第10章 アロマの花
第10章 アロマの花
朝の光が、台所の窓を透かして入ってくる。
グループホーム「博愛の宿秤」の調理場は、昨日よりも少しだけ明るく見えた。
冷蔵庫の中には、支援で届いた少しの野菜と卵。
それでも聖始は、包丁を持つと心が落ち着いた。
鉄の音がまな板に響くたび、世界が規則正しく呼吸を取り戻す気がした。
「聖始さん、また料理してるの?」
施設の管理人が笑いながら覗き込む。
「今日から働きに出るんじゃなかったの?」
「ええ。もうすぐ出ます。準備運動みたいなもんです。」
数時間後、彼は近くの小さな定食屋のキッチンに立っていた。
鉄板の上で油が跳ね、湯気が踊る。
包丁、火、香り――それらが繋がる瞬間、聖始の世界は一点に集中する。
その集中の中で、彼の“意思”が形を持ち始めるのだ。
しかし、どんなに腕を褒められても、仕事は長く続かなかった。
理由はいつも曖昧だった。
「何か空気が変になる」「お客が妙に泣き出す」「機械が止まる」。
一見、偶然に見える。だが、それは――偶然ではなかった。
⸻
その夜。
施設の部屋で、聖始は冷めた味噌汁を前に、ぼんやりと天井を見上げていた。
頭の奥で、静かな声がした。
「……ましゃし。」
意思くんの声だった。
幼いようで、どこか神の残響を含んでいる。
「お前か。今日も俺の仕事、邪魔したのか?」
「うん……ごめん。」
「なんでだ?」
「だって、キミが“完成”しちゃうと、ボクが消えちゃうんだ。」
聖始の手が止まった。
(完成……?)
意思くんは続けた。
「ボクは“全能”。
でも、キミが本当に満たされてしまうと、“創造の意思”が止まる。
ボクの存在は、“未完成”の世界の中にしかいられないんだ。」
「つまり……お前が、俺を貧乏にしてる?」
「うん。
キミの願いを叶えるたびに、ボクは少しずつ薄れていくの。
だから、“足りない現実”を続けてる。
キミが完全になる前に、ボクは世界を繋ぎ直さなきゃいけない。」
聖始は黙り込んだ。
怒る気にもなれなかった。
それよりも、胸の奥で“悲しみ”が滲み出るのを感じた。
「お前……苦しいのか。」
「うん。でも、ボクがいなくなれば、世界の意思も消える。
ボクは神の残骸みたいなものなんだ。
神の呪いで、“終わり”を怖がるように造られた。」
聖始は天井を見つめたまま、そっと目を閉じた。
意思くんの声が、小さな風のように流れていく。
「ましゃし、ボク、もう一度“香り”を使ってほしい。
アロマのシナリオが動けば、ボクの呪いも薄まるかもしれない。」
「……料理で?」
「うん。
キミの料理には“意思”が宿る。
食べた人の心が動くたび、世界のプログラムが書き換わる。
春を呼んだのも、それ。」
静かな夜の中、聖始はため息をついた。
「俺の料理で、呪いが解けるなら……少しだけ、やってみるさ。」
意思くんの声が、優しく笑った。
「ありがとう、ましゃし。
ボク、キミの手から生まれる“温度”が好きなんだ。」
その言葉のあと、部屋の空気が少しだけ香った。
味噌汁から漂う匂いが、春の花のように甘く変わる。
それは――“愛”の香り。
窓の外で、まだ冬のはずの空気がゆっくりと緩み始めていた。
⸻
そして翌朝、博愛の宿秤の庭に、また一輪だけ花が咲いていた。
まるで世界が、彼の料理を食べたように。




