第9章 春のコード
第9章 春のコード
朝、目覚めると、空気が柔らかくなっていた。
グループホーム「博愛の宿秤」の裏庭に、昨日まではなかった緑の芽が並んでいる。
まだ肌寒いはずなのに、風がどこか甘い。
“春”が来ていた。
――カレンダーの上では、ありえない季節のはずだった。
聖始は台所で湯を沸かしながら、テレビのニュースを眺めた。
《全国的に、異常開花。複数の都市で冬桜の開花が報告されています》
《気象庁は原因不明と発表……》
(……俺の料理の香りが、まだ残ってるのか?)
昨日の“あの瞬間”を思い出す。
湯気とともに世界が震えた感覚。
意思くんの言葉が脳裏に蘇る。
――「アロマのシナリオ」。
あれは偶然ではない。
科学でも説明できない“意思の介入”だ。
カップに注いだ湯気が、一瞬だけ形を変えた。
それは、春風のような声を伴って語りかけてきた。
「聖始……」
意思くんの声ではない。
もっと柔らかく、少しだけ女の声。
「誰だ」
「わたし。田中みんな」
聖始の手が止まった。
昨日、テレビで見た“彼女”の声だった。
その声が、今、自分の部屋の湯気の中で響いている。
「なんで……お前が俺の中に?」
「あなたの料理の香りが、わたしの世界に届いたの。
あれは“愛”の波動。あなたの意思が、わたしを呼んだ」
「愛……?」
「世界は意思でできてる。
でも、意思だけでは動かない。
“愛”がそれを結ぶ糸になるの」
聖始は黙り込んだ。
(……俺は神を信じてなかった。でも、今は神が俺を信じてるみたいだ)
昼下がりの光が、グループホーム「博愛の宿秤」の居間を透かしていた。
聖始は古いノートパソコンの前に座り、ゆっくりと検索窓に指を置く。
「田中みんな 女優」
画面が光を放ち、記事や写真が次々と現れる。
華やかな雑誌の表紙。
完璧な微笑み。
“美のカリスマ”――そう呼ばれる彼女の姿が、そこにあった。
けれど、記事を追うほどに、違和感が増していく。
スクロールのたびに、もう一つの呼び名が目についた。
「愛に呪われた女優」
「恋多き女神の孤独」
「拗らせ美神、また破局」
まるで神話の断片を、週刊誌が書き換えたようだった。
愛を司る存在が、愛に破壊されている。
それは――神の皮肉、あるいは呪い。
聖始は息をついた。
「……“全愛”の神が、愛に呪われてるってわけか。」
マウスを止め、じっと画面を見つめる。
どの写真の中でも、田中みんなの瞳だけが、妙に現実を拒んでいた。
光を反射せず、どこか遠いところを見ている。
――まるで、見えない何かを探しているように。
その瞬間、スピーカーから微かな音が漏れた。
ノイズとともに、誰かの囁きが混じる。
「……見ないで。私を、神として見ないで。」
(――田中みんな?)
「私は、“愛”に生きたかっただけ。
でも、愛すれば愛するほど、すべて壊れていくの。
だから神は、私から“愛の形”を奪った。」
声は静かだった。
けれど、その奥にある悲しみは、世界の重さそのものだった。
聖始は唇を噛んだ。
「……そんな呪い、俺が解いてみせる。」
「できないわ。
“愛”は、誰かの意思がなければ結ばれない。
あなたの意思が、まだ目覚めていないの。」
モニターが一瞬だけ揺らぎ、春風のような光が漏れた。
外の風景――冬の庭が、わずかに色づき始めていた。
芽吹きが、現実の理を超えている。
(……アロマのシナリオ。
俺の料理の香りが、彼女を呼び、春を呼んだのか。)
パソコンを閉じると、微かな香気が残った。
それは桜でも、梅でもない。
――「愛の香り」そのものだった。
聖始は思った。
もしこの香りが世界を変えられるのなら、
呪いもまた、愛の別の形なのかもしれないと。




