6 縋る手、救う手
「野宿した事がない割には毎回良く寝るな」
頭上から声が降ってくる。
「…ごめんなさい」
桜は白斗に揺られながら俯いた。
割と整備された山道を、由羅と共に白斗に跨りながら下っていた。背中に由羅の体温を感じて、何となく居心地が悪かった。昨日まで同様に乗せて貰っていて何も感じなかったのに、今日はいつもより背中が熱かった。
朝起きたら、千寿と雷太がいなかった。いつまでも起きない桜を残して、先に行ってしまったらしい。雷太あたりが激怒して叩き起こしそうだが、意外にも、というか最近では桜も理解してきたが、胸ぐらを掴む以外全く手は出さない。女性の胸ぐらを掴むのもどうかと思うが。
「水でもかけて起こしてくれたら良かったのに」
由羅は小さくふっと笑った。怒られずに済んで良かったが、情けない気持ちだった。
「もともと狛馬持ち三人で行動すると目立つから、ここからは二手に分かれる予定だった。今日宿を取る予定の八葉村は、かなり大きな村だ。村に近づけば道は広くなるし、白斗で駆ければ日が落ちる前に十分着ける」
大きな村に続いているからか、幾分進みやすい道のりになっていた。途中道無き道を進んだのは、山賊の襲来を避けるためと、例の村に立ち寄るためだったと後から聞いた。
これまで見た夢の感じから漠然と理解していたが、三人は桁違いに強い。とりわけ千寿は異次元の強さだ。昨晩十数人の野盗が襲ってきたが、全く相手にならなかった。
「また誰か来たね」
向かいからこちらに向かって来る一団があった。これまでも何人かとすれ違い、その度に大きな白斗は避けて道を譲ってきた。今回もそうするんだろうな、と何となく思っていた桜だが、背後の由羅の気配に僅かな緊張を感じた。
(なに?)
振り返って無言で見上げた桜に、由羅はやはり無言で頷き返してきた。大丈夫、と言うように。
近づいてきた三人の男たちは皆狛馬に乗っていた。驚くほど珍しいわけでは無いが、狛馬に乗っている人はそれほど多くない。だからなんとなく迫力があった。千寿と同じように口元を布で覆っていて顔はよくわからないが、先頭の男の鋭い目つきは相手を萎縮させるような光があった。厚手の外套を羽織っているが、みな体格がいいのがわかる。まとっている雰囲気から、山賊のような粗野な様子は見られなかった。
今までと同じように白斗を脇に寄せ道をあけていると、
「おい」
先頭の男が声をかけてきた。思ったよりも若い、しかし無視する事の出来ない、強く、相手を威圧するような声だった。
「お前たち、どこへ向かっている」
「八葉村だ」
由羅が短く答える。落ち着いているが、その声はやはりいつもより緊張感を含んでいる気がする。
「お前は護衛か何かか?」
由羅の腰に差した剣を見ながら男が問う。年は由羅より上、千寿よりは下といったところか。体つきは由羅より一回りほど大きく見え、切長の目は、相手に有無を言わせない光をたたえていた。
「そうだ」
「ただの護衛には見えないな。兵士上がりか?身分は?」
偉そうなな物言いだが、若いくせに、と言う侮りを全く寄せ付けない雰囲気だった。上に立つ者が持つカリスマ性のようなものがあった。
「身分は黒烏だ。以前一般兵の招集があった時に志願し、一時国王軍の末端の隊に所属した。今は護衛を生業としている」
由羅の言う黒烏がどのような身分を表すのか桜にはわからなかったが、相手は何の反応も見せない。このやり取りは一体何なのか、桜は全く理解できなかった。
「この先には石繰村しかないはずだが」
また相手が問い、由羅が頷く。続く問答に桜はジリジリと焦る。今までの経験から、わからないことは良くない事だった。
「その子供を護衛しているのか」
まさか、と言外に聞こえるような問いかけだった。
「行き倒れた子供を拾った。八葉村まで連れて行くつもりだ。この通りお荷物がいるから他の客や荷物の護衛は無理だ」
「行き倒れていた、この小汚い小僧をわざわざ?」
言って桜を見た。男物の服を着て、少年のように見えるのかもしれない。
「見ての通りこのひ弱そうな子供を陽が落ちるまでに八葉村に連れて行くには時間がかかる。もう行っていいか?」
強引に白斗を進めようとした時、スラリと目の前に剣が突き出された。桜はあまりの驚きに声が出なかった。固まって動けずにいると、剣を持ち上げた男の手首に、革紐に綺麗な石を連ねたブレスレットのような物が見えた。
(あれはどこかで…)
一際大きな青い石に、桜の目は釘付けになった。手首に光る青い石。夢で見たものに酷似している。
「まだ話は終わっていない」
男の声に、桜の思考は遮断された。
「何の真似だ。こちらは身分を明かしたし、質問にも答えた。そちらこそ何者だ」
質問には答えず、さらに凄みを効かせた声で、相手は言った。
「八角峠の中腹に、一つの隠村があった。国王軍の脱走兵が集まって作った村だ。知っているだろう?その子供はそこの生き残りじゃないか?」
「知らないな。この子は石繰村で拾った」
由羅はトーンを変えず、静かに答えた。桜は内心の動揺が出ないよう、必死で平静を装った。隠村とは、薙と言う人が死んでいたあの村の事だろうか?
「先日国王軍が夜襲をかけたが、一人を残しても抜けの殻だった。離散して見事に痕跡を消しながら逃げた。俺はそこに住んでいた筈のある男に用がある。どこへ雲隠れしたのか教えて貰おう」
「知らないと言っている」
由羅は先程と同じトーンで答えた。
「痛い目みないとわからないようですね。俺が相手してもいいですか?」
後ろに控えた一人が狛馬から降りて一歩前に出た。短髪で、太い眉毛が吊り上がり、いかにも喧嘩っぱやそうだった。由羅より少し年上に見えた。先頭の男の返答も聞かず、自分の剣を鞘から抜いた。
同様に由羅も白斗から降りて、剣を抜いた。
「白斗、下がってろ」
桜は凍りついたように白斗にしがみついたまま動けなかった。心拍が跳ね、こめかみの辺りがドクドクとした。何故、こんな簡単に殺し合いが始まるのか理解できなかった。つい先ほどまで穏やかに会話しながら旅していたのに。
相手が斬りかかり、突然戦闘が始まった。相手の剣が振り下ろされるたびに、心臓が千切れそうに痛んだ。由羅が紙一重で相手の剣を払う。一瞬でも遅れれば、あの剣が由羅を深く抉る。過呼吸が起こりそうなほど息苦しい思いで見ていたが、相手の顔がだんだんと険しくなり、素人目にも由羅がジリジリと押しているのがわかった。
(由羅、負けないで!どうか、神様!)
由羅が腕を切りつけ、相手が剣を取り落とした。勝負ありだった。短髪の男は鬼の形相で由羅を見ていたが、言葉を発する事は無かった。
「私が行きましょう」
後ろに控えたもう一人の男が静かに言った。少し茶色がかったクセのある髪が肩あたりまで伸びていた。細い眉毛の、少し神経質そうな印象だった。しかしその男を制して、
「いや、俺が行こう」
先頭の男が言って、狛馬から降りた。
「しかし、若」
「玄児が負けた。お前にも荷が重い」
先に負けた男が、うずくまりながら、顔を真っ赤にしていた。
「下がってろ」
言われた玄児は悔しそうに顔を歪め、しかし黙って下がった。
「ただの護衛ではあり得ないな」
どこか余裕気に呟くその男が、不気味でならなかった。由羅の様子も気になった。顔色が悪く、息が上がっているようだ。
「本調子ではないようだが、悪いな。こちらも男の行方をどうしても知りたいんだ。教えてくれたら引こう」
「知らないと言っている」
答える由羅の呼吸がわずかに乱れている。
ー本調子ではないー
その言葉に、桜はザッと血の気がひいた。一緒に白斗に跨っていた時に感じた背中の温かさを思い出した。
(もしかして、昨日の傷のせいで熱が…!)
桜は震えた。由羅があまりにも普段通りだったので気にしていなかったが、あんなに深い傷で、普通でいられるわけがないのに。
「では仕方ない」
言うなり男が斬りかかる。
由羅は互角に戦っていた。相手の額にも汗が浮かんで見えた。しかし、まだ相手はもう一人残ってる。あれを何とかしないと。そう思って薄眉毛の男を見ると、懐から細長い金属の何か取り出して、由羅に投げつけた。
「由羅!」
サッとよけた由羅の頬をそれが掠めた。
「利英、手を出すな!」
由羅の剣先を交わしながら、男が怒鳴る。
しばらくすると、明らかに由羅の劣勢が見て取れるようになった。相手の力強い剣を受けるたび、少しずつ後ずさっていた。少し体勢が崩れかけ、相手の剣が脇腹を掠めた時、桜は思わず悲鳴を上げた。
岩壁まで押しやられ、相手の剣を押し留めたまま、由羅が何事か呟いた。すると白斗の耳がピクリと動き、次の瞬間桜を乗せたままクルリと向きを変えた。
(なに?助けを呼びに?)
自問して、すぐに違うと気づく。自分を逃す気だ。桜は思わず叫んだ。
「白斗、ダメ!!」
すると白斗はピタリと止まり、その様子に、由羅だけでなく相手の男までが驚いた表情を浮かべた。
「白斗、行け!」
「ダメ!行ったらダメ、白斗!」
由羅と桜の言葉に挟まれ、白斗はくうんと一声鳴いたが、結局その場に留まった。
安堵した桜は白斗から滑り降りると、由羅を庇うように男の前に出た。脇腹から血が滲んでいるのを見て、桜の怒りがわっと込み上げた。
「何故こんな事をするの!あなたは何の非もない人間に何でこんな事ができるの⁉︎」
男の眉がピクリと動いた。
「非がないわけではない。軍からの脱走は重罪だ。まして集団で集まるなど、謀反の準備以外に何がある。俺の探している男の行方を吐けば見逃してやらん事も無かったが、どうやら教える気はないらしい」
「謀反ってなに?私たちは石繰村から来たんです。途中道を外れて山に入ったけど、盗賊を避けただけです。麓の道は盗賊がいっぱいって聞いたから」
「嘘だ!一時期国王軍にいただけで、あれだけの剣の腕が身につくわけがない!ただの護衛ではありえねぇ!」
男の後ろから玄児が怒鳴った。かなりの出血なのだろう、叫んだ顔は青白い。その顔に向かって、桜は負けじと叫んだ。
「嘘じゃない!自分がただの護衛に負けた事を認めたくないからって、テキトーな事言わないで!!」
直後、一瞬の沈黙ののち、玄児の顔が苦痛に歪み、ゆっくりと体が傾いだ。そのままドサリと崩れ落ちたので、桜は驚いて思わず手で自分の口元を覆った。言い過ぎ…、いや自分は間違った事は言ってない。
「利英」
「はっ」
茶髪の男が小さく答えると、玄児の側にしゃがんだ。よく見ると、腕だけでなく、太ももあたりからもかなり出血しているようだった。桜の言霊が効いたのではなく、出血多量で元々限界だったのだ。
「若、早急に止血が必要です」
言うと、玄児を引きずるように自分の狛馬に乗せた。
「問答している時間はないようだ」
男が再び剣を向けた。岸壁にもたれ掛かった由羅が辛うじて握った剣の切先は、下を向いたままだった。あまりにも様子がおかしい。桜はハッとして細眉毛を睨んだ。
「さっき、あなたが投げたの…」
「単なる痺れ薬だ。だがもともと弱っていたようだし、このままだと危ないかもな」
しれっと言った。
桜の心に、ふつふつと怒りが湧いた。ぎっと睨む桜を意に介さず、細眉毛が淡々と言う。
「ずいぶん勇んで出てきたが、お前は自分の立場がわかってるのか?その男がせっかく機会を与えたのになぜ逃げなかった」
自分の身も危険だと、頭の隅では理解出来ている。しかし、桜はまだ体感していない夢がある事を知っている。まだ由羅との未来がたくさんあるはずだ。こんなところで死ぬはずがない。
「あなたたちはそうやって、疑わしいと言うだけで、人を切ってきたの?」
桜の言葉に反応したのは、リーダーの男だった。
「無辜の民を殺めた事など、俺はない」
「いま、まさに殺めようとしてるでしょう」
「部下が早まって手を出したが、殺めるつもりなどない。口を割らないようなので体に聞いてみたまでだ。その男は嘘をついている」
桜は指を落とされかけた過去を思い出す。この国は肉体言語で語り合うのが普通らしい。
「彼が嘘をついてるのは、私に関する事です」
「ならお前から話を聞こう」
男が剣を桜に向ける。
その手首には青い石が光っていた。
「桜…」
ふらつく由羅を桜は支えた。こんな状態でも自分を心配してくれる事に胸が詰まる。
桜は胸元のネックレスの入った袋をギュッと握り締めた。
「私は桜と言います。私はただの子供じゃない。彼が私みたいな子供を守ってくれるのは、私に夢見の力があるからです」
言っている自分でも半信半疑だ。相手に信じて貰うのは簡単ではない。桜はネックレスを取り出すと男の目の前にぶら下げた。
「なんの真似…」
いいかけて、男は瞠目する。出会ってから初めて、感情らしい感情が見て取れた。悪くない反応だった。
「それは何だ」
伸ばした男の手をサッとかわし、すかさず言う。
「剣を収めてください、青斎さん」
男の顔に明らかに動揺の色が見えた。
「どこでその名を聞いた」
「出会う前から私は由羅の事を知っていました。夢で見た事があったからです。だから彼の事を知っている私を、由羅は放っておけなかったんです。あなたの事も夢で見て知っています。剣を収めてくれたらこれを差し上げてもいいです」
男は眉間に深く皺を寄せた。主導権を握られる事は我慢ならないようだった。
「腕を切り落として奪う事もできる」
ほらやっぱり、と内心呟く。今度は指ではなく腕だ。
「腕を切られたら私は死んでしまう。私がなぜあなたの名前を知っているかも、これの出どころも永遠にわからない」
男はここにきて初めて僅かに逡巡する様子を見せ、剣を収めた。
「後ろの人もです」
桜は利英を見て言った。懐に手をやったのを見逃さなかった。
「利英、何もするな」
男は再び落ち着いた声で言った。素直に従う様子を見て、桜は再びネックレスを差し出した。
「なぜ俺の名を知っている」
静かだが、相手を萎縮させる声だった。返答を間違えれば今度こそ殺されるかもしれない。桜は声が震えないよう、一度深く息を吸ってから答えた。
「さっきから言っているように夢で見ました。夢の中であなたの持つそれと同じ青い石を持った人が、青斎って呼ばれてました」
「ふざけるな、そんな嘘が通用すると思うのか!」
利英が苛立ちも顕に言った。見た目は冷静そうだが、キレやすいタチかもしれない。
「信じるも信じないも好きにしたらいい」
桜は夢の事を話す度に嘘つき呼ばわりされる事にいい加減うんざりして、投げやりに答えた。
「青斎さんは…」
なんと説明すれば良いのかわからず、言葉が途切れた。
目を閉じて夢の景色を瞼の裏に再現した。傷だらけでたくさん汚れていたけれど、旗を掲げた青斎の顔は、自信に満ち溢れていた。
「あれはきっと、とても重要な戦闘で勝利を確信したシーンだったんじゃないかと思います。あの場面は、なんて言うか…、あれはきっと歴史が大きく変わる戦いだった。そんな感じの夢だった。その時青斎さんはその中心にいたはずです。今乗ってるのとは違う大きな狛馬が自分の背に乗るよう青斎さんに促して、歴史が変わった事を周囲に知らせようとしていました」
利英は顔をしかめ、吐き捨てるように言った。
「この方が尊いお方である事は、周知の事だ。それに狛馬が自分から乗るよう促すなんてあるか。バカバカしい」
しかし青斎は真剣な面持ちで話を聞いている。
「だが、青斎である俺が本当は何者か知る者はほとんどいない。さくらと言ったか、お前、他に何を知っている。その狛馬とはどんな狛馬だ。白銀の狛馬か?戦闘の相手はどの軍だ?」
「私は狛馬についてほとんど知らないけれど、他の狛馬に比べて大きく見えました。逆光で色は見えなかったけど、姿は狼みたいでした。誰と戦っていたのかはわかりません。私が知っているのは、戦場であなたが青斎と呼ばれていた事、旗を掲げたその腕に青い石が輝いていた事だけです」
青斎は自身の手首を見て何か考えを巡らせているようだった。桜の話を精査しているのだろうか。
「お前の持っている物をよく見せてもらおうか」
青斎が手を差し出しながら言った。桜は男の手にネックレスを握らせた。
「桜、こちらも時間が無い。これは一体なんだ?」
ネックレスをぶら下げて言った。
「首飾りです」
桜は即答したが、青斎は納得しない様子だ。
「この素材はなんだ?どうやってこんな小さな鎖を作った?どこで手に入れた?」
「素材は銀だと思います。きらきらしたのはダイヤ。私の住んでいたところでは、特別珍しいものじゃなかったです」
「お前の住んでいた所とはどこだ?」
「わかりません。行き倒れている所を由羅に救われました。どうやってここへ来たのかも、帰り方もわかりません。多分もう、帰れないんだと、思います」
最後の部分は声が震えた。ネックレスを渡してしまえば、元の世界との繋がりは完全に絶たれてしまう。
「ゆっくり話を聞く必要があるが、今は時間が無い。これはお前にとって大切なものか?」
ネックレスを掲げて問う青斎に、もう一度、桜は頷いた。
「元いた場所に帰る為の、唯一の手がかりです」
「ならば、いずれ取り返しに来い」
桜は首を傾げて男を見上げた。「暫く預かっておく。お前が元いた場所に帰る運命なら、再びこれにたどり着けるだろう。成都を訪ねて来い」
言って、狛馬の向きを変えた。
「このガキはここで始末した方がいいのでは」
青斎は性懲りもなく武器を出そうとする利英をひと睨みして黙らせた。
「待って、解毒剤をください!」
桜が慌てて引き止めると、細眉毛はふんっと小馬鹿にしたように桜を見た。
「ただの痺れ薬だ、解毒剤などない」
「八葉村は薬師の村だ。生きたままたどり着いたら助かるだろう」
青斎が言った。桜はギリっと歯噛みした。
「あなたがこの国の頂点に立つような人なら、部下もそれなりの人じゃないとダメだと思います。その細眉毛の人と太眉毛の人も教育をちゃんとしておいた方がいい」
「細眉毛…利英の事か。一理ある。次会うまでには再教育しておこう」
鬼の形相で懐に手をやった利英を制して、青斎は狛馬で走り去った。
◆◇◆
「由羅!」
由羅の体が大きく傾いた。支えきれず、桜もよろめく。触れた指先がヒンヤリしていて、桜の心臓はギュッと縮んだ。あんなに熱かった体から、熱が失われつつあった。
「由羅、しっかりして」
白斗の助けも借りながら何とか白斗に跨ったが、早くしなければと気ばかり焦って、思ったように乗りこなせない。馬すら乗ったことのない桜が、ほとんど動けない由羅を抱えて乗るのは至難の技だった。焦りと不安で、涙がジワリと滲む自分を、桜は叱咤した。
「泣くな、考えろ!」
僅かに意識の残っていた由羅は、桜の大声にピクリと反応した。
「俺を、置いて…」
「置いてかない!」
桜はグイッと涙を拭う。
「絶対置いてかない!でも、私一人の力じゃ足りないから、だから、由羅も助かりたいって言って!力を貸して!」
由羅の目に僅かに光が戻った。由羅にも何とか自力で動いてもらい、桜が由羅を背負う形で縄で縛った。桜の握力では掴んだ手綱がすぐにするりと滑ってしまうので、グルグルと手に巻き付けた。すぐにずり落ちそうになる足も長さの合わない鎧に括り付け、由羅を背負って白斗に突っ伏すようにして駆けた。
カーブの度に遠心力で体が反対方向に投げ出されそうになる。そうすると白斗も引っ張られ速度が落ちる。白斗の負担を減らす為に、桜はカーブの手前で手綱と足に力を込め、なるべく曲がりたい方向へ体を傾けるようにした。頭ではなんとなくイメージ出来たが、実際にはかなり難易度が高かった。
手綱で擦れた部分から血が滲み、手のひらにはマメができ、潰れた。鞍に跨った太もも部分も同様に擦れ、血が滲む。
この世界に来て何度も辛い旅路を経験したが、そのどれよりも、身体的にも精神的にも過酷な道程だった。一度由羅ごとずり落ちかけ、白斗が足を止めた。
「わっとと…ごめん白斗」
息が上がる。体力的にはすでに限界に近い。何とか体勢を立て直してふと先を見ると、行く手はいくつもカーブしながら緩やかに左手に伸びていた。割と見通しは良かったが、見渡す先に村らしきものは見えなかった。
「由羅、村はまだ遠い?」
桜の問いに、もはや返答は無かった。
桜はキュッと口を引き結ぶと、
「行こう、急いで」
白斗を促した。