20 桜を守るために
冥道。そこは、人外の生き物が、まどろみの中まだ見ぬ主人を探す場所。
本来ならば。
「ねえ銀河、僕の代わりに桜を守ってくれない?」
陽也は人でありながら、特別にこの空間にとどまることを許されていた。
「それは約束できない」
革命の象徴とされてきた銀色の狛馬が、陽也の傍に佇んでいた。
「俺が味方につくと言う事は、その者に強大な力を与えるという事だ」
陽也は銀河にもたれかかった。
「でも、桜にはきっと加護がついてる。この世界は桜を生かそうとしてるよ」
「陽也、前にも言ったが、加護と言うのは…」
「わかってるよ。二つの世界の均衡を保つ為に働く力でしょう?」
「…そうだ」
陽也は銀河の顔を覗き込んだ。
「銀河、言ってたでしょう?二つの世界は元は一つだったって。だから時々混ざってしまって、その度に、互いに排除しようとするって。でも、桜は排除されなかった。桜は生かされ続けている。この世界が、桜を取り込もうとしてるんだよ」
「…」
銀河はフイと陽也から視線を外した。
「俺は間違えるわけにはいかないんだ。こちらの世界が崩壊すれば、あちらの世界も共倒れだ。俺が桜につけばこの世界が大きく動くことは間違いない。それがこちらとあちら、二つの世界を守る事になるのか、俺にはまだ判断できない」
もう一度、陽也は銀河の顔を覗き込み、視線を捉えた。
「銀河は桜が嫌い?」
「いや、どちらかといえば見ていて飽きない、好ましい部類の人間だと思っている。しかしそれとこれとは…」
ふふふっと陽也は楽しそうに笑う。
「じゃあ、諦めた方がいい。きっと銀河も、桜を守りたいと思ってしまうよ」
◆◇◆
宿屋の裏手に広がる林で、桜は千寿の修練を受けていた。
「物が動くと空気が揺れる。それを感じるんだ。目で確認してから避けては間に合わない。いいか、風を感じるんだ」
(いいかと言われても)
桜は内心呟く。
千寿は淡々と語り、桜の腑に落ちないような表情を見ると、手近にある石を拾った。
「頭で理解しようとしても無理だ。実践しかない。何度も何度も実践して、体で覚えるしかない。さあ桜、目を閉じるんだ」
「?」
わけがわからないまま、桜は目を閉じた。
「周りの空気に集中するんだ」
「???」
目を閉じてぼんやりと立つ。周りの空気に集中してるっぽい雰囲気を出すよう努めた。
次の瞬間、ゴツンと頭に何か当たった。
「いた、いったーい」
額をさすりながら目を開けると、千寿が桜をじっと見ていた。
「分かったか」
「なにひとつわからないよ!」
桜は信じられないというように、千寿の顔を見つめた。
「今、石をぶつけたの⁉︎」
「これを習得出来れば、飛んでくる方向や、何が飛んできたかもだいたいわかるようになる」
絶対にならない。
桜は訴えるように後ろに控えた由羅と雷太を見た。
由羅は無言で首を振った。雷太は憐れむようにこちらを見ていた。
助けてくれる気はないようだ。
「桜、一朝一夕では何も成せない。何度も何度もこなして、ようやく手に入れられるんだ。さあ、目を閉じて」
千寿の呪いを受け、桜の瞼は意に反して閉じる。
最初の石より小さくなったのか、痛みはさほどではなくなった。でも当たれば不快な程度には痛い。
千寿は石を投げ続ける。
その投石は神がかっていた。同じところに当てると可哀想だと思ってくれたのか、全て違う場所に当たった。おかげて全身がまんべんなく痛い。
「順番を間違えてる気がする」
桜はポツリと言った。
「順番?」
石が当たって赤くなったところに軟膏を塗ってくれながら、陽也が聞き返す。
「基本を飛ばして、応用も飛ばして、神業からの指導って。何で千寿が指導してくれてるの?」
恨みがましく由羅を見上げる。
「本人が乗り気だったんだ。桜が剣術を習得しようとしてくれて嬉しかったみたいだ」
「剣使ってなかったけど…」
桜はたんこぶをさすった。
桜のどれだけ痛そうな様子を見ても、千寿は揺るがなかった。
「いいか、半分くらい避けられれば戦闘中矢に当たる確率もかなり下がる。私だって桜に石を当てるのは心が痛い。だから早く避けれるようになってくれ」
いつもとは別人のように熱量を込めて話す千寿。
そういえば、盗賊に襲われた時、千寿はボーガンを全て避け切ったのだ。
あの時、ボーガンを打っていた男が言った。化け物だと。
「ねえ、本当に訓練で避けられるようになるものなの?」
どれだけ訓練しても、千寿(化け物)になれる気はしない。
「訓練したからといって、すべて避けられるようになるとは限らない。だが…」
千寿は言葉を切って桜をじっと見つめる。
「どんな手練れでも、不意打ちであっさり死んでしまう事がある。私は桜に…、死んでほしくないんだ」
あっさり死んでしまった仲間を見てきたのだろうか。
桜の命を守るためと言われれば、頑張らないわけにはいかなかった。
「これからは剣術の前に毎日朝晩やる」
譲らない態度で千寿が言う。
その後ろで、陽也が木剣を振って、剣術の基本を雷太から習っていた。
桜はあれ?と思って千寿に聞いた。
「陽也にはやらないの?」
「陽也にはやらせません」
答えたのは楽次だ。
桜は千寿の顔をじっと見つめた。
「…陽也には加護があるから、不意打ちや不運で死ぬ事はないそうだ」
納得いかず口をへの字に曲げた桜に、楽次は楽しそうに話す。
「桜さんはこの国の軍神直々に指導を頂けられるなんて、羨ましいですよ。大丈夫です、アザに効く膏薬がありますから。痛みはどうですか?」
「…、楽次さんの薬が良く効いて、もうすっかり大丈夫です」
楽次が満足そうに頷く。
「そうでしょう、存分に石礫を浴びてください」
二人のやりとりを笑いながら見ていた由羅は、桜に向かって言った。
「剣は俺が教えよう」
「ほんと?」
「石の修行の後にな」
しゅんとした桜の頭を、由羅は優しく撫でた。
◆◇◆
「桜、すまない。顔に当てるつもりはなかったんだ…」
千寿が桜の顔を見ながら、申し訳なさそうに言った。
「いや、この経験のおかげで、次は避けられそうな気がする」
強がりではなく、桜は真剣にそう思った。
石礫を日々受け続け、四日目。
今日は何となく神経が冴えていた。石の飛んでくる気配がもう少しで掴めそうだった。
気配を感じ、ここだ、と避けた瞬間、閉じた瞼に石が直撃した。
そういえば、避ける訓練はしていない。
しばらく星が散り、目を開くと千寿の申し訳なさそうな顔があった。
「大丈夫だよ、鍛錬中の怪我はしょうがないよ」
「しかし、これは瞼が腫れる」
言われてみれば、目が開きにくい。
「ああ、桜さん、大変だ」
「桜、早く冷やさないと」
楽次と陽也が心配そうに駆け寄ってきた。
「ぶっ、何だその顔は」
雷太が面白そうに桜の顔を覗きにきた。
「手ぬぐいを冷やした、早く当てろ」
由羅が手拭いを差し出してくれる。
冷やしてはみたものの、瞼はどんどん腫れ、全く開かなくなった。
「このまま顔に傷が残ったら、私に責任を取らせてくれ」
桜の両肩に手を乗せ千寿が言うので、桜は驚いて言葉が出なかった。
「千寿さん、それってまさか…」
楽次が頬を染め、少女のように尋ねた。
「私の養女になればいい。生涯独り身でも不自由はさせないくらいの蓄えはある」
「ようじょ…」
「不満か?」
困惑顔の桜に、千寿は軽くショックを受けた様子だった。
「やはり、私のような者が父親など…」
「ううん、違うよ。嫌なんじゃないからどうか怒りを抑えて。こんなちっぽけな傷責任取る必要ないよ。他にも背中や手足にもいっぱい傷跡があるし、今さらだよ」
「ならば責任を取るのは俺と言うことになるな」
今度は由羅が呟いた。
「責任なんていらないの!こんな傷跡気にして結婚してくれない人、こっちからお断りだから!」
「自分が断る立場だと思ってるのか」
雷太が心底驚いたように呟いた。
楽次は感心したように手を叩いていた。
「素晴らしい考えです。桜さんの故郷の思い人は、そういう方だったんですか?」
楽次の何気ない問いに、桜は一瞬思考が停止した。
「え…?」
「桜さん、千代さんに言ったでしょ、故郷に好いた人がいたって。どんな人だったんですか?」
「どんな人…」
無邪気な楽次の言葉に、桜は愕然とした。
よく思い出せないのだ。
旭への気持ちどころか、向こうの世界での何気ない日常風景が、霞んだように上手く思い描けなかった。
「あれ、桜さん、どうしたんですか?」
楽次に呼ばれてハッとする。
「えっと…よく、わかんない。あの人は、なんていうかな」
旭は、なんて言うんだろうか。
思い出せない。
家族や英玲奈とはどんな風に会話してただろうか。
なぜだろう、ハッキリ思い出せない。
「桜?どうしたの?」
陽也が心配そうに顔を覗き込む。
「ううん、なんでもないよ」
焦ると余計に色々と思い出せなくなって、不安で動悸がする。
桜は悟られないように無理に笑った。
そんな桜の様子を見ていた由羅は、突然ヒョイと桜を抱えた。
「うわ、なに⁉︎」
「桜、今日はもう宿に戻るぞ。その目じゃ鍛錬は無理だからな」
子供を抱くように片腕に桜を抱え、そう言ってスタスタ歩き出す。
「ひ、一人で歩けるよ」
「そのまま手拭いで目を押さえておけ」
急に抱えられて驚いたが、正直連れ出してくれて助かった。とても平常心ではいられなかった。
陽也が小走りについてくる。
「桜、顔が真っ青だよ。何があったの?」
「…」
恐ろしい事実を口にするのが怖くて、桜は俯いた。
「桜」
距離が近いので、耳元で由羅の声がハッキリ聞こえる。
「どうしても言いたくないなら聞かないが、一人で抱えられないなら話して欲しい。急にどうしたんだ?」
少し沈黙が流れた後、桜はギュッと目を閉じた。
「さっき、楽次さんに、聞かれた時…」
「ああ」
「元の世界の事が、上手く、思い出せなかったの」
喉が詰まり、声が震える。
「忘れてしまうなんて、おかしいよ。あんなに大切だったのに。それに、ここにきたばかりの時は毎日家族の事を思い出していたのに、最近は…」
元の世界の事を考えていない時間が多くなった。その事実に、桜は今更気づいた。
「このまま、記憶を忘れて、完全にこの世界の住人になってしまうんじゃないかって…」
「それはないよ」
陽也は優しく、しかしきっぱりと言った。あまりにハッキリ断言するので、思わず顔を上げて陽也を見た。
「桜が記憶を無くす事なんてない」
何も理由は聞いてないのに、陽也が言うと気持ちが落ち着いてきた。
「これから先も、ずっと忘れない?」
「大丈夫、忘れないよ」
そう言って微笑む陽也の瞳は、不思議な色をたたえていた。
「桜、不安なら日記を書けばいい」
突然の由羅の提案に、桜は首を傾げる。
「日記?」
「桜が以前持ち逃げしたお札。あれを書いた人も、この世界に来てから日記を書いていた」
二百年前にここに来た、おそらく桜と同じ世界出身の人。その人が書いた日記があるのだ。
桜は驚きに目を見開いて由羅を見た。
「本当に?日記があるの?由羅はどうしてそんな事知ってるの?」
由羅はそんな桜の顔を見て、ふっと笑った。
「なんで笑うの⁉︎」
「いや、大きな目だなと思って」
ーおっきい目だねー
旭の声が重なった。それを皮切りに、あの時の情景が次々と思い出された。
まだ夢だと思っていたこの世界について、色々と話し合っていたあの頃。
「桜、どうしたの?」
急に大人しくなった桜に、陽也が心配そうに声をかけた。
「ううん、前に同じ事言われたなと思って。そしたら色々思い出してきて…」
あの日の夜、英玲奈が襲われて。
家に帰れば、変な夢を見て。
次の日にはこの世界に転がり込んだ。
朝、父親にそっけない態度をとってしまった。せっかく作ってくれた母の朝食を食べられなかった。
後悔と共に次々と溢れる記憶に、桜は涙が止まらなくなった。
陽也が桜の手を握った。
「桜の心を守るために、きっと今まで体が記憶を制御してたんだよ。忘れたわけじゃない」
「うん、うん…」
「だが、時間が経てば記憶は曖昧になってくるものだからな。日記をつけて、時折以前の事を思い出しながら、自分の気持ちを整理すればいい」
「うん、そうしようかな」
心配してくれる二人の気持ちが嬉しくて、また涙が溢れた。
安心すると、心地良い揺れに、桜はうとうととしてきた。そのままスヤァっと夢に落ちた。
「由羅は、天彾の日記を見た事があるの?」
「ああ、写しだがな」
桜が寝息をたてはじめたのを確認して、陽也が由羅に聞いた。
「由羅は、桜が天彾だと思ってるの?」
「…さあ、どうだろうな」
由羅は真っ直ぐ前を向いたまま、何処か遠くを見つめているようだった。
「桜が天彾じゃなかったとしても、桜を守ってくれる?」
服の裾を掴んで見上げる陽也に、由羅は驚いたように言った。
「当然だろう」
「僕は、自分の力で桜を守ってあげられない。だから他の人に頼むしかないんだ」
由羅は空いてる手で陽也の頭を撫でた。
「陽也はずっと、桜の心を守ってきただろう。それは陽也にしか出来なかった事だ」
顔を上げた陽也は、泣き笑いの表情を浮かべた。
「由羅、桜を守ってね」
「ああ、男の約束だ」
由羅は拳を突き出した。陽也もそれにならい、拳を突き出しコツンとぶつけた。
桜はスヤスヤと、いい顔で眠っていた。