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1 召喚

 パチッパチッと木の爆ぜる音がする。燃え盛る炎に包まれた建物には、数刻前の豪奢な姿は見る影も無かった。

(私のせいで、こんな…)

 沸き上がる後悔や悲しみでぐちゃぐちゃになった感情が、桜をその場に縛り付ける。紅蓮の炎が、嘲笑うかのようにゆらゆら揺れながら天へと伸びていた。

「危ない!」

 突然強い力で後ろへ引かれ、ガクンと腰から倒れた。次の瞬間、支えを失い重みに耐えられなくなった燃える梁が、バキバキと激しく音を立てながら桜の足元に崩れ落ちた。盛大に火の粉が巻き上がる。バクバクと心臓が跳ね呆然とするしかない桜を、命の恩人が引っ張って立たせた。

「ここにいるのは危険だ、行くぞ!」

 腕を引く人物に、桜はまだぼんやりとしたまま、ゆっくりかぶりを振る。

「火を、消さないと…」

 振り解こうとした腕を、彼は強い力で引き戻した。

「無理だ。じきに街全体に火が広がる。そうなったら逃げられない」

 彼の言う事はいつでも正しい。わかっていても、それでもまだ、桜は動けなかった。

「だって、わたしのせいでこんな事に…」

「お前のせいじゃない!」

 そう言って、彼は強く腕を引き桜を連れて走り出した。彼が桜を責めないであろう事を、桜は知っていた。

(由羅…)

 武器を振りかぶって襲いかかる敵を彼は事もなげになぎ払い、真っ直ぐに走り続ける。彼がとても強い事を、桜は知っている。彼が命をかけて自分を守ろうとしているのを、桜は知っているのだ。夢の中の世界なのに。

(そう、これはいつもの夢…)

 町の横手に広がる雑木林に逃げ込み激しい息切れを抑えながら、桜は待っていた白い生き物に抱きついた。虎のような、猫のような大きなその生き物は、労わるように桜に顔を擦り寄せた。

「白斗…」

 フカフカな毛並みと体温を感じながら、桜は急激な眠気に襲われた。白い獣に縋るようにずるずるとその場に膝をつく。

「さくら、さくら!」

 心配そうに自分の名を呼ぶ声の主は由羅。夢の中で、桜が最も信頼する仲間の一人だった。

(由羅、ごめんなさい…)

 桜はこの夢の世界で、深い眠りに落ちた。

 ◇◆◇

 うっすらと目を開くと、見慣れた天井の模様が映った。頭の上に手を伸ばしスマホの時計を確認すると、アラームの十分前だった。

(なんか凄い夢を見てしまった・・・)

 桜はベッドに転がったまま手の甲を額に当て、今見た夢を反芻した。このところ良く見る、物語めいた夢だった。

 断片的で時系列はバラバラ、夢の視点も自分が登場人物の一人になっていたり、俯瞰して遠目に見ていたり。ただ同じ人物が何度も出てきて、時代や世界観も統一されていた。他の脈絡のない夢とは明らかに違う。

「自分が登場してたな」

 呟くと、詳細が思い出され、桜は思わず手で自分の顔を覆った。あれを自分の脳が生み出したと思うと、ちょっと恥ずかしい。かなり恥ずかしい。

『お前のせいじゃない!』

 登場人物のセリフを思い出す。

(ぎゃあああ。見た目だけじゃなくて中身まで厨二っていわれるー!)

 しばらくベッドで転げまわっていると、自分の夢に打ちのめされた頃、お腹がグウっと鳴った。

 制服に着替えて階下のリビングに下りると、朝ごはんの準備中だった母親が声をかける。

「おはよ、今日は早いね」

「夢の中で走り回ってたみたいで、お腹減った」

 桜が答えると母親が笑いながら目の前にトーストを置いた。

「夢の中じゃフワフワしてちゃんと走れないでしょう」

 母親の何気ない言葉に、桜は少し引っかかる。夢の中の桜はヘトヘトになるくらいしっかり走れていた。

「そうだね」

 答えながら思う。不思議な、夢だ。

 ◇◆◇

 授業の終わりを告げるチャイムが鳴る。

 教室の喧騒を遠くに聞きながら、桜はボンヤリとノートの余白に『由羅』と書いた。当たり前のように漢字で書けることも不思議だし、他の登場人物の『千寿』や『雷太』の名前も、それぞれの為人までハッキリしている事にも違和感があった。

『お前のせいじゃない!』

「うぐぅ」

 羞恥に打ちのめされ呻いていると、横から突如声がかかった。

「こら、ラクガキしてるな」

 ビクッと顔を上げると、隣の席の一ノ瀬旭がこちらを見ていた。

「うっ、ごめんなさい」

 慌てて消そうとする桜を見て旭が笑った。

「相原さん、今日元気ないよね」

 旭が頬杖をついて桜を見ていた。旭の言葉に目を丸くした桜を見て、

「おっきい目だね」

 また笑った。

「元気無いなんて、人生で初めて言われたかも」

 あまり自覚はなかったが、そういえばいつもよりボンヤリしていたかもしれない。よく見ているな、と感心する。

「もし何か心配…」

「さーくら、お昼食べよ」

 旭の発言をばっさり遮る可愛い声と共に、目の前に綺麗な顔が現れた。色白で、小顔で、長いたっぷりのまつ毛が美しい目を縁取っていた。スラリと伸びた手足は、制服でさえオシャレに見せてしまうような、初対面では誰もが見入ってしまう容姿だった。

 美人は三日で飽きるなんて言うが、それは嘘だと桜は断言できる。三六五日、小学校の頃から毎日ずっと美しいと思っている。中身も美しい。田中英玲奈は、桜の自慢の友達だ。

「俺いま相原さんと喋ってる途中だったんだけど」

「あっ、そう」

 英玲奈はケラケラと笑って旭の抗議を受け流す。開けっぴろげな笑い方が、可憐な容姿とのギャップで桜を和ませた。

「喋りかけられたらいつまでも昼ご飯食べれないよね。上田、今日も食堂だったら席貸してくれる?」

 最後の部分は、桜の前の席の上田に言ったものだった。どうぞ、と言って席を立った上田と交代で、英玲奈が椅子をこちら側に向けて座った。

「桜が元気ないのなんて、私は朝挨拶した瞬間から気づいてたから」

 英玲奈が、ふふんと小馬鹿にするように旭を見て言った。

 お弁当を食べながら、桜はポツポツと夢の話をした。二人は茶化したりする事なく真剣に聞いた後、各々の意見を述べてくれた。結論は、個人差があるから、そんな夢もあるんじゃないかと言う事で落ち着いた。

「二人に話したら気分が軽くなったよ」

 もともと落ち込んでは無かったけど、珍しく心配されて嬉しかった桜は、そんな事は言わない。

「たくさん話して喉乾いちゃったからなんか飲み物買ってくるよ。英玲奈もなんかいる?」

「ありがと、カフェオレお願いしようかな」

 うん、とうなずいて、桜は旭の方に目を向ける。

「一ノ瀬くんは?」

 さくらは勇気を出して頑張って聞いた。

「えっ、俺もいいの?じゃあ何か炭酸がいいな」

 旭も少しはにかんだように笑いながら答える。そんな二人の様子を、英玲奈はじっとりとした目で眺めていた。

「炭酸ならなんでもいいよ」

 旭の言葉に桜はしばし考え、真面目な顔でコクンと頷くと教室を出て行った。

 ◇◆◇

「何でもいいって言う男、私嫌いなんだよね」

 桜が出て行ったのを見計らって、英玲奈は毒づいた。桜にはあまり見せることのない表情だ。もっとも桜の場合、怒った顔も美人だと言ってくれるのだけど。

「別に田中に好かれようとは思ってない」

「桜には好かれたいと思ってる?」

「え?」

 英玲奈の言葉に旭は首を傾げる。

「で?うちの桜のどこが気に入った?」

 旭が目を見開く。

「えっ、何言って…」

「チッ、とぼけなくていいから。私そういうのすぐわかるの」

 旭は口を開け反論しかけたが、ふうっと観念したようにため息をついた。

「ちっちゃくて可愛い…」

「却下、出直してきて、ロリコン」

 英玲奈は半眼で旭を見つめながら言い放った。

「いやロリコンておかしいだろ、同級生なんだから」

 英玲奈は額に手を当てると、芝居がかった様子で軽く頭を振った。

「はぁ、まさか見た目が好みだっただけなんて、期待した私が馬鹿だった。桜、まだ時々小学生に間違えられるの。そんな容姿が好きだからって、ロリコンでしょ」

 旭は心外そうに英玲奈を見つめた。

「容姿だけで好きになるわけないだろ。見た目は割と最近で、きっかけは全然別なんだけど」

 旭の言葉を聞いた英玲奈は、腕を組んで椅子にふんぞり返った。

「続けて」

「なんでそんな偉そうに…。ちょっと前にさ、上田が相原さんに恋愛相談してたんだよ。あいつ好きな子がいるみたいで」

「私でしょ」

 旭はちょっと眉を顰めた。だが正解なので反論はしなかった。

「…で、相原さんに協力してって、ちょっとしつこく言ってて…、おい、凄い顔になってるけど」

 英玲奈の渋面に、旭がツッコむ。

「桜は断ってたでしょ。私がそういう事されるの凄く嫌なの知ってるから」

 旭は頷いた。

「ちゃんと断ってたよ。すごく申し訳なさそうに。そしたら上田のやつ何て言ったと思う?」

 旭にしては珍しい事だったが、不快感を顕にして言った。

「どうせ本当は大して仲良くないから協力できないんでしょって。田中さんと一緒にいたら男が寄ってくるもんなって」

 英玲奈は表情を渋面から般若に変えて呟いた。

「あいつ桜に何言ってくれてんの」

 直視しないよう、旭はそっと英玲奈から視線を逸らして言った。

「俺も腹が立ってちょっと上田に言ってやろうかと思ったんだよ。でも相原さん全然動揺してないんだよ。普通に『違うよ』って言ってて」

 そう言って、英玲奈を見た。

「どういったらいいのかな。わかる?怒るでもなく、卑屈になるでもなく、冗談言われてそれに笑い返すみたいな感じで。全然、怒らないんだよ」

 旭の言葉を聞いていた英玲奈は頷いた。

「よくわかる。桜はね、自分の事では怒らない。でも別に、悪意に対して鈍いわけじゃないよ。きっと愛情の容量がすごく大きいの」

 旭は首を傾げて聞き返す。

「愛情の容量?」

「普通、彼氏ができたら友達や家族を蔑ろにしたりして、分配する愛情の割合が変わるでしょ?子供が可愛くて旦那さんをほったらかしたり」

 言いながら、英玲奈は席を立つ。

「何?」

「席替わるの。上田の席にぬくもり残すの嫌だから。もう二度と上田の席には座らない」

 そう言って旭の向かいに座り直した。

「でも桜の愛情は膨大だから、家族や友達に振り分けてもまだまだ余るの。それこそ上田なんかにも分け与えてあげられるくらい」

 英玲奈の言葉に旭が頷く。

「なるほど…じゃああんまり嫌いな人とかいないのか…」

「そう、桜が人の悪口言うの聞いた事ないから。桜がどれだけ天使か聞かせてあげようか」

 食い気味に英玲奈が言う。

「いや、別にいらな…ふがっ」

 英玲奈は旭の口をバシッと手で塞いだ。

「まぁ聞いてよ。桜って剣道がめっちゃ強いの。全国レベルだよ。可愛くない?」

「可愛いって言うか、マジで?凄い」

「強くなった理由が、私を守るためだって。あんなちっさい体で。可愛すぎて泣きそうじゃない?」

 言いながら、英玲奈はほんとにちょっと泣きそうになる。

「私、こんな見た目だから、ストーカーやら誘拐未遂やら、ね。近くで見てた桜が、親も警察も児相も何もしてくれないなら自分が守るって言って、剣道始めたの。そんな桜が男のために私とつるむとかあるわけないでしょ、上田のアホ。マジでアホ」

 英玲奈は上田の言葉を思い出してまた怒りが込み上げた。。

「それで田中は、相原さんが変なのにつかまらないよう見張ってるんだな。束縛し過ぎると嫌われるぞ」

 英玲奈は旭の頭をはたこうとしていた手を、教室の入り口に桜の姿を見つけてそちらに振った。桜が両手にジュースを抱えたまま、ニコリと返した。

「ほら、人のジュース買いに行ってるのに、あんなに嬉しそうな顔してる」

「ちょっと急いで帰ってきてくれた感じが可愛いな」

 急いで戻ってきたのか、頬が上気している。自分の事が話題に上っているとは知らず、桜は小走りで席に戻ってきた。

「一ノ瀬くんはコーラで良かった?」

「うんめっちゃ好き。ありがと」

 旭の言葉に桜はホッとしたように笑った。

 笑い合う二人を見て、英玲奈はガシッと旭のコーラを掴むと思い切り振った。英玲奈にしてみれば、旭の事を認めてはいるが、面白くないことに変わりはなかった。

「ちょっと、マジで何やってんの!」

 慌てて旭が奪い返した。

「桜、ありがとうね」

 怒る旭を無視して、桜にジュース代とおやつに持ってきていたチョコを渡した。

「わぁい、ありがと」

 怒った旭はペットボトルの口を英玲奈に向けて開けようとしていた。

 ギャアギャアと言い争う二人を見て、桜はクスクスと笑った。何故ただの夢を気にしていたのか今は不思議な気持ちにさえなっていた。

 掛け合いがひと段落すると、旭が桜の頭をぽんぽんと叩いた。

「今日はいい夢が見られるといいな」

 すかさず旭の手を英玲奈がビシッと払う。 

「ありがとう、一ノ瀬くん」

 旭に笑い返しながら、桜は触れられた部分を意識した。今日は本当にいい夢が見られそうだと思った。

 桜の晴れやかな心とは裏腹に、窓の外では、厚い雲に覆われた空からついに雨粒が落ち始めていた。

 ◇◆◇

「あー、今日もバイトだぁ」

 校舎を出た所で傘を開きながら、英玲奈はつぶやいた。

 高校に入学してから、英玲奈は一人暮らしを始めた。父親は家賃だけ払って、あとは放置だった。バイト先は、子供の頃から二人で通い詰めた近所のコンビニだった。

 桜はもう何度したかわからない問いを繰り返す。

「もう慣れた?変な人いない?」

 心配で仕方がない様子の桜に、英玲奈は苦笑しながら答える。

「変な客はいるけどねー、でも仕事だし。自分で稼げるってのが、なんていうか、自立に一歩近づけた感じがして悪い気はしないよ」

 英玲奈には父親しかいない。人目を引く容姿のせいで度々危険な目に遭ってきた英玲奈を全く心配してこなかった、限りなく他人に近い父親だった。英玲奈は中学時代ほとんど毎日桜の家でご飯を食べていた。

「桜のお母さんにはお世話になりっぱなしで申し訳無かったからね」

「お母さん、最近英玲奈がご飯食べに来てくれなくて寂しがってるよ。入学式の時に、自分の作ったご飯が英玲奈を大きくしたんだって、英玲奈見て凄く嬉しそうだったよ」

 桜の言葉を聞き、英玲奈は大人びた顔で微笑んだ。未だ小学生に間違われる桜には真似できない表情だった。

「桜と桜の家族がいたからこの高校に入れたんだよ、おばさんが喜んでくれて私も嬉しい。でもずっとお世話になるわけにはいかないから」

 本人にそのつもりは無いのだが、英玲奈は時々悟ったような、諦めたような顔で桜を突き放す。

「コンビニ来てくれるのは嬉しいけど、あんまり暗くなってから来たらダメだよ。よくバイト上がり送ってくれるけど、桜だって同じ歳の女の子なんだからね」

 思いもよらない心配のされ方をして、桜はちょっと目を瞬いた。

「私は特に人目を引く容姿でもないし、高校生にも見えないみたいだから英玲奈みたいに変な人に絡まれる事はないよ。それに私凄く強いし。今も道場通ってるし」

 得意げな顔をした桜の頭を、英玲奈がぽんぽん叩いた。

「確かに竹刀持たせたら女子高生最強クラスだろうけど…、過信したらダメだよ。私を守るために桜が怪我するのはダメだからね。来る時は必ず竹刀持参でね」

「わかったそうする」

 真面目な顔で頷く桜を見て、英玲奈はケラケラと笑った。

「冗談だよ。今日は来たらダメ。家に着いたら連絡するから」

 穏やかだが譲らない口調に桜は不承不承頷いた。子供の頃からストーカーの絶えない英玲奈を思うと、内心心配でしょうがなかった。

 ◇◆◇

 スマホで時刻を確認すると、8時を過ぎたところだった。英玲奈がバイトの日は上がりの時間に合わせて買い物に行くか、行かない時はいつでも外に出れる準備をして帰宅の連絡を待っていた。過保護と言われそうだが、桜にしてみたらそれでも足りないくらいだった。

 英玲奈は幼い頃からたくさん危ない目に遭ってきた。あれだけ可愛い娘を心配もせず放置していられる英玲奈の父親が信じられなかった。

 過去の色々を思い出して沸々と怒りが湧いてきたところで、手にしたスマホが震えた。

『もうすぐ家着くよー』

 無事帰宅の連絡を見てホッとした桜は、短い返信をしてお風呂に入ろうとした。しかし机に置こうとした時、またスマホが震えた。英玲奈からの着信が一瞬で切れた。すぐにかけ直したのに、コール音が響くばかりで全く繋がらない。

『変な客はいるけど…』

 帰り道での英玲奈の言葉を思い出し、桜は背筋がゾワリとした。

 来てはダメだと釘を刺した英玲奈。何故あの時もっと詳しく話を聞かなかったのか。

「ちょっと英玲奈の家行ってくる!」

 階段を駆け降りてリビングの母親に叫ぶと、自転車に飛び乗り雨の中全力で漕いだ。走っても一分ほどの距離だが、今は一秒でも惜しかった。

 オートロックも何もない古びたアパートに着くと、自転車を投げ出し二階に駆け上がった。何も無ければ謝ればいいのだと、桜は呼び鈴も鳴らさず勢いよくドアを開けた。

 次の瞬間、目に飛び込んできた光景に言葉を失った。

 サングラスに大きなマスクの男が床に英玲奈を組みしいたままこちらを振り返った。恐怖にひきつった英玲奈の顔が目に入った時、頭の中で何かがプツッと切れた。

「英玲奈に何をしてる」

 自分の口から出たとは思えない低い声だった。さくら、と消え入りそうな英玲奈の声が聞こえた瞬間、怒りで震え出しそうになった。

 しかし怒れば怒るほど、頭の芯は冴え渡った。

 桜は視界の端に掃除用のワイパーを捉えた。

「くそっ!」

 男がナイフを振りかざして桜に向かってくるのと同時に、桜は男から目を離さずワイパーを掴んだ。そのままの勢いで男の手に叩きつけると、男が悲鳴を上げてナイフを取り落とした。流れるように男の脇腹あたりにもう一撃。その時、桜の腕にメキッと嫌な感じの手応えがあった。

「うぐっ!」

 男の口からくぐもった声が出た。悶絶して転げ回る男を無視して英玲奈に駆け寄ると、英玲奈は桜に縋りつきポロポロと涙をこぼした。

「さくら、怖かった…」

 騒ぎを聞きつけた住人が駆けつけ、すぐさま警察を呼んでくれた。男は警察が来るまで苦しそうに呻きながらうずくまっていた。連行されていく男は、転げ回っている時にどこかにぶつけたのか、こめかみからかなりの血が流れ出ていた。怨念のこもった血だらけの恐ろしい形相で桜を睨みつけ、

「お前、おまぇぇっ、許さねえからな!ごぁぁっ、くそ、いでぇぇぇ!お前、ごろじてやるっ!」

 涎を大量に吐きながら、大声で叫んでいた。

 警官に引きずられパトカーに乗せられるまで、男は叫び続けていた。

 念のためにと英玲奈と桜は病院に運ばれ検査を受けた。警察にも事情を聞かれ、落ち着いた頃にはもう日が変わる直前だった。桜はそのまま帰宅を許されたが、英玲奈は翌日さらに検査を受ける事になったため入院を余儀なくされた。病院から連絡を受け桜の両親と弟が駆けつけてくれたが、英玲奈の父親の姿は無かった。

「おばさん、ごめんなさい」

 俯いてポツリと呟く英玲奈を、桜の母親はぎゅっと抱きしめた。

 ◇◆◇

「英玲奈、明日また来るから、もし必要な物があったら連絡してね」

 ベッドに上体を起こした英玲奈は落ち着いた様子だったが、不安と疲労の色は濃かった。俯いて、ポツリと言った。

「さくら、ごめんね…」

 弱々しく呟く声を聞いて、桜も泣きそうになった。

「何で英玲奈が謝るの?」

「危ないから来るなって自分で言ったくせに、結局は桜に連絡してしまって…。私のために、こんな小さな体で、こんな細い腕で…」

 英玲奈の口から嗚咽が漏れる。

「優しい桜に人を傷つけさせてしまった…」

 普段決して弱気な姿を見せない英玲奈がポロポロと涙を流す様子に、桜の胸は締め付けられた。

「私に連絡して正解だったんだよ。警察じゃ間に合わなかったかもしれないよ」

 小さい頃から危ない目に遭う事の多かった英玲奈は、時々桜の母親と連れ立って警察に行った。ネグレクト気味の父親のことを児童相談所に通報した事もある。しかし、結局何も起こらないと助けられないという事だった。だから桜は自分が強くなる決心をしたのだ。

 桜は英玲奈に笑いかけた。

「ねぇ、私今日ほど自分が強くて良かったって思った事無かったよ。私、凄かったでしょ?今までのどんな試合より集中してたもん」

 あの時、英玲奈の泣きそうな声を聞いた瞬間、余分な思考は消え去った。

「すごく神経が冴えて、相手の動きもスローモーションだった。怒りを通り越すとあんな自分になるんだって、初めて知った」

 でも、男を殴った時骨の折れる感触があって、それで我に返った。

 桜は自分の手を見つめた。あの嫌な感触を今も覚えている。血だらけの顔で睨みつけるあの目が、今も脳裏に浮かび上がる。

 震える桜の手を英玲奈が両手でそっと包んだ。

「桜、私ね、聞いて欲しい事がある」

 英玲奈は目を伏せたまま語る。

「私、いつか父親を殺すかもしれないって、ううん、もしかしたら自分を殺すつもりだったのかもしれないけど、妄想というか想像というか、時々考えてて…、だからナイフをね、隠してたの。桜が来なかったらそのナイフで、手加減できずにきっとあの変質者の心臓をひと突きしてたと思う」

 桜は英玲奈の手を握り返しながら言った。

「私、今思い出すとちょっと怖いけど、でも一番は英玲奈が無事で良かったって思う。あの時LINEを見てすぐ駆けつけた自分を褒めてあげたい。これからだって、英玲奈を守るよ。英玲奈が自分でナイフを使う機会がないように、私が守るよ。物理的にも、社会的にも」

 相手をナイフで殺せば過剰防衛になる可能性がある。英玲奈の経歴に傷をつける訳にはいかない。

 唇をキュッと引き結び真面目な顔をした桜に、英玲奈は思わず小さく笑った。

「これ以上、桜を危ない目に遭わせられないよ」

「大丈夫。今日思ったけど、長い棒なら何でも十分武器になるから、コンビニ行く時は伸縮性のある棒カバンに仕込んでいくよ。毎回竹刀持って元気にコンビニ行くのはちょっとおかしいでしょ?」

「ふふっ、竹刀片手にコンビニって、想像したらおかしい…」

 笑顔が見られた事にホッとした桜は英玲奈の手をぽんぽん叩いた。

「英玲奈、今日はもう休んで」

 言われるがまま、英玲奈は横になった。ずっと張り詰めていた物がぷっつり切れたようだった。

「さくら、凄くカッコよかったよ。絶体絶命のピンチに駆けつけて、あんな状況だったけど、持ってるのはワイパーだったけど…。ふふ、凄く綺麗なワイパー捌きだった。桜が凄く怒ってるのはわかったけど、なんて言うか…、真っ赤に燃える炎みたいな怒り方じゃなくて、完全燃焼してる青白い炎、あんな感じで、怖いけど綺麗な…」

 英玲奈は目を瞑りながら、譫言のようにつぶやいた。

「…こんな凄い子なのに…、上田…、アホ…」

(…上田くん?)

 突然登場した上田に首を傾げたが、そのまま英玲奈が寝入ったので、桜はそっと病室を出た。

 ◇◆◇

 桜は帰宅後すぐにベッドに潜り込んだが、なかなか寝付けなかった。ベッドの上で自分の手を眺めた。男を殴りつけた感触が今も残っている。

『殺してやる!』

 残響が耳の奥でこだまする。あの時の男の双眸が、どうしても頭から離れなかった。あそこまでの憎悪を向けられた事は、今までの人生でなかった。初めて暴力で人を傷つけた。それが震えるほど恐ろしかった。

 布団を頭まで被ると、涙が一筋流れた。そのまま急速に抗いがたい睡魔に襲われた。

 ◇◆◇

 荒涼とした景色が広がっていた。あまり整然とはしていない並びの家々は、どれも粗末で、くたびれていた。ある家の前では竿に干した洗濯物がはためき、また別の家では子供が書いたらしい絵が地面に残されたままだった。

 その集落は、直前まで確かに人々の生活がそこにあった事を語りながら、人の気配だけが完全に失われていた。

「どう言う事だ、これは!」

 最初に声を上げたのは雷太だ。短く刈り上げ髪に、太く吊り上がった眉、立派な体格はその威圧的な話し方と相まって、桜を萎縮させた。

「一体何があったんだ」

 雷太とは対照的に、静かな口調で村を観察する由羅。雷太に比べれば細身に見えるが、鍛え抜かれた身体に無駄な肉は一ミリも無かった。切れ長の目に少し前髪がかかっていて、ただでさえ乏しい表情から感情を読み取るのを難しくさせていた。

「とりあえず、薙さんの家に」

 由羅が言うと、千寿がうなずいた。大柄な雷太と由羅よりさらに頭ひとつ大きな千寿は、この世界でかなりの大男だった。マスクのように布で口元を隠し、極限まで気配を殺していつも最後尾をついてきていた。年は由羅や雷太より一回り上で、その強さは最早異次元のものだった。

 ガタイのいい男達に囲まれた桜は、気配というよりは存在感を消して、小さく小さくなって集団に混ざって歩いていた。まるで連行されているようだった。

 ついて行った先には、どうやらこの村で一番大きな屋敷があるようだった。村長の住まいだろうか。

「様子がおかしいな」

 由羅の声に一同が立ち止まった。庭先には、折れた農具が散らばり、明らかに荒らされた形跡が見られた。それを見た瞬間、桜の胸に言い様のない不安がよぎった。不安、と言うよりも恐怖。その家に近寄る事に強い嫌悪感が湧いた。

 じりっと一歩下がった桜の手を、雷太が乱暴に掴んだ。

「おい、逃げるつもりか!」

 あまりの迫力に、桜はブルブルと首を振る。

「あんまり、あの家に近づきたくない」

 桜の言葉に、雷太はさらに険を強めた。

「お前があけろ!」

 そう言うと、グイッと桜の腕を引いて戸口の前に立たせた。

 桜はゴクリと唾を飲むと、取手に震える手をかけた。チラリと由羅を見たが、助けてくれる様子はなかった。

 そろりと引き戸を開ける。後ろを振り返ったが、まだ許してくれる気配はなかった。覚悟を決め、いけっ!と自分を叱咤して家の中へ一歩踏み出すが、明かり取りが閉ざされていて、中の様子はわからなかった。しかし、鼻をつく悪臭が不穏なものを予感させた。

「薙さん!」

 桜が臭いを認識したその瞬間、雷太に激しく突き飛ばされて、壁に顔面から激突した。跳ね返り床に転がった桜に誰も手を差し伸べてくれなかった。

「一体何があったんだ!」

 開け放たれた入り口から光がさし、少しずつ目が慣れてきたのもあって、何か大きな塊が転がってる事が認識出来た。その塊に駆け寄って雷太が呼びかける。薙さん、と。

 充満した臭いに吐き気を催した。少しずつ距離を取るよう後退りした桜の足が何かを踏みつけた。グニャリとした感覚にバランスを崩し、また後ろにひっくり返る。とっさについた手が、ネットリとした物に触れた。震える手を持ち上げると、ポタリポタリと滴が落ちた。

(今自分が踏んだものは一体なんだ?)

 壊れたロボットのようにゆっくり見回すと、暗がりの中、腕のようなものが見えた。

 いや、腕であるはずがない。体は向こうにあるのだから。

 思考が正常な判断を拒んでいた。

 さらに目の端に何かが見えた。丸い塊が転がっていた。例えるなら、人の頭くらいの大きさと形。

 脳が警告する。見てはいけない、と。見たくないけど、無視出来なかった。塊には、白いものが二つ付いていた。光の不十分な部屋でも認識できる、それはこちらを見つめる虚な相貌…

「うわぁぁぁっ!!」 

 

 はっと目覚めると、目に映ったのは見慣れた天井だった。

 混乱する頭で、どうやら自分がベッドに横になっていると気づいた。

(今の夢はなに?)

 全身汗びっしょりで気持ち悪かったが、ベッドから起き上がる気力はなかった。

(なんであんな夢…、私の頭どうしちゃったの)

 目を閉じると、あの虚な目がまぶたの裏に浮かびそうになり、慌てて目を開いた。

 自分の手をかざしてみる。もちろんなにも付いてはいなかった。

『殺してやる!』

 憎悪に満ちた目がこちらを見てる。

(いや、ちがう、あれは昨日の変質者…)

 混乱して、まともな思考が出来なかった。ドクドクとこめかみの辺りが脈打っていた。

 ノロノロとベッドから這い出しカーテンを開いたが、生憎の天気で部屋はさほど明るくならなかった。しかし、眼下に広がる日常の風景が、混乱した頭を少し落ち着かせた。

 

 階下へ降りると、いつも通り、母親が朝食を用意していた。

「おはよう、眠れた?」

 さくらは自分のマグカップを用意して、冷蔵庫から牛乳を取り出し、注いだ。一口飲むと、少し気分がスッキリした。

「寝不足か?あんな事があって眠れなかったか」

 トーストを齧りながら父親が聞いた。いつもなら少し面倒な父親との会話も、今日はありがたく感じた。

「ちょっと食欲ない」

「朝食べないとパフォーマンスが低下するぞ。顔色も酷い。朝の糖分というのは一番エネルギーの効率が…」

 やっぱりちょっと面倒になって、返事はせずにテーブルに着いた。目の前に置かれたお皿には、出来立てのベーコンエッグとサラダが乗っていた。

 フワッと香るこんがり焼けたベーコンが、今日は不快な感じに胃を刺激した。

「ごめん、朝ごはんいらない」

「どこか悪いの?」

 ビックリしたように聞く母親に小さく首を振ると、牛乳だけ飲み干して立ち上がった。

「ちょっと食欲ないだけ。大丈夫だから」

 何か言いかけた父親を無視して、さっさと二階の自分の部屋に向かった。 

 着替えて姿見の前に立つと、左手で頬に触れた。

「ひどい顔」

 こんな顔で病院に行ったら、英玲奈が心配する。桜はため息をつきながら、まぶたの下をマッサージしたり、頬を引っ張ったりしてみた。

 ふと思いついて、机にある小さなジュエリーボックスを開けるとネックレスを取り出した。シルバーチェーンに片翼のチャームが揺れていた。小さいけれどダイヤモンドも埋め込まれている。合格祝いに英玲奈とお揃いで買ったものだった。

 気分が塞ぎ、何かお守りが欲しかった。ネックレスを着けて再び姿見の前に立つと、少しだけ血色が良くなった顔があった。両手で頬を挟みぐっと後ろに引っ張って鏡を覗き込んだ。

「あぎゃぁ!」

 驚きのあまり、桜はひっくり返って尻餅をついた。自分の変顔に驚いたわけではない。背景に、知らない人の顔が映り込んでいたからだ。

 良く見るホラーな感じで自分の背後に顔がもう一つ…ではなく、頭から白い布をかぶった何処か異国の雰囲気のある女の人が、跪き、手を組んで一心に祈っている様子が映っていた。

「なに、これ…」

 恐る恐る鏡に近づく。鏡の中の女の人が祈っているのは、自分の部屋とは似ても似つかない、広々とした豪奢な場所だった。何処かで見たことあるような、と考えを巡らせると、数年前に出席した、従兄弟の結婚式場が思い浮かんだ。床一面絨毯張りで、高そうな絵画と、重そうな扉と、高い天井には煌びやかなシャンデリアが吊るされていた。あれに、少し似てる。

 馬鹿みたいだと思いながら、桜は後ろを振り返って確認する。やはり自分の部屋だ。

 桜が再び鏡の様子を見ると、さっきよりは少し引いたアングルで、部屋の広い範囲が映し出されている。

(鏡だと思ってたけどテレビだったのか)

 思考が現実逃避する。

 桜は鏡に近づいた。首を垂れて祈りを捧げる女性の周りには、幾何学的な円形の模様と、一定の距離で蝋燭が置かれていた。桜の知っている言葉で表現するなら、魔法陣の中心で巫女が何やら呪文を唱えているようだった。

 しばしその様子に魅入っていると、女性の顔に苦悶の表情が浮かんだ。それでも彼女は祈り続けていたが、やがて体が前後に揺れ、ゆっくりと、前方の蝋燭がある方へ傾いだ。

「危ない!」

 それが鏡だとか、不可思議な現象だとかは頭から消え、思わず桜は前方に手を伸ばした。次の瞬間、桜の伸ばした両手は、鏡の中にスッと消えた。何も掴む事の出来なかった手は体を支える事が出来ず、そのまま鏡の中へ転がり込んだ。

「あわわわわっ!!」

 一回転して飛び込んだ鏡の中は、感覚として無重力に近かった。フワリと浮いて、しかし体は緩やかに下降していて、今飛び込んできた鏡からどんどん遠ざかっていた。

「やだっ、助けて、助けてっ!」

 ジタバタと動かす手足には何の摩擦も加わらず、もやのかかった無の世界を落ちていく。

「やだっ、おかあさーん、おとうさーん!」

 泣きながら叫ぶが、鏡から誰かが覗き込んでくれる様子も無く、桜はなす術なく落ちるだけだった。

 少し緑がかった灰色のその空間を漂いながら、桜は目の端に何かをとらえた。

(あれは何?目みたいな…)

 目を凝らしてみればあちこちに目のような一対の黒い点が見えて、桜の背筋に冷たいものが走った。

 しかし、それらをしっかり確認する前に、桜は激しい吐き気と目眩に襲われた。

「くるし…、息が…」

 霧のようなモヤは、何の手応えも無いのに、圧力をかけるように重くまとわりついた。圧迫感が耳の奥の感覚をおかしくし、激しい目眩がした。だんだんと、意識が遠のく。重くなったように感じる腕を何とか胸元まで持ち上げ、震える手で、ネックレスに触れた。上手く力が入らず、握る事は出来なかった。

(英玲奈、たすけて、えれな…)

 ー大変だ、銀河!女の子が落ちてくる…ー

 遠くで微かに子供の声が聞こえた気がした。しかし重いまぶたを再び持ち上げる事は出来ず、桜は意識を手放した。

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