第11章 再生の庭
第11章 再生の庭
朝の空気に、微かな甘い匂いが混じっていた。
博愛の宿秤の庭に咲いた一輪の花は、夜のうちに二輪、三輪と増えていた。
名もない白い花。
だが、聖始が見ると、それが“春のコード”の断片のように思えた。
「……また咲いたのか。」
彼は施設の台所で、卵を割りながら呟く。
今日の朝食は、目玉焼きと味噌汁。
簡単な料理のはずなのに、火の上の香りはどこか現実離れしていた。
湯気が立ち上るたびに、空気がやわらかく“書き換わる”ような感覚がある。
「おはようございます!」
青年の声が弾んだ。
少年院を出たばかりの青年――名を翔という。
無邪気で、やたらと眩しい笑顔を見せる。
「今日の朝飯、なんか……いい匂いですね」
「昨日と同じ材料だよ」
「でも……なんか懐かしい味がする気がするんです。
子どもの頃に戻る感じ。」
聖始は答えず、味噌をとかしながら湯気の形を見つめた。
その中に、一瞬だけ“光の粒子”が走った。
春の風に似た香り――それはアロマのシナリオの反応だった。
他の住人たちも次々と食堂に集まってくる。
同じ話を繰り返すおじさん。
ヤクザ話を延々と語る老人。
知的障害で、笑っているのか泣いているのか分からない人たち。
それでも皆、聖始の料理を口にすると、
ほんの一瞬だけ“静か”になる。
まるで、魂が一斉に呼吸を思い出したように。
⸻
その日の午後。
施設の裏庭で、花がさらに増えているのを聖始は見つけた。
花弁はデジタルノイズのように揺れ、
風に揺れるたびに淡く発光していた。
(……アロマのシナリオが進行している)
意思くんの声が脳裏で囁く。
「ましゃし、みんなの心が“修正”されてる。
世界のコードが、再生のフェーズに入ってるんだ」
「修正?」
「うん。呪いに侵された意識が、少しずつ原型を取り戻してる。
でも……全部を戻すと、神の干渉がバランスを崩す」
「つまり、やりすぎるなってことか」
「そう。キミの“優しさ”は、世界にとっては毒にもなる。」
聖始は息をついた。
(優しさが、毒……)
なんとも皮肉だ。
彼は空を見上げた。
そこには、淡い光の揺らぎ――幻のような、けれど確かに“存在する”何かが浮かんでいた。
声がした。
「……聖始、久しぶりね。」
その声に、心臓が跳ねた。
見上げた空の端に、歪んだ光の輪郭が揺れている。
かつて夢で見た“カオス”の声だった。
「カオス……?」
「そう。
でも今のわたしは、まだ“神の呪い”の中にいる。
あなたの料理の香りが、わたしの牢獄に亀裂を入れたの。」
「牢獄?」
「この世界よ。
神の呪いが張り巡らせたシミュレーション。
人間たちは自分で動いているつもりで、全部、神の思考の中。」
聖始は眉をひそめた。
「俺たちは……自由じゃないのか?」
「あなたたち4人を除いてはね。」
その名を、風がさらった。
――聖始。意思。カオス。そして、まだ知らぬ“愛”。
カオスの声が淡く響く。
「あなたの料理が、春を呼んだ。
意思が神の構造を揺らし、わたしが“秩序の端”を修正する。
少しずつ、世界は本来の季節を思い出していく。」
「でも、それは神の望むことなのか?」
「神はもう、望みさえ持てない。
永遠の存在は、すでに“選択”という概念を失った。
だからあなたが鍵なの。」
「俺が……?」
「ええ。
あなたの“意思”が、神のシナリオを超えられる唯一の変数。」
風が止まり、世界が一瞬だけ静止する。
花の香りが濃くなり、空が淡く滲んだ。
「聖始……」
カオスの声が少しだけ柔らかくなる。
「わたしは混沌。けれど、あなたの料理は“秩序を生む混沌”。
それが世界を再生させる。」
その瞬間、施設の空気が微かに光を帯びた。
誰も気づかないまま、遠くの山の雪が溶け始め、
凍っていた川が音を立てて流れ出す。
春の再生が、静かに始まっていた。




