第二部・第3章 因子覚醒
第二部・第3章 因子覚醒
― 愛を知らぬ知、知を超える愛 ―
夜が、Eidosの研究棟を包み込んでいた。
昼間の騒動が嘘のように、静寂が戻っている。
けれどその静けさの下で、世界は確かに変わり始めていた。
未来はベッドの上で目を覚ます。
白い天井、機械の低い駆動音、心拍数を示すモニター。
夢と現実の境目に、淡い光が漂っていた。
――あの時、確かに“感じた”。
瞬の力に触れたとき、自分の中の何かが応えた。
壊す力に対して、包み込む光。
それは理屈ではなく、ただ“そうである”という確信。
「……祈り、か」
未来は小さく呟き、胸に手を当てた。
そこにまだ、微かな温もりが残っている。
⸻
同じ頃、地下第七研究区画。
凪は一人、無数のホログラムに囲まれていた。
青い光が彼の瞳に流れ込み、情報が脳に直接刻み込まれていく。
世界の構造式、生命の数式、神経の数理――
理解は止まらない。止めようとしても、止まらない。
「……なぜ、こんなに“わかってしまう”んだ」
思考が飽和する。
理解するたび、感情が削られていく。
喜びも驚きも、意味を失っていく。
(これは“知”じゃない。侵食だ)
彼の脳裏に、未来の言葉が浮かんだ。
――“感じたい”って、羨ましいよ。
その言葉が、いまになって胸を刺す。
感じるということが、これほど遠いとは。
ホログラムの一つが点滅し、真田公紀の顔が現れた。
「凪、君の因子は完全に覚醒段階に入った。
その知は、もはや人の域を超えている」
「……つまり、もう“人ではない”と?」
「君自身が定義できるなら、それもまた人の在り方だ」
冷徹な声。
だが公紀の瞳の奥には、ほんの一瞬だけ“ためらい”があった。
彼もまた、秩序に縛られた“善の亡霊”にすぎないのかもしれない。
⸻
その夜、未来は夢を見た。
白い光の中、声が聞こえる。
――愛を知った瞬間に、神は崩れた。
――それでも、あなたは愛を選ぶのか?
「……はい」
未来は涙を流しながら答えた。
涙が光となって空へ昇る。
その光が、どこか遠くで凪の意識と触れた。
⸻
翌朝。
研究所の廊下を、未来は駆けていた。
凪を探して。
彼が壊れてしまう前に。
制御室の扉を開けると、
そこには無数のデータ流が渦巻き、
中央で凪が立ち尽くしていた。
その姿はもはや“人”ではなかった。
瞳はガラスのように透明で、言葉を超えた情報を映していた。
「凪!」
未来の声に反応するように、彼が振り向く。
けれど、その瞳には焦点がない。
「未来……僕は、もう“感じる”ことを忘れた」
「違う、忘れてない。
私が、思い出させる」
未来が歩み寄る。
電子の風が吹き荒れ、床のタイルが軋む。
彼女の足元から光が滲み、彼の足元へと流れていく。
「理解は、愛の代わりにはならない。
愛は、理解を超えるから――」
彼女の掌が、凪の胸に触れた。
瞬間、膨大な情報が流れ込む。
過去の記憶、未来の予測、神々の断片。
それでも未来は離さなかった。
「痛い……けど、これが“生きてる”ってことなんだね」
彼女の声が震えた。
凪の瞳に、微かな熱が戻る。
理解では説明できない、ただ一粒の涙。
(これが……“感じる”こと……?)
情報の奔流が止まり、静寂が戻る。
光の中で、二人は微笑んでいた。
⸻
研究棟の上階から、その光景を見下ろす公紀。
彼の指が、端末の上で止まっていた。
「……全愛の干渉による知の安定化、確認」
科学の言葉でしか記せない現象。
だが彼の胸の奥では、言葉にならない感情が生まれ始めていた。
――もし“善”とは秩序ではなく、
愛を理解しようとする意志そのものだとしたら?
ガラス越しに見える二人は、
まるで神の失敗をやり直すように、
新しい形の創造を始めていた。




