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前後篇。次の更新は本日22時頃を予定!
公爵令息レオンと辺境伯令嬢ミディアの婚約は、この国の希望だった。
――国を挟む東の平原には、幾度となく帝国の軍旗が翻ってきた。
国境を守る砦の上には、今も雪解けの風が吹き荒び、遠くの山脈の向こうに煙る帝国の影を映している。
帝国との国境を建国以来から守護する二家は、同じ志を持ちながらも妙に馬が合わず、長年犬猿の仲として知られている。
片や学問と政治の中心である公爵家。
片や剣と血の歴史を背負う辺境伯家。
「知の公爵」「武の辺境伯」。
そう呼ばれるのも、まさしく納得の構図だった。
城下の人々は時折、酒場でそんな話を肴にする。
公爵家の者は書を好み、戦を嫌う。
辺境伯家の者は言葉より拳、理屈より行動。
――どう考えても、混じり合うはずのない水と油。
だが近年、帝国が力を増していた。
雪原を越えて進軍する鉄の軍勢。各地の砦が圧迫され、国境の空は不穏な影に覆われていく。
もはや「個人の感情」より「国の存続」が優先される時代が訪れた。
その決断の夜、首都では王の謁見室に重苦しい沈黙があったという。
古参の貴族たちは息を潜め、書記官の筆の音だけが響いていた。
両家の当主たちは、渋々ながらもその場で立ち上がった。
背筋を伸ばし、互いに視線を交わす。
そこにあるのは、敵意でも憎悪でもなく――国のために背を向けられぬ宿命の覚悟だった。
炎の灯る玉座の間の中、ふたりの若者は静かに対面した。
レオンは蒼の瞳を細め、わずかに唇を結ぶ。理知的な青年らしく、感情を抑えた面持ちで。
ミディアはまっすぐに彼を見据え、その瞳の奥にわずかな警戒と、凛とした強さを宿していた。
――それが、レオンとミディアの始まりだった。
祝福の鐘は鳴らなかった。
けれども、冷たい風の中で交わされたその約束こそが、国の境界をつなぐ唯一の希望と呼ばれた。
◆
ミディアとしては、レオンとの関係は穏やかだったと考えている。
いつものやり取りは、恋人らしい甘いものとは程遠かった。
話題はもっぱら戦と戦略。軍事演習の見直しや兵站の改良、互いの家が誇る技術共有――。
地図を広げ、兵の移動を指でなぞる時間のほうが、よほど楽しかった。
恋愛感情はなかったが、対等に議論できる相手としては悪くなかった。
理屈で話が通じる人間は、貴族の中でもそう多くない。
彼の静かな瞳の奥に、確かに国を想う理性の光を見たこともある。
……少なくとも、あの頃は。
だがここ一年、レオンは王都に入り浸り、ミディアに国境の守備を任せたままだ。
国境沿いの空は今日も重い雲に覆われ、北風が砦の石壁を叩いている。
いくつもの報告書に目を通しながら、彼女は眉を寄せた。
噂によれば、美しく可憐なご令嬢と日がな一日遊び呆けているらしい。
舞踏会、茶会、王族主催の競馬――。どの場にも、彼の名が挙がる。
そのたびに、国境警備の指揮官たちは苦い顔をした。
(……なるほど。ではこちらも対応を考えましょう)
昼下がりの鍛錬場。
石畳の上で、ミディアは軽装のまま剣を構えた。
白い息が風に散り、鋼の音が空気を裂く。
一対一の模擬戦の最中、彼女の意識は静かに内側へ向かっていた。
剣を交わしながらも、頭の中では戦略会議が進行している。
(わたしが王都に行って説得を……ありえない、却下ね。国境に穴ができてしまうわ)
視界の端で、訓練を見守る騎士たちが息を呑むのがわかる。
ミディアの剣筋はいつもより幾分鋭く、迷いがなかった。
剣を打ち合わせながら、彼女は静かに策を練る。
金銭の流れ、書面上の制約、貴族間の信義。
思考は滑らかに、しかし冷徹に巡る。
その剣の荒々しさに、対戦相手の騎士の顔が歪んでいった。
汗が飛び、足元の砂が跳ねる。
(……ふむ。そうであれば、呼び戻しましょうか。共同資産を凍結すれば、遊ぶ金がなくて帰ってくるでしょう)
この国では、婚約者同士で共同資産を持てる。
額はまだ小さいが、それでも数年遊ぶには十分な資金だ。
それを凍結すれば、いずれ向こうから連絡をよこすだろう。
剣を打ち合う音が、次第に澄んでいく。
風が一瞬止まり、周囲の空気がぴんと張りつめた。
そして次の瞬間――。
━━ボキンッ。
金属の甲高い音とともに、相手方の剣が真ん中から折れた。
沈黙。
粉雪がひとひら、二人の間を舞う。
「あら、ごめんなさい」
息も乱さず、ミディアは小首を傾げた。
その声音は、まるで昼食後の世間話のように穏やかだった。
「いえ。流石は武の辺境伯家のご令嬢。感服いたしました」
公爵家の騎士が額の汗を拭いながら頭を下げる。
訓練場にいた者たちは、一斉に背筋を伸ばした。
ミディアは剣を鞘に納め、軽く笑んで肩の埃を払う。
空は薄曇りで、遠くでは砦の鐘が微かに鳴っている。
彼女は鍛錬を終えると、見守っていた騎士たちに激励の言葉をかけ、静かに場を後にした。
そして、その日のうちに――レオンとの共同資産を、すべて凍結した。
◆
一週間後。
雪解けが進み、砦を囲む森にはほのかな緑が戻り始めていた。
冬のあいだ凍りついていた川が音を取り戻し、春の風が国境を優しく撫でていく。
その日、辺境伯邸では久方ぶりの晩餐会が開かれていた。
王都から公爵家を迎え、両家の当主と夫人が一堂に会している。
テーブルの上では、銀の燭台が暖かな光を揺らし、香草と焼き肉の香ばしい匂いが広間を包んでいた。
誰もが穏やかに杯を傾け、今宵こそ久しぶりに平和な会談になる――はず、だった。
その時、重厚な扉が――蹴り開けられた。
轟音が壁に反響し、会場の空気が一瞬で凍りつく。
貴婦人たちは悲鳴を上げかけ、執事はトレイを取り落としそうになる。
緊張の中、赤い絨毯を踏みつけるようにして、二つの影が現れた。
「おいミディア! どうして俺の金を止めた!」
声の主は――レオン。
ミディアの婚約者であり、知の公爵より直に教育を施された秀才である。
だがその姿は、ミディアが知る彼とはまるで別人だった。
髪は乱れ、目は血走り、頬はやつれている。
あの理知的で冷静沈着だった青年が、これほどまでに荒れるとは――。
そして彼の腕に縋るようにしていたのは、見知らぬ若い令嬢だった。
絹のドレスに宝石を散らし、胸元をこれでもかと強調したその姿は、確かに可憐と呼べなくもない。
だが、どこか下品な華やかさが鼻についた。
「そうよそうよ! 私とレオン様は真実の愛で結ばれているの!
どうして田舎に引きこもってるあなたなんかに口を出されなきゃいけないの!?」
甲高い声が、豪奢なホールに響く。
ミディアは、椅子に腰掛けたまま静かに息をついた。
長い睫毛がわずかに震え、手元のグラスがかすかに揺れる。
(あらまぁ……)
心の中で小さく呟き、彼女は冷めた目で二人を見やる。
かつての理知的な青年が、これほど愚かになるとは。
まるで何かに取り憑かれたかのようだ。
――王都では麻薬でも流行っているのかしら。
そう思わざるを得なかった。
レオンはテーブルを叩き、ワインのグラスが跳ねた。
紅の液体が白いテーブルクロスを汚し、見る間に染みを広げていく。
誰もがその無礼を非難するように視線を向けた。
「……そうか! 俺に構ってもらえなくて寂しかったんだろ?
だから資産を凍結なんかしたんだ。
なんだ、そんな理由だったら王都に来たらよかったじゃないか」
その言葉に、ミディアは目を細める。
まるで子どもが泣き喚くような論理。
かつての知略家は、どこへ消えたのか。
「ありえません。あなたと同じように国境に穴をあけるなんて、
辺境伯家の……いえ、この一帯の恥ですわ」
その声は澄んでいて、鋼のように冷たかった。
周囲の空気が、再び張りつめる。
だが令嬢は、怯むどころかさらに前に出た。
絹の裾を翻し、宝石を鳴らしながら、勝ち誇ったように笑う。
「それとももしかして、噂を聞いてこの私に嫉妬したとか?
ふふ。でもわかるわぁ。だって私、可愛いもの!」
その場の空気が凍る。
静寂が一拍――そして、誰かが小さく咳払いをした。
滑稽すぎて、怒る気にもなれない。
ミディアは、水を一口含み、グラスを静かに置いた。
「いえ、確かに格好は可愛らしいかと思いますが……。
その服では、馬で駆ければ泥も虫も、すべて染みになってしまいます。
それでもいいのなら、話は別ですが」
淡々と返すその声は、皮肉を孕みながらも上品だった。
礼儀の範囲内で相手を斬り捨てる――それが貴族令嬢らしいやり方だ。
令嬢の顔が一瞬にして青ざめ、唇を震わせる。
ホールの奥から、押し殺した笑いがこぼれた。
だがミディアは、その反応さえも意に介さず、ただ静かに背筋を伸ばす。
(……なんだか、目の前の光景がまるでお花畑のようね)
頭の奥が少しだけ痺れるような感覚。
人間の愚かさに直面した時、理性が自ら逃げ道を作るのだろう。
――なるほど。現実逃避というのは、こういう感覚なのかもしれない。
燭台の灯りがゆらりと揺れ、テーブルクロスの赤い染みが金色に照らされた。
ミディアは視線を落とし、指先でナプキンを整える。
その手つきは、まるで何事もなかったかのように優雅だった。
外では風が吹き、窓辺のカーテンがかすかに揺れた。
彼女の瞳には、もはや怒りも悲しみもなかった。
ただ――静かな諦念と、遠い決意の色だけが宿っていた。
◆
――国境を挟んで話した、朱の瞳の青年のこと。
朝靄の残る冷たい風が、髪をさらりと撫でていった。
遠くの山々にはまだ薄く霧がかかり、朝陽がその隙間から差し込み、金の筋となって草原を照らしている。
見回りの途中、馬の蹄が湿った土を踏みしめる音だけが響いていたとき、向こうの丘を黒馬が駆けてきた。
その背にいたのが、彼――朱の瞳を持つ青年だった。
陽光を受けた黒馬の毛並みは艶やかで、乗り手の白いシャツがそれを引き立てる。
青年は馬を止めると、軽やかに降り、丁寧に頭を下げた。
その仕草ひとつ取っても育ちの良さが滲む。
「おはようございます。辺境の方でしょうか?」
礼儀正しく、まっすぐな瞳。どこか幼いが、芯のある印象だった。
言葉遣いも落ち着いていて、無駄な虚勢も見えない。
若者特有の初々しさがありながらも、その足取りや姿勢に、戦場の空気を知る者のような緊張感があった。
それに、シャツ越しに見えたうっすらとした筋肉。
決して鍛え上げられたものではないが、力の流れが美しい。
背はミディアと同じくらいで、その体躯はまだまだ可能性を孕み、朝陽に照らされて輝いていた。
ミディアは思わず息を呑んだ。
その瞳、その均整の取れた肩、そして風に揺れる髪の下の首筋。
どこを取っても、彼女の好みのど真ん中だった。
しかも今なら、一緒に鍛錬もできるかもしれない。
まだ荒削りな身体を、共に「育てて」いくことができる。
その考えが一瞬、頭をよぎり、思わず目で追ってしまう。
けれどすぐに、冷たい理性が首を押さえた。
しかし、ミディアは婚約者のいる身。
少年がいくら美しかろうと、会う度に鑑賞するに留めている。
帝国の民に情を移すことがどれほど愚かで、どれほど多くの人に影響を与えるか――彼女は誰よりも理解していた。
朝陽の下、黒馬が嘶く。
青年は再び一礼し、霧の向こうへと消えていった。
その背を見送りながら、ミディアはほんの一瞬だけ、胸の奥が熱を帯びるのを感じた。
今までもこれからも――。
その思いは、心の奥底でそっと封じたまま、誰にも知られることはない。
◆
重厚な扉の向こう、応接間には絹のカーテンがゆるやかに揺れていた。
夕刻を過ぎたばかりの空気が、窓越しに淡い群青を差し込ませ、銀のポットをかすかに照らす。
湯気は立ちのぼらず、冷えきった空間の中で、照明だけが場の緊張を際立たせていた。
そして――。
「っ……辺境伯、申し訳ないッ!」
頭を下げた公爵の声が、床石に響く。
声には震えがあり、額には玉のような汗。
それでも、彼がすぐに頭を下げたのは英断だった。
自らの非を認めたほうが、どれほど体面を守ることになるかを、彼は長年の政務の中で知っている。
だが、その肩には重みがあった。
――息子に教育を施したのは、他ならぬ自分自身なのだから。
その成果が、いまこの醜態だ。
まるで背骨の芯まで冷たくなるような後悔が、老いた指先を震わせていた。
対する辺境伯は、ゆったりと椅子の背に凭れながら、低く笑った。
「いやはや、ミディアから聞いていたが……これほど愉快なことになっているとはな。ははは!」
笑声は朗らかだが、どこか獣の喉の奥から響くような響きを持っている。
この男にとって、今回の騒動など“子供の諍い”に等しい。
せいぜい「そこらをうろついていたペットが、食用判定に変わった」程度の感覚。
――この国境を守る男たちは、血と命を秤にかけてきた。
金や名誉で揉める息子の話など、あまりにも些末なことなのだ。
一方で、ミディアは冷静だった。
胸の奥の温度は一定に保たれ、表情ひとつ崩さない。
もとより、ある程度の展開は予想していた。こうなることも、想定の範囲内。
ただ、問題は別のところにあった。
公爵家の騎士と辺境伯家の騎士――双方の誇り高き剣が、あの騒動の余波でいくつ折れたか。
それを思うと、額の奥が鈍く疼く。
だが、今はあえて触れない。余計な混乱を避けるのが最善だ。
……もともと、考え込むよりも身体を動かす方が得意なのだ。
剣を振るえば思考も整理される。仕方のないことだと、自分に言い聞かせる。
そんな中、場の空気を切り裂くように、ミディアがゆっくりと口を開いた。
「まぁまぁ、父上もお義父様も、そのくらいに。
わたしとしては、この婚約破棄に同意してもいいと思っているのです」
その一言に、レオンとご令嬢の顔がぱっと輝いた。
まるで春の花が一斉に咲いたかのように。
互いに見つめ合うその様は、愚かで純粋な恋を演じる劇の一場面のようだった。
しかし、他の者たちの反応はまちまちだった。
辺境伯夫妻は、「面白そうなことを考えてるではないか!」と、いたずらを思いついた少年のように笑う。
対して、公爵夫妻は青ざめ、椅子の肘掛けを握る手が震えていた。
金の指輪がかすかに音を立て、重苦しい沈黙が部屋を包む。
「ええと、そこのご令嬢……」
ミディアが視線を向けると、少女が息を荒くして答えた。
「アニーですわ!」
「そう、アニー様。あなた、うちの養子になりなさい。
わたしの義妹になれば、レオン様の婚約者になれますよ」
部屋の空気が、一瞬止まった。
音という音が吸い込まれ、時計の針の音さえ遠のく。
レオンが勢いよく立ち上がり、椅子が後ろで軋んだ。
「本当なのか、ミディア!」
焦る声。だがミディアの声は静かだった。
「えぇ。うちとしては、嫁ぐ人がいればいいのです。それは姓が同じであれば良いということ。
養子になれば、それが叶いますわ」
「えぇ、でも……」
「わたしはアニー様に接触しませんし、なんなら国境警備に張り付いても構いません。一筆書きましょうか?」
その言葉と同時に、ミディアは懐から一枚の紙を取り出した。
白い指が滑らかに動き、机の上に広げる。
蝋燭の光を受けて、ペンの先が鋭く光る。
その仕草には、ためらいも、情も、微塵もなかった。
両親は、まるで芝居を見ているようにくすくすと笑っている。
公爵夫妻の顔色はどんどん悪くなり、まるで血の気が引いていくようだった。
――なんてことを、と夫婦揃って眉を寄せる様子が、少しだけ滑稽ですらある。
「レオン様とアニー様が正式に婚約するには、アニー様の教育が終わるかつ、わたしの次の婚約者が見つかるという条件でどうでしょう?」
レオンがくぐもった声で聞いた。
「……ミディア、お前永遠に独身でいることはないだろうな」
「父上が許しません。公爵家と違って、わたしは一人娘ですので。
貴族として血を繋ぐことは義務。……せいぜい二年経ったら見つかると思いますわ」
そのとき、レオンとアニーの口元がほころんだ。
勝ち誇った笑み。
いや、むしろ安堵を滲ませていた。
確かに、今のミディアは十八歳。この国では十五歳で成人。婚約適齢期はとうに過ぎた。
残っているのは、癖のある者か、問題のある者ばかり――表向きはそう見えるだろう。
けれど。
辺境伯家は代々、王国の防衛を担う家柄だ。田舎とはいえ、領地は広く、財も潤っている。
少し年下から募ることになるだろうが、むしろ従順な方がうまくやっていける。
なにより、十五歳といえば肉体改造には最も適した時期。
第二次性徴期。
――レオンより、ずっと「伸びしろ」があるではないか。
「わかった。その条件、呑もう」
「これでレオン様とずっと一緒にいれますわ!」
「あぁ、アニー……」
ぎゅっと抱き合う二人。
まるで絵画の中の恋人たちのように、無邪気で、愚かで、まぶしい。
だが、ミディアの心には波ひとつ立たなかった。
あぁ、これで本当に良かったのだ、と。
「さあ、養子云々の書面は後日お送りします。
ひとまず今日はお帰りくださいませ。署名は立会人の元で行い、決してその日まで外に出ませんよう。
わたしは署名された旨を聞き次第、約束の通りすぐに国境へ向かいますので」
そう言って深く一礼したミディアの顔には、静かな微笑が浮かんでいた。
その瞳の奥でだけ、わずかに光るものがあった。
◆
公爵一家とアニーを追い出したあと、屋敷にはようやく静寂が戻った。
それは、長い戦のあとに訪れる静かな夜明けのようだった。
外では春風が庭の木々を渡り、落ち葉が石畳を転がる音だけが響いている。
騒ぎの名残はまだ壁に染みついているのに、邸内の空気は奇妙なほど澄んでいた。
「さて、劇の幕引きとしては、上々ね」
ミディアはワイングラスを軽く傾け、赤い液体を光に透かして微笑んだ。
辺境伯家の者しかいない広間には、彼女の声だけが柔らかく反響する。
まるで王都の舞台で、最後の独白を終えた女優のように、堂々とした姿だった。
彼女は、これまでの経緯を語り始めた。
まるで宮廷の舞踏会で語られる流行りの恋愛劇でも演じているかのように、身振り手振りを交えて、軽妙に。
周囲の者たちはくすくすと笑い、執事までもが肩を震わせていた。
“公爵家のご令息が恋に溺れ、辺境伯家の婚約者に見限られる”――そんな物語、王都ではきっといい酒の肴になるだろう。
けれど、その軽やかな語りの裏には、誰も知らぬ積み重ねがあった。
レオンが国境の守りを放り出し、勝手に王都へと抜けたあの日。
空は血のような夕焼けに染まり、哨戒の号笛が砦じゅうに鳴り響いていた。
彼がいないというたった一つの事実が、前線全体を緊張に晒した。
近隣諸国の斥候は活発になり、補給線は寸断されかけた。
代わりに前線を預かることになったのが、当時まだ十六歳のミディアだった。
冷たい風が吹く砦の上で、彼女は夜通し書簡を読み、地図に印をつけた。
指先にはペンの跡が食い込み、目の下には深い隈が刻まれた。
剣を振るうばかりでは国は守れない。
そのことを痛感した彼女は、嫌でも知を身につけざるを得なかった。
敵の布陣、交易の流れ、補給線、そして外交。
頭が焼けるような日々の中、彼女は理論を吸い込み、実戦で確かめていった。
――そしてある日。
その報告書を読んだ公爵が、初めて娘を見るような眼差しで言った。
「お前には、知を授ける資格がある」と。
それからの数年間。
武を父に、知を公爵に。
ミディアは二つの系譜を受け継ぎ、王国でも指折りの戦略家へと成長していった。
今では彼女がいなければ、国境の防衛線は一日と持たぬと言われるほど。
それほどまでに、ミディアはこの地にとって欠かせない存在となっていた。
だからこそ、妥協したのだ。
アニーを養子として迎え、レオンを解放する。
名目上は譲歩。しかし実際には、王都への影響力を削ぎ、辺境の支配を固める最良の一手。
国境に専念することは、彼女にとって敗北ではなく、選ばれし務めだった。
――この決断は、誰も傷つけず、最も多くを救うものだった。
外では、夜風が砦の旗を揺らしている。
空は群青に染まり、遠くに見える灯火が、まるで戦場の狼煙のように瞬いた。
ミディアはその光を見上げながら、紅茶をもう一口啜った。
「国を守るのも、人を切るのも、結局は同じことね」
誰に聞かせるでもなく、静かに呟く。
その横顔には、戦場よりも冷たく、美しい凛とした輝きがあった。
◆
一週間後。
立会人のもとで、婚約破棄の手続きが正式に完了した――その知らせが届いたのは、春の風が草原を渡る午後だった。
封書の封蝋を割ると、ふわりと香るのは王都のインクの匂い。懐かしくも、今はもう自分に関係のない場所の香りだ。
ミディアは手紙を静かに読み終えると、紙の端を指でなぞり、無言で机の上に置いた。
長く心に絡みついていた鎖が、ようやく解けた気がした。
胸の奥に、冷たいものと温かいものが同時に流れ込んでくる。
すべてが終わった。これで本当に、過去を切り離せる。
「さて……行きましょうか。第二の故郷へ」
呟きは風に溶け、書斎のカーテンを揺らした。
軽く息を吐いてマントを翻すと、布の裾が床を擦り、陽の光を反射する。
玄関を出ると、眩しいほどの青空が広がっていた。
雲ひとつない空は、まるで彼女の決意を映す鏡のようだ。
陽光は柔らかく、空気は澄み、遠くの森から鳥の声が響く。
風が金色の草を揺らし、まるで彼女の帰還を祝福するようにさざめいていた。
馬の背に跨り、ミディアは一度だけ屋敷の方向を振り返った。
かつて笑い声が響いていた中庭、春を待つ薔薇園、そしてあの執務机。
見慣れた屋敷、かつての婚約者、そして鍛錬や勉学の日々――
すべてが遠く霞んでいく。
「……もういいわ」
その声には、哀しみも未練もなかった。ただ、静かな終止符の響き。
手綱を強く握ると、蹄が地を蹴り、風が頬を打った。
草原の風がマントをはためかせ、過去という名の影を振り払っていく。
道の両脇には、春を告げる小さな花々が咲き誇っていた。
野の花の白や薄紫が陽の光を受けて淡く揺れ、どこまでも続く道に彩りを添える。
その鮮やかさに反して、心は驚くほど静かだ。
――それにしても、とミディアは思案する。
アニーは、果たしてこの地の教育に耐えられるだろうか。
国境で求められるものは、華やかな礼儀作法ではない。
敵の意図を読む知略、長時間の演習に耐える体力、瞬時に判断し命令を下す胆力――
そのすべてが必要だ。
あの柔らかな手で、何ができるというのだろう。
せいぜい、最初の冬を越せるかどうか。
ミディアは唇の端をわずかに吊り上げた。
「……まぁ、見ものではあるわね」
馬の蹄音が、やがて硬い石畳から荒れた土道へと変わる。
そこから先が、国境地帯――ミディアが幼い頃から慣れ親しんだ土地だ。
空気が変わる。湿った森の匂いから、乾いた鉄と煙の匂いへ。
遠くで鍛冶場の槌音が響き、風に混じって兵の掛け声が聞こえる。
そのどれもが、懐かしい鼓動のように胸に染みた。
剣の音、鍛錬場の叫び、夜明けとともに響く号砲。
この地には、血と汗と、そして誇りの匂いがある。
王都の香水より、ずっと心地よい匂い。
砦の見張り台が見えてくると、兵たちが彼女の姿に気づき、次々と敬礼を送った。
「おかえりなさいませ、ミディア様!」
「戻られたのですね!」
その声に、ミディアは静かに微笑む。
「ただいま。今日から、またよろしく頼むわ」
その一言に、場の空気が引き締まった。
彼女がいるだけで、砦が息を吹き返す。
誰もが誇らしげに胸を張り、兵たちの背筋が自然と伸びる。
久しぶりに足を踏み入れた砦の石段は、陽に温められていた。
土の感触が懐かしい。歩くたびに、過去の記憶が靴の裏で鳴る。
兵舎の隅にある小屋を借り、荷を解きながら深く息を吸う。
土と鉄の匂い、遠くで鳴る金槌の音。
この音、この空気――これこそが、自分の生きる場所だ。
「ふふ……やっぱり、ここが一番落ち着くわね」
小屋の窓を開け放ち、空を仰ぐ。
陽の光が鎧の飾りに反射し、銀のきらめきが部屋を照らす。
鳥が軒先をかすめ、風がカーテンをなでて抜けていく。
彼女の髪が揺れ、その瞳が遠くを映した。
これが彼女の第二の故郷――
いや、もはや唯一無二の居場所だった。
◆
翌朝、淡い朝陽が霧を透かして地を照らしていた。
山間にある国境地帯は、夜の冷気がまだ残り、吐く息が白くほどける。湿った土の匂いがかすかに鼻をくすぐり、見張り台の木材には朝露が光を宿していた。
風に揺れる草の穂先から、雫がひと粒、ころりと落ちる。
その静寂の中に――軽やかな声が差し込んだ。
「おはようございます、ミディアさん!」
朗らかで、どこか弾むような声だった。霧の向こう、鉄柵の彼方で立っていた青年が、朝陽に照らされながら微笑んでいる。
朱の瞳を持つその青年は、敵国の民――のはずだ。
けれど、その笑みは剣戟の音も血の匂いも知らぬように穏やかで、無防備にすら見える。
頬にかかる髪が朝日に透け、わずかに金色を帯びる。その柔らかな光景が、なぜだかミディアの胸をひりつかせた。
「いつも早いわね。今日は狩りかしら?」
彼女は馬を降り、兜を外す。
額に滲む汗をぬぐいながら、軽く笑みを浮かべた。鎧の金具がかすかに軋み、陽光を跳ね返す。声には疲れが滲んでいたが、その瞳はまっすぐ澄んでいる。
「ミディアさんも、見回りお疲れ様です」
青年は胸に手を当て、律儀に礼をした。
柵を挟み、互いに一歩も踏み出さない距離。
けれど、その間には見えない信頼が確かに積み重ねられていた。
彼の瞳が、ふとこちらを見つめる。
その赤は焚き火のように熱を帯び、触れれば焦げそうなほどの熱を秘めていた。
ミディアはほんの一瞬、視線を逸らす。胸の奥に、かすかな痛みが波紋のように広がった。
「……あぁ、そういえばわたし、毎日ここの警備にあたることになりました」
淡々とした声だったが、言葉の底に揺るぎのない決意があった。
彼女の横顔には、過去を振り返る影がなく、ただ前を見据える静かな光がある。
「また急な話ですね」
青年は驚いたように眉を上げた。
「婚約破棄をされたので」
あまりにも平然とした声音に、青年の朱の瞳が見開かれた。
その瞬間の反応があまりに素直で、ミディアはふっと口角を上げる。
「……え、だって、レオン公爵令息とミディア辺境伯令嬢の婚約は、王国の──」
彼の言葉の端に、知りすぎた響きがあった。
ミディアは目を細める。――この青年、ただの狩人の息子ではない。
それでも、追及する気にはならなかった。
むしろ、彼とこうして言葉を交わす時間が、この殺伐とした国境で唯一の“平和”なのだ。
「ふふ。あなたが狩人の息子だから話せるの」
ミディアは風に髪をなびかせ、柔らかに微笑む。
頬を撫でる風が、どこか春の匂いを運んできた。
「でも、国境の警備はもっと厚くなるわ。だって――わたしがいるのだもの」
冗談めかして言うその声音の奥には、確かな誇りがある。
血と鉄で築かれたこの地にあって、彼女の存在そのものが、盾であり、剣なのだ。
青年は少し驚いたように目を瞬かせた後、小さく笑って頷いた。
「……そう、ですね」
その笑みは柔らかく、朝陽のように温かかった。
柵の向こうとこちら――決して交わらぬはずの二つの世界。
だが、そのわずかな隙間に、芽吹き始めたものがあった。
朝の光を受けて膨らむ若葉のように、まだ名もない感情の影が、静かに、確かに伸びていく。
◆
三日後。
それは、あまりにも唐突で――まるで、長い夢が無慈悲に終わる瞬間のようだった。
朝霧が晴れ、空気がわずかに温みを帯びたその時。
国境の見張り塔が、轟音とともに崩れ落ちた。
瞬間、世界が裏返る。
地を裂く爆風が耳を貫き、熱と砂塵が一斉に吹き荒れる。
金属がねじ切れる音が、悲鳴のように空を裂いた。
焼けた鉄と血の匂いが入り混じり、息を吸うたびに喉が焼ける。
ミディアは反射的に身を翻し、剣を抜いた。
風が巻き起こり、彼女の外套がはためく。
崩れた塔の向こうでは、味方の兵たちが次々と押し流され、炎に包まれていく。
土の上には、馬の蹄の跡。
そして――赤く染まった足跡が、無数に連なっていた。
風が鳴る。煙が渦を巻く。
世界は一瞬で地獄と化し、朝の光だけが皮肉なほどに澄んでいた。
その中心で、ミディアは剣を握りしめ、声を張り上げた。
「なぜ……!」
喉が裂けるほど叫んだのに、返ってきたのは――あまりにも静かな声だった。
風の向こう。戦場を見下ろす丘の上。
「それはあなたの愚かさが原因だ、ミディア」
その声を、ミディアは知っていた。
全身の血が一瞬で冷える。
霧の向こう、黒馬が一頭。
その背に、あの青年がいた。
朱の瞳――あの、朝陽を映したような優しい瞳。
だが今、その光は冷たく研ぎ澄まされていた。
帝国の軍服。
黒地に金糸の刺繍が光り、肩章には皇族の紋章。
その衣がところどころ血に染まり、夜と血をまとった神話の戦士のように見えた。
柔らかな笑みも、穏やかな声も、もうどこにもない。
あるのはただ――支配者の眼差し。
その姿が、酷く残酷だった。
捕らえられたミディアの両手には縄が食い込み、
動けば血が滲んだ。
足元の砂は血と油でぬかるみ、踏みしめるたびに重く沈む。
かつて国境を守ったこの地が、今は帝国の旗に覆われている。
赤い布が風に裂け、冷たい太陽の下で翻っていた。
喉の奥から、嗚咽とも叫びともつかない声が漏れる。
「……どうして……あなたが……!」
青年――いや、帝国の皇子は、ゆっくりと笑った。
その笑いは、懐かしさと冷酷さが入り混じる、不気味なほど静かな音だった。
皇子はミディアを見つめたまま、どこか遠くを眺めている。
「ふむ。どうして……か。
だが、あなたの眩しさに惹かれたのも事実だ。あの日々は、俺にとって宝物だ」
ゆっくりと馬を降りる。
砂を踏みしめる靴音が、異様なほど鮮明に響いた。
兵たちは遠巻きに見守るだけで、誰も口を開かない。
まるでこの一幕が、帝国の儀式であるかのように。
皇子は、ミディアの前で膝をついた。
鎧の金具が擦れる音が耳に残る。
「だから……」
差し出されたのは、黒い小箱。
泥の上に置かれたその小さな箱は、不釣り合いなほど清らかで――
この世の穢れを知らぬ宝石のように輝いていた。
ゆっくりと蓋が開く。
中には、金のリング。中央には澄んだダイヤモンドが光を宿している。
太陽の光を反射して、淡く虹色の輝きを放った。
「愚かで美しいミディア。私と、婚約してくれないか?」
「はぁ?! ……なっ、何を言って──!」
怒りと屈辱が一気に込み上げ、顔が熱くなる。
縄を引きちぎりたいほどの衝動が胸を焦がす。
だが皇子は微笑んだまま、淡々と告げた。
「私は帝国の皇子。名目は……そうだな」
唇の端が、ゆるやかに吊り上がる。
その笑みは、優しさの仮面をかぶった毒だった。
「『帝国と王国の友好の証』、でどうだろう?」
その一言に、ミディアは凍りついた。
勝者の笑み――それは戦場の誰よりも冷たく、そして、甘い毒のように脳を痺れさせた。
頬に影が落ちる。
皇子が身を屈め、彼女の額へと口づけた。
血と鉄の匂いが漂う中、その一瞬だけ、世界が静止したように感じた。
焼けた風が止まり、遠くの炎の揺らめきがゆるやかに滲む。
ミディアはかすかに息をのむ。
熱が皮膚をなぞり、冷たい絶望が背筋を這い上がる。
その温もりを最後に、視界が暗く染まっていった。
遠くで、帝国の旗がはためく音がする。
風に溶け、空に消えていくその音は――まるで、嘲笑のようだった。
――国境は、もう、戻らない。
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