、もっと原始的な、渇いた情熱。
「俺の婚約者として、帝国の表舞台に立ってもらう。
王国の守護者だった辺境伯令嬢が、帝国の皇子に嫁ぐ――それこそ、最大の勝利だ」
彼の朱の瞳は、狂気と渇望のはざまで揺れていた。
支配の色を帯びながら、どこか一途な光を宿している。
彼は支配したいのではなく、所有したい――そんな危うい愛を宿していた。
「……殿下、これは政治的な……」
「そうだ。だが、それだけでは足りない」
リヒトの声が低く落ちる。
「俺は、君が欲しい」
その瞬間、空気が変わった。
冷たい宮殿の空気が、ふっと熱を帯びる。
ミディアは思わず息をのんだ。
捕虜でありながら、求婚を受けているような錯覚を覚える。
彼は続ける。
「君が誰にも屈しなかった、その姿を見て、心を奪われた。
強く、美しい君を、檻に閉じ込めたくなった。……いや、隣に置きたくなった」
貴族たちは凍りついた。
帝国の次期皇帝が、敵国の女に心を捧げた――それは狂気にも似た宣言だった。
「不満があるなら、貴族の座を返上して出ていけ。
これからの時代に必要なのは、攻める戦力だけではない。国を守る力だ」
リヒトの一言で、ざわめきが沈む。
重苦しい沈黙の中、誰もが頭を垂れた。
ミディアはその光景を見て、ようやく理解した。
この男は、単なる暴君ではない。
誰よりも誇り高く、誰よりも孤独な支配者だ。
「あなたは、力で全てをねじ伏せるのですね」
「そうだ。だからこそ、君にだけは従いたいと思った」
皇子の微笑は、ふと悲しげだった。
その朱の瞳が一瞬だけ、少年の面影を映す。
それは――国境で出会った、あの朝陽のような眼差し。
ミディアの胸の奥に、なにかがかすかに疼いた。
憎しみ、理解、そして奇妙な共鳴。
それらが混ざり合って、痛みに似た熱を生む。
そして彼は、彼女の手の甲に唇を落とした。
それは服従の印ではなく、支配と愛を誓う儀式のようだった。
「君が自由に王国を滅ぼそうと、私は構わない。
ただ――俺の隣にいろ。ミディア」
ミディアはゆっくりと目を閉じ、微笑んだ。
それは血を吐くほど苦い笑み。けれど、その奥で炎が燃えていた。
「……いいわ。婚約でも、飾りでも。あなたが望むなら、皇子妃として立ってあげる。
でも――これだけは覚えておいて。
わたしが膝を折るのは、敗北ではなく、あなたの首を狩るときだけよ」
皇子は微かに笑い、朱の瞳を細めた。
その視線は、恋にも似た執着の色を帯びていた。
帝国の冷たい空気の中、二人の呼吸だけが熱を帯びる。
支配と誇り、愛と憎しみ――その狭間で、物語はゆっくりと燃え始める。
一瞬、皇子の瞳がわずかに揺れた。
その微かな変化を見逃す者は、この場にはほとんどいなかった。
けれどミディアには分かった。
ほんの刹那、彼の瞳の奥に、鉄のような孤独が走ったのを――。
だが次の瞬間、彼は愉快そうに息を吐き、唇の端を持ち上げた。
玉座の上に立つ獣が、檻の中の獲物を見て微笑むように。
「いい。やはりあなたは面白い」
その一言で、広間の空気が弾けた。
貴族たちは安堵と歓喜の入り混じった声を上げ、金属の鎧がぶつかり合う音が響く。
赤い絨毯の上には無数の影が揺れ、玉座の間いっぱいに拍手と歓声が満ちた。
――帝国は、新たな友好の象徴を得たのだ。
黒い旗が風を受けてはためく。
その双頭の鷲の刺繍が、光を受けて妖しく煌めいた。
それはまるで、ひとりの少女を飲み込み、帝国の血に染め上げる儀式のようだった。
ミディアは静かに頭を下げた。
武と知の象徴がそこに在る。
その姿は、皮肉にも完璧な礼儀を備えた皇子妃のそれだった。
その指先はかすかに震えている。
怒りでも恐怖でもない。
――燃え盛る決意のせいだ。
目を閉じれば、故郷の風の匂いが胸の奥で揺れる。
あの丘、あの村、あの夜空。
もう戻ることはないのかもしれない。
けれど、心だけは渡さない。帝国に、誰にも。
彼女は再び顔を上げた。
朱の瞳が、まっすぐに彼女を見つめている。
その視線を受け止めながら、ミディアはゆるやかに微笑んだ。
穏やかで、気高く、どこまでも強い微笑みだった。
――その笑みの意味を、誰も知らない。
帝国の広間が歓声に沸く中、彼女はただひとり、心の奥底で静かに呟いた。
(……生き抜いてやる。この地で、しぶとく、したたかに)
金の光が揺らめく。
赤い絨毯の上に立つその姿は、もはや捕らわれの花嫁ではなかった。
獣の帝国の中で、次に牙を研ぐ者の微笑みだった。
◆
帝国の首都は王国とは違い、整然とした石畳の街路と、塔のようにそびえ立つ宮殿が特徴的な都だ。
通りを行き交う人々の足音は規則正しく、まるでこの国そのものが一つの巨大な機械であるかのように息づいていた。
だがその美しさの裏には、冷たく磨かれた刃のような秩序が潜んでいる。
光の届かぬ路地裏では、恐怖と服従だけが人を支配していた。
帝国の民衆は、ミディアに好奇の目を向けた。
「敵国の女」「人質の花嫁」「皇子の想い人」――そんな噂が、風よりも速く街を駆け抜ける。
視線のひとつひとつが針のように痛い。
けれど、彼女は一度も怯えなかった。
姿勢を崩さず、まるで城壁の上に立つ戦士のように、背筋をまっすぐに伸ばしていた。
皇子の命により、彼女には居城が与えられた。
それは宮殿の南翼に位置する塔。
外から見れば絢爛たる装飾を施された美しい塔だが、実際には高い塀と見張りに囲まれた、半ば監禁同然の屋敷である。
夜風が吹くたびに、鉄格子がかすかに鳴った。
――それでも、ミディアは笑っていた。
「贅沢な牢屋ね。せっかくだから、飾り方を考えないと」
侍女たちは困惑していた。
捕虜のはずの彼女が、まるで主のように振る舞うのだ。
花の配置、窓の開閉、食器の種類、日々の献立。
すべてを自ら決め、堂々と指示を出していく。
その姿は、王国貴族として培われた誇りと統率力の証。
やがて使用人たちは、彼女の言葉を恐れよりも信頼で受け止めるようになり、いつしか彼女に指示を仰ぐようになっていった。
――権力とは、与えられるものではなく、築くもの。
ミディアの父たちが教えてくれた言葉が、胸に蘇る。
彼女の瞳に再び炎が宿る。
そして三日も経たぬうちに、塔は完全に“彼女の領地”となっていた。
ある晩、皇子がふらりと現れた。
夜会を終えたばかりなのだろう。制服の襟元を緩め、酒の香りを纏いながら、薄く笑みを浮かべていた。
背後に立つ護衛たちは、ミディアを見る目にわずかな警戒を宿している。
それでも彼女は動じなかった。杯を手に、淡く微笑む。
「最近、随分と評判だな。宮中では『王国の令嬢が侍女たちを支配した』と囁かれている」
皇子の声には皮肉と興味が入り混じっていた。
ミディアは唇に指を当て、軽く笑った。
「支配だなんて人聞きが悪いわ。ただ、少し整理しただけ」
「ふむ……。では、あの整理とやらで、帝国の文官たちを招いた茶会は何だった?」
「礼儀の練習よ。帝国式の」
その瞬間、皇子の眉がわずかに動く。
月光が差し込む窓辺で、二人の影が長く交錯した。
茶会は表向き帝国の作法を学ぶ場として開かれたが、実際は帝国の若手官僚や技術者との交流の場だった。
ミディアは王国で培った知識――軍略、兵站、地理、外交の理――をわずかに語り、彼らの興味を惹きつけていた。
その声は甘く、しかし刃のように鋭かった。
「あなた、甘い言葉を囁いたようにみせかけて、
わたしを飾り物にするつもりだったでしょう?」
彼女は一歩、皇子へと歩み寄る。
金糸の髪が揺れ、瞳に灯る光が鋭く輝いた。
「でも残念ね。わたしは意志のないただの飾りではないの。
刻一刻と変化する、紙幣そのもの」
皇子は沈黙した。
その沈黙の中で、彼の目がかすかに笑う。
「……やはりあなたは恐ろしい女だ、ミディア。
けれど、嫌いではない。帝国にはあなたのような賢い者が必要だ」
「あら、国境での作戦にしてやられたわたしとしては、皮肉にしか聞こえないわね」
その言葉に、皇子の目が細くなる。
互いに笑い合いながらも、そこにあるのは恋ではない。
むしろ、鋭く研ぎ澄まされた二人の剣が触れ合う音に近い。
沈黙の中に、危うい火花が散った。
――二人の関係は、この夜から政治の一部になった。
数日後。
帝国の宮廷では、ひとつの噂が走った。
――皇子の婚約者、ミディアは帝国の武官を籠絡している、と。
事実、彼女は戦略論を語り合う夜会を定期的に開き、帝国軍の若手将校たちに助言を与えていた。
最初、彼らは敵国の女と警戒していたが、やがてその知識と胆力に惚れ込み、忠誠を誓う者まで現れた。
彼女の言葉は、彼らにとって新しい風のようだった。
上から押さえつける命令ではなく、共に戦場を見据える“理”として響いたのだ。
「辺境を守るには、恐怖ではなく尊敬が要るの」
彼女が静かに言うと、兵たちは黙って頷いた。
夜風が旗を揺らし、蝋燭の火がゆらめく。
その光の中で、ミディアの瞳は確かに燃えていた。
――そして、気づけば帝国の若き軍人たちは、彼女の言葉に耳を傾けるようになっていた。
◆
帝都は、今日も黄金の光に包まれていた。
朝の鐘が鳴り響き、尖塔の先に光が反射する。
大理石の街路は磨き上げられ、整列した衛兵たちの甲冑が陽光を受けて鈍く光っていた。
空には白い鳩が飛び、まるでこの国の繁栄を象徴するかのように舞い踊っている。
王国との国境で交戦が終結してから、ひと月。
帝国の人々は新しい領土と交易の開放に沸き立ち、広場では市場が拡大され、通りには豪奢な馬車と商人、そして貴族たちが行き交っていた。
歓声と銅貨の音、香辛料の匂いが入り混じり、街全体がひとつの巨大な祝祭のようだった。
だが、その一角――外交官の屋敷の門前は、重苦しい沈黙に包まれていた。
門を守る近衛が槍を構え、冷たい眼差しで二人の客人を見下ろしている。
金髪をなびかせ、絹のマントを羽織った青年。
その瞳には焦燥と誇りが混ざっていた。
そして、その腕に寄り添う、儚げな金髪の令嬢。
薄桃色のドレスの裾が石畳をかすめ、震える指が青年の袖を掴む。
レオン元公爵令息と、養子に入って元辺境伯令嬢となったアニー。
王国の政変から逃れるため、彼らは命からがら帝国に亡命してきたのだ。
旅路の疲れがまだ消えぬまま、彼らは帝国の冷たい空気の中で、わずかな希望にすがっていた。
「お願いです、皇子殿下。王国はもう我らを見捨てました。帝国こそ、新たな故郷に……」
謁見の間で、レオンは深く膝をついた。
声は震えていたが、誇りを捨てたくはなかった。
だが、その震えは石造りの広間に吸い込まれ、反響することもなく静かに消える。
玉座の間の天井は高く、赤い絨毯は延々と皇子の足元まで続いている。
香炉の煙が薄く揺れ、空気に金属と香油の匂いが混じる。
玉座に座る皇子は微動だにせず、ただ冷ややかに二人を見下ろしていた。
その瞳は氷のように透き通り、何ひとつ情を映さない。
傍らには、皇子が最も信頼する側近が控えている。
長身で、冷静な笑みすら浮かべぬ男。手には整然と綴じられた報告書が抱えられていた。
皇子がようやく口を開く。
「亡命の申し出は受理しよう。だが、帝国法に則り、身元の調査と財産の検分を行う」
その声は柔らかく、まるで慈悲深い主のようだった。
だが、玉座の影にいる者たちは、その言葉が審問の始まりであることを知っている。
レオンは安堵の息をついた。
胸の奥で小さく「助かった」と呟いた。
隣のアニーもほっとしたように目を伏せる。
だが、それが破滅の始まりだとは、まだ誰も知らなかった。
側近は静かに一礼し、報告書を差し出す。
羊皮紙がわずかに音を立て、空気が張りつめる。
「先日の王国文書によれば、彼らは国境の防衛を放棄し、敵国へ領地情報を漏らした疑いがあるとのこと。
帝国法第七十条、国家機密の供述者として監査の対象に指定すべきかと」
淡々とした声が広間に響く。
その瞬間、アニーの顔から血の気が引いた。
レオンは愕然とし、拳を床に叩きつける。
「な──!」
叫びは、冷たい大理石に虚しく反響しただけだった。
皇子はゆるやかに印章を取り上げ、報告書に指先で印を押す。
朱の印が紙に滲み、まるで血のように広がっていく。
そして、彼は何事もなかったかのように言った。
「正式に、帝国の管理下に置く。……安心しろ。罪人ではない、客人として保護しよう」
その言葉に、場がざわめいた。
外交官たちは顔を見合わせる。
帝国で保護と呼ばれるものが、実際には“監視と拘束”を意味することを、誰もが知っていた。
レオンは顔を上げ、蒼白になった唇で何かを言おうとしたが、警備兵がすでに彼の肩に手を置いていた。
アニーの瞳が涙に濡れ、震える声で名を呼ぶ。
だが、その声もすぐに掻き消される。
玉座の上、皇子は微動だにせず、その光景を眺めていた。
感情の一片も見せず、まるで一枚の絵画を鑑賞するかのように。
――帝国の保護は、支配の第一歩。
王国の恥である青年と、その婚約者は、あっという間に帝国の玩具となった。
◆
数週間後。
帝都では珍しく、夜会が開かれていた。
皇子主催の晩餐会――金の燭台が並ぶ大広間には、幾千もの光が反射し、壁面の鏡がそれを増幅していた。
絹の裾が擦れる音、香の薫る空気、笑い声の奥に潜む駆け引き。
帝国の貴族たちが、この夜ばかりは仮面をつけて社交を楽しんでいた。
その中央に、ミディアの姿があった。
深紅のドレスが静かに波打ち、背筋は糸のようにまっすぐ。
そしてその隣には――帝国第一皇子の姿があった。
彼は穏やかな笑みを浮かべながらも、視線だけは彼女から離さない。
「まさか本当に呼ばれるとは思いませんでしたわ」
「いいや、君がいなければ退屈だから」
ワイングラスを傾けながら、軽口を交わす二人。
けれどその会話の裏で、熱を帯びているのは皇子の瞳だった。
かつて支配したいと願った女が、今は己の隣で帝国を動かしている。
その知略も、鋼の心も、美しさも――もはや代えの利かぬものになっていた。
「……俺が君に笑うと、兵士たちが怯えるんだ。あの冷たい皇子が人間だったと」
「笑っているのではなく、皮肉っているだけですよ」
唇にわずかに浮かんだ笑みは、氷の刃のように冷たい。
だが、それすら美しいと皇子は思っていた。
その時、会場の扉が開く。
音楽が一瞬だけ止まり、視線が一斉に入口へと向く。
侍女に導かれて入ってきたのは――レオンとアニーだった。
二人の衣はくすみ、宝石も安っぽく輝きを失っている。
かつて誇らしげに掲げた家紋は、すでに取り上げられた。
彼らの財産は帝国法により没収され、今や生活の全てが皇室の慈悲で成り立っていた。
それでも、アニーは笑おうとした。
震える指でドレスの裾をつまみ、かすかに頭を下げる。
「ミディア様……。お久しぶりです。こうして同じ国で──」
「ええ、同じですね。もっとも、立場は違いますが」
その瞬間、空気が凍りついた。
音楽も笑い声も、ひととき息を潜める。
皇子が片手を上げ、再び楽団に合図を送った。
旋律が再開し、彼はワイングラスを高く掲げる。
「皆の者。ここに新たな帝国民を歓迎しよう。
……王国を裏切り、帝国の利益に寄与することで、生き延びた者たちだ」
皮肉な祝辞に、会場中が笑いに包まれた。
レオンの顔が赤く染まり、アニーの瞳には涙が滲む。
その姿を、ミディアは淡く見下ろしていた。
復讐という言葉よりも冷たい、完全な決着。
剣も血も使わず、法と政治という手段で、二人の命を奪わぬまま尊厳だけを奪い去った。
彼女の心に燻っていた炎は、ようやく静かな灰となって沈んでいく。
夜会の後。
人の気配が遠のいたバルコニーに、夜風が吹き抜けていた。
ミディアはひとり、月を仰いでいた。
銀の髪が光を反射し、冷えた空気の中でゆるやかに揺れる。
背後から、重い靴音。
振り向くまでもなく、誰かが近づくのを感じる。
「……満足か?」
低い声。
振り返ると、皇子がそこにいた。
晩餐の喧噪を離れ、彼もまた息を吐くようにグラスを傾けている。
「ええ。これ以上の終わり方は、ないでしょうね」
ミディアは静かに答えた。
けれど、その声音にはどこか張り詰めた寂しさが混ざっていた。
復讐は終わった――それは同時に、生きる理由をひとつ失った瞬間でもあった。
リヒトはしばし黙って彼女を見つめていたが、やがて一歩近づき、彼女の指先を取った。
「ミディアが笑うたび、心臓が締め付けられる。
戦で見たときの君は、ただの敵だったのに……。今は違う」
「……また、強引な言い回しを」
「俺は帝国の男だ。欲しいものは、奪ってでも手に入れる」
そう言って、彼はミディアの手の甲に唇を落とした。
だが今回は、かつての支配のキスではなかった。
焦がれるように、ひどく慎ましく――まるで彼女の許しを乞うように。
「ミディア。
お前が誰を裁こうと、どんな国を築こうと、俺は構わない。
……ただ、共に歩ませてくれ」
ミディアは沈黙した。
けれど、彼の目に映る月を見た瞬間、胸の奥がわずかに痛んだ。
その痛みは、かつて失った人としての心の残響のようでもあった。
やがて、ミディアは小さく息を吐く。
風がドレスの裾を撫で、夜の香が流れる。
皇子の言葉が、どこまでも静かに響いた。
「ミディアの許しがないなら、俺は一歩も進まない」
その声が遠ざかるほど、ミディアの中で何かが揺らぐ。
憎しみから生まれた婚約――それはいつしか、帝国を変える絆へと形を変えつつあった。
◆
翌日。
帝都の空は、冬の初めのように澄み切っていた。
鐘の音が高く響き渡り、白い鳩が王宮の尖塔から一斉に飛び立つ。
人々はその音に顔を上げ――次の瞬間、驚きに息を呑んだ。
帝国第一皇子の婚約が、正式に布告されたのだ。
婚約者の名は、ミディア元辺境伯令嬢。
かつて敵国の将であり、帝国を震撼させた国境の要。
その報せは瞬く間に帝都を駆け巡り、歓喜と恐怖の入り混じった波となって貴族たちの間を走り抜けた。
誰もがその名を知っている。
誰もが、彼女がどれほどの権勢と知略を手にしたかを理解していた。
――そして、それはかつて王国で栄華を誇った者たちにとって、まさに死刑宣告に等しかった。
とりわけ、亡命中のレオンとアニーにとっては致命的な報だった。
帝国が王国の残党を“粛清すべき敵”として扱う中で、彼らを庇護する者はもはや存在しない。
頼みの綱であった旧王国の貴族連も次々に帝国へ帰順し、彼らの名は帳簿からすら消されていった。
その中で、ミディアは最後の一手を打った。
――彼らの保護名目を撤回し、王国残党の協力者として再審請求を行う。
その一文だけで、帝国の法は無慈悲に動いた。
冷たい印章が押される音が、まるで断罪の鐘のように響く。
結果――
彼らはすべての財産と身分を剥奪され、帝都の片隅で平民として生きることになった。
貴族の邸宅はすでに他家のものとなり、屋敷の壁を覆っていた絹のタペストリーも市場で売り払われた。
人々は、かつての伯爵家の名を口にすることすら恐れた。
冬の風が冷たく吹き抜ける石畳の路地。
そこに、レオンとアニーは身を寄せ合っていた。
灯りもなく、かすれた息が白く立ち上る。
「アニー、寒いよ……」
「ごめんなさい、レオン様……もう、パンも……」
手を重ね合う指先は、あまりにも細く、骨ばっていた。
アニーの瞳には、あの頃の華やかな光はない。
レオンは壁に背を預け、空を見上げた。
そこに広がるのは、かつて自分が見下ろしていたはずの帝都の空。
だが今は、その灯が彼らの届かぬ遠い世界のもののように見えた。
その視線の先――高い城壁の上で、二つの影が並んでいた。
金の髪が月光を受けて輝き、黒の軍服が風にはためく。
帝国の新たな英雄である帝国の皇子。
そして、その隣に立つ、冷徹にして美しき将――ミディア。
人々は彼らを帝国の夜明けと呼び、祝福の声を上げていた。
城下に響くその歓声が、路地裏にまで届く。
レオンは唇を噛み、アニーはその胸に顔を埋めて泣いた。
復讐の剣は抜かれずとも、これ以上ないほど鮮やかに彼らを斬り伏せていた。
――帝国の頂で、別の二人がその光景を見つめていた。
夜風が吹く城壁の上。
リヒトは星の瞬きを追うように、静かに呟いた。
「君の正義は、恐ろしいほど美しい」
その横顔を見て、ミディアはわずかに目を細めた。
風に揺れる金の髪が頬をかすめる。
「正義ではありません。これは、けじめです」
淡く笑うその顔は、氷のように冷たいはずなのに、どこか温かく見えた。
リヒトはしばし見惚れ、そして静かに息を漏らす。
「……それでも、俺は君を愛している」
その言葉に、ミディアの瞳が微かに揺れた。
彼女はしばし沈黙し、夜空を見上げる。
遠くで帝都の灯がまたたき、音もなく雪が舞い始めていた。
「なら、せめてこの国を。わたしと共に守ってください。
――二度と、失わないように」
その声は、誓いというより祈りに近かった。
皇子は微笑み、彼女の手を取る。
その手は、剣を握る者の手でありながら、驚くほど柔らかかった。
「望むままに。君となら、どんな国にでも変えてみよう」
紅い月が二人を照らす。
それはまるで、過去の血と罪を赦すような、静かな光だった。
敵として出会い、復讐で結ばれ、そして――愛へ。
帝国の歴史は、この夜をもって塗り替えられた。
ミディアと皇子が築いた黄金の時代の幕開けを、
この月だけが、静かに見下ろしていた。
いつも応援コメント、評価、リアクションありがとうございます!
ぜひ面白ければ★★★★★、退屈だったら★☆☆☆☆をお願いします。
ここまで読んでくださったみなさんに感謝!!
前後篇お付き合いいただきありがとうございました!
⬇お時間ある方はこちらもどうぞ。サクッとコメディー⬇
【転生監査官、勇者の『転生特典チート』を合法的に没収する】
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