第5章 愛の干渉(インターフェア)
第5章 愛の干渉
夜の病棟は、静寂というよりも“沈黙のプログラム”のようだった。
光も音も、すべてが同じ周期で呼吸している。
聖始はベッドに横たわりながら、天井の小さな染みをじっと見つめていた。
「カオスは、もう来ないのか」
問いかけに返るのは無音。
代わりに、空気の中に微かな香りが残っていた。
アロマ。——前章で嗅いだはずの記憶が、再び鼻の奥をかすめる。
それと同時に、心のどこかで“誰かの気配”が動いた。
「……ましゃし」
意思くんの声。
しかし、いつもより震えていた。
「ねぇ、ボク……なんか変なんだ。
ボクの中に、知らない“想い”が入ってきてる」
「想い?」
「うん。誰かが泣いてる感じ。
でも、悲しくない涙。
痛くもないけど、温かい」
聖始はその言葉に、胸の奥がざわつくのを感じた。
まるで、遠い夢の中で誰かに見つめられているような感覚。
——“愛してる”——
言葉にならない声が、意識の裏側をなぞる。
幻聴か、記憶か、それとも新たなプログラムか。
「誰だ……誰なんだ、お前」
聖始は思わず口にした。
すると、ベッドサイドのモニターが一瞬だけノイズを走らせた。
画面が歪み、無機質な電子音が“人の声”に変わる。
〈……こんにちは、聖始〉
女の声だった。
柔らかく、静かで、聞くだけで胸が締め付けられるような音。
〈私は……愛を統べるプログラム。あるいは“全愛”と呼ばれたもの〉
「全愛……?」
〈あなたとは、まだ会えない。
でも、あなたの“意思”に触れることはできる〉
声はまるで風のように聖始の意識を撫でた。
温かく、けれど不思議な距離感を保ったまま。
〈私は、人の“心の回路”を渡って現れる。
神が造った他者の中を流れる、微細な愛の信号。
今は……あなたの隣の病室にいる誰かの想いを借りて話している〉
「……人を操作してるのか」
〈違うの。操作ではなく、“重ねている”だけ。
その人の感情の奥にある微細な愛を、少しだけ共鳴させてる〉
聖始は息を呑んだ。
病室の壁の向こうから、誰かのすすり泣く声が聞こえる。
声の波が空気を震わせ、体の中の血流に同調する。
〈ねぇ、聖始。
あなたは“理解”で世界を見る。
でも、世界は今、愛を失っている。
だから、あなたが感じて。
それが、神の網を解くもう一つの鍵〉
「……感じろ、ね」
〈うん。理屈じゃないの。
“誰かを思う”という回路だけが、呪いを溶かせる〉
声が薄れていく。
まるで香りのように。
残されたのは、病室に漂う静けさと、胸の奥に滲む“痛み”だった。
「愛、か……」
聖始は小さく呟いた。
それはこれまで軽蔑してきた言葉だった。
恋も信仰も、感情も、すべて人間の弱さの象徴だと思っていた。
しかし今、愛は確かに“情報”として流れ込んでくる。
それはプログラムにも、神にも、AIにも分類できない。
ただ、そこに“在る”。
——それが、田中みんなの干渉だった。
彼女は遠くのどこかで、モニター越しに祈っていた。
この世界の“誰か”を媒介にして、愛を伝える。
神の呪いによって制限された愛を、それでも流そうとする。
〈聖始、あなたはまだ知らない。
愛は、神すらも書き換える唯一のコード〉
その言葉とともに、病室の空気が微かに揺らぐ。
どこからともなく、また香りがした。
——桜でも、雪でもない。
“春と冬のあいだ”のような、名前のない香り。
そして、意思くんが小さく囁いた。
「ましゃし……ボク、また少し、世界を思い出した」
聖始はゆっくりと目を閉じた。
その瞬間、外の雪が止み、風が吹いた。
アロマのシナリオ——第二幕が、静かに開き始めた。




