17 この世界の現実
旅はつつがなく進み、目の前には村への境界を示す門がそびえていた。今まで見てきたものより大きく凝った作りで、門を守る衛士の身なりも立派なものだった。
「大きいねぇ」
圧倒されポカンと口を開けたままの桜を見やり、由羅が僅かに微笑みながら言った。
「王都に近い村は、やはり栄えている」
ここ双葉村は、王都に二番目に近い村だ。もう街と言っても良いのではないか。
「ここは、交易の拠点なんです。海路と陸路から流れ込んだ物が一旦ここに集まり、王都に運ばれる。きっと桜さんが今までに見た事ない食べ物がたくさんありますよ」
桜の知っている地図でいう、大阪の北部あたりだろうか。
桜は目の前の大きな村に心惹かれていた。村の大きさより、人々に活気があることが、桜の心を踊らせた。
しかし、桜の心は門前の光景を目にすると急速に萎んだ。
道の端に、ぼろぼろの身なりの者が十数人、項垂れて座っていた。
「由羅、あれは?」
皆見ぬふりをして、まるでそこに何もないかのように通り過ぎて行く。由羅たちも、素知らぬ顔で通り過ぎようとしている。
桜の問いに、由羅の表情が僅かに揺れる。瞳に、悲しみなのか憎しみなのか、強い光が宿ったように見えたが、それは一瞬の出来事で、由羅は何も答えずふいと視線を桜から外した。
「あれに関わってはいけない」
聞こえるか聞こえないかくらいの声で、由羅が呟いた。
「?」
「あれは、落土の住人です。罪を犯して山に追われた人々です。日に一度、ああやって物乞いする事を許されています。でも、僅かな物を与えるだけです。必要以上に施すと、看守に罰せられます」
桜は再び居並ぶ人々を見た。老人や女性、子供までいる。
「ねぇ、あんな小さな子供が山に捨てられる罪って何?」
ガリガリの男の子が、弟と重なって胸が詰まった。あんなに小さいのに、こんなところに一人で?
「気持ちはわかりますが、関わってはいけない。私達は、特に千寿さんは目立ちます。今は堪えてください」
桜はさらに言い募ろうとしたが、
「桜」
小さく由羅に名を呼ばれ、黙るしか無かった。今までに聞いたことのない、低く冷たい声だった。
◆◇◆
予想通り、活気に満ち溢れたその食堂は料理の種類も豊富で、どの卓にもご馳走が並んでいる。
そんな中、桜たちの卓だけはお通夜のようだった。
「由羅さんがあんな怖い言い方するから、ほら、あの桜さんがご馳走に手をつけようとしない」
空気の読めない楽次の発言に、桜はさらに凍りついた。
「…、先に宿に戻る」
静かに言うと、由羅は席を立った。
桜は泣きそうだった。
「桜の事を怒ってるんじゃないよ」
陽也が優しく言った。
「ここにいるみんな、桜と同じ気持ちだよ。でもそれはおおっぴらに言ってはいけない。罪人を庇うものは、同罪と見なされる。施しをあまりしても、やはり看守に目をつけられる。今は、それは困るんだ」
「じゃあいつならいいの?」
あの男の子が頭から離れない。自分がお腹いっぱい食べている今、あの子は飢えて苦しんでいる。
「いつかはわからない。落土は全国にあるんだ。制度を変えないと、あんな子たちが次々生まれてしまう。落土に落ちた人間を誰より強く救いたいと思ってるのは由羅だよ」
頭で理解出来ても、心はついていかなかった。
せめて、許される範囲で男の子に食べ物を届けたかった。
「施しって、どれくらいなら大丈夫なの?私のご飯少し持って行ってもいい?」
雷太と千寿は黙々と食事をしていた。
仕方なく、答えてくれたのは楽次だった。
「細かい規則があるわけじゃないです。看守の匙加減のようなところが大きいですが、小さめの握り飯一つくらいなら大丈夫じゃないでしょうか」
「楽次!」
諫めるような雷太を無視して、桜は言った。
「じゃあこれを握って持って行ってくる」
それを聞いて、雷太は苛立ちも露わにため息をついた。
「ほら、こうなるからこいつに何も教えたくなかったんだ」
「ちゃんと楽次さんの言うこと聞いて、渡してサッと帰って来るから」
「いや、私は行くなんて言ってないですよ」
「俺や千寿が行くわけにはいかないだろ」
「桜は自分の分をちゃんと食べろ。持って行く物は別で頼むから」
静かに割って入った千寿は桜にそう言うと、カウンターまで行って店主に何やら注文した。
「…結局千寿も桜に甘いんだよな」
「私は、桜には色々な経験が必要だと思っている」
まるで父親だ。
黙々と食事をしていると、店員が近づいてきて何か千寿に渡した。
「桜、これを持っていけ」
手渡されたのは、笹の葉に包まれた握り飯だった。
思ったより小さい。
「これ以上はダメだ。話しかけたり、必要以上に長居するのも。見張りの看守は人を殺すのを何とも思わないやつだ。覚えておけ」
千寿の言葉に桜はコックリと頷いた。
◆◇◆
道すがら、楽次はさらに詳しく教えてくれた。
落土送りは、死刑の次に重い刑罰。いわば、終身刑のようなものだった。刃物はもちろん、農具やただの道具でさえ持ち込むのを禁止される。身一つで山に放り込まれ、刑期に終わりはない。
「彼らは非人と呼ばれます」桜は以前聞いか身分の話を思い出した。
「彼らが非人。身分の一番低い人達」
「そうです。人に非ずと言うことです。わざわざ物乞いなんてさせるのは、人以下に堕ちた者たちを見て、人である自分達はマシだと思わせ民衆の反感を逸らすためです」
吐き気を催す話だが、桜も似たような歴史を学んできた。
「看守は役人の端くれですが、平民よりずっと身分の高い者達です。非人どころか平民にも人を人とも思わない仕打ちを平気でします。くれぐれも目をつけられないように」
桜は神妙に頷いた。
「役人はほとんどが貴族です。身分が上の者を害すると、問答無用で死刑です。千寿さんも由羅さんも今は平民です。だからあえて物乞いを見ないようにしてるんだと思いますよ。怒りのままに衛士を斬り殺さないという自信が無いんですよ」
内情は理解できたし、由羅達の態度にも概ね納得した。
腰に下げた袋ごしに握り飯に触れ、これをさり気なく渡してそっと離れよう、あまり少年と目を合わせないようにしよう、そう心に誓った。
が、門を出てその光景を見た瞬間、桜のあらゆる思考は飛び、口から反射的に言葉が飛び出した。
「やめてっ!」
向けられたのは、あれほど警告された看守だった。
看守の前には、あの小さな男の子が引き出されていた。同じ落土の者と思われるボロボロの身なりの大人二人が男の子の腕を押さえつけ、差し出された背中を看守が木の棒で打っていたのだ。打たれた瞬間男の子が仰け反り、桜は思わず声を上げていた。
「誰だ、今叫んだ奴は!」
看守の言葉に、全方向から桜に視線が向けられた。
誰が声を上げたか一目瞭然だった。
「申し訳ありません!なにぶん、浅慮で無知な子供ゆえ!どうかお許しください!」
楽次が頭を下げ、片手で桜の頭を押さえた。
(しまった…)
あたりは異様な雰囲気に包まれた。
桜の膝はガクガクと震えた。
「お前、前に出ろ」
楽次が一歩前に出ると、
「お前じゃねぇっ!そっちのガキだ!」
相手が一喝した。
よく見ると、小太りの男は肩で息をしていた。一体何回殴ったのだ。男の子の背は、一部服が裂けて血が滲んでいた。
桜の心は震えた。
「お許しください。罰は私が受けますので…」
「うるせえっ!てめぇは下がれ!その刀で斬りつけられてはかなわんからな。ガキ、早く前に出ろ!」
「しかし…」
さらに言い募ろうとした楽次の服を、桜はそっと引っ張った。
「行ってきます」
もう震えていなかった。一歩ずつ前に進む。
(あの時と同じだな)
桜は青斎と対峙した時の事を思い出していた。
まだ由羅達との未来が残っている筈だ。それに…、
(ここで死んだら元の世界に戻れるかもしれない)
その危うく脆い考えは、しかし桜の心を落ち着かせた。
「申し訳ありませんでした」
役人の前に出て、桜は土下座した。土下座したのは初めてだが、なんの感情も湧かなかった。
「生き別れた弟とその男の子の姿が重なって、思わず叫んでしまいました。申し訳ありません」
男は桜の髪を掴むと、乱暴に顔を上げさせた。
「さっき、お前は俺に向かったなんと言った」
「…やめて、と」
髪を掴んだまま、今度は男の子の方にぐいと顔を向けた。
「これはお前の弟か」
「違います。弟がこんな所にいるはずがありません」
「じゃあ止めなくていいんだな」
「⁉︎」
桜の顔が強張ったのを見て、男は面白そうに続けた。
「こいつは他の者と言葉を交わした。丈罰五十の刑だ。今は…五つほど打った。あと四十五、弟じゃないならここで打たれるのを見ていて貰う事になる。どうする?」
男が面白そうに桜の顔を覗き込む。何か言わせたいようだった。
「弟ではありませんが…、弟が打たれているような気持ちでとても見ていられません。何とか許して貰えないでしょうか」
「ほう、助けたいと言うのか。赤の他人を。どうしようかなぁ」
頭が悪そうな表情を浮かべて、何やら考えているようだった。
「よし、じゃあ一生懸命お願いてみろ。許してやるかもしれん」
「どうか、その男の子をおゆるし…」
「きこえねぇよっ!」
男は桜の頭を地面に押さえつけて言った。
「本気で助けて貰いたいと思ってるのかっ!」
「どうかお許しくださいっ!」
額から血が出ているようだったが、桜は気にせず叫んだ。
「きこえねーよっ!」
グリグリと頭を押さえつけられる。桜は歯を食いしばって耐えた。
「どうか、お許しください」
「ようし、許してやろう」
桜はパッと顔を上げた。
「ありが…
「あと十発で許してやろう」
看守の言葉に、男の子が震えた。
「それか、お前が残りを受けてやるか」
桜はグッと奥歯を噛んだ。
「…、その子を許してくれますか?」
桜の返答に、看守はニタリと笑った。
少し離れた所で楽次が剣に手をかけると、それを押し戻す手があった。
「止めておけ」
声の主は、壮年といった年頃に見える、灰色の髪の男だった。長い前髪が目を覆って表情がよく見えない。
「あの弛んだ体を見てみろ。酒浸りで、まともに丈は握れない。どうせ十も打てない。さっきも五つ打って息が上がってた。あんなん受けても死にゃしないさ」
「しかし、それでも無事では済まない」
「あの世間知らずの嬢ちゃんにはいい薬だよ」
楽次が問答してるうちに、桜は腕を掴まれた。虚な目に生気は全く感じられなかったが、力だけはあるようだった。
ヒュッと音をたて、丈が振り下ろされた。
打たれる度に桜は仰け反り、口から呻き声が漏れた。
あといくつ、歯を食いしばって楽次が耐えていると七つ目のところで、
「これで許してやる」
息をきらしながら看守が言った。
楽次が駆け寄ろうとするのを男は手で制した。
「俺が行こう。あんたじゃまた看守を怒らせるかもしれない」
少し足を引きずりながら近寄って来て自分を助け起こす見知らぬ男を、桜はぼんやりと眺めた。他の者と違い、生気の宿ったその瞳に少しホッとした。
男は桜の腕を自分の肩にまわし、引き起こした。
「馬鹿な真似するんじゃねーよ。これに懲りて、己の分を弁えるんだな。でなきゃ命がいくつあっても足りないぞ。…なんだ、何か探してるのか」
歩きながら桜の手がウロウロと動くのを見て、男が言った。
「袋に…おにぎ…」
「おにぎりですね、でももう渡せないですよ」
近づいて来た楽次の言葉に、桜の目からぽろりと涙が落ちた。
「ごめ…ね…」
「貸してみろ、俺が渡してきてやる」
男は握り飯を手に、足を引きずりながら看守に近づくと、一言二言囁き、手に何かを握らせた。
無事に男の子に握り飯を手渡し帰ってきた男に、桜は朦朧としながら言った。
「ありがと…」
「…。あんたは無理だろ、俺が背負って行こう。宿はどこだ」
腕の動きがぎこちないのを見てとったのか、男が楽次に言った。
「いや、そこまでして貰っては…」
「腕怪我してんだろ。それじゃこいつは背負えない」
いいながら、意外に軽々と桜を背負った。
男の背で、桜はポロポロと涙を流した。
「助け…、られな……。うっうっ、ごめん…」
「助けましたよ。男の子は桜さんに助けられて、握り飯も食べられて、十分救われましたよ」
「助けたかっ…、うっうっ、何も、できな…」
「あそこから助け出すには、お前の力じゃ到底無理だ。バカな考えはお前もお仲間も危険に晒す。言っただろ、己の弱さを知って分を弁えろ」
「ちょっとあなた、そんな言い方ないでしょう!」
「…だが、あのガキは今日の出来事のおかげで、人としての心を失わずに済んだ。しばらくは生きていけるだろう。誰かを助けたいなら賢くなれ。気持ちだけではどうにもならない事ばっかりだ。考えて、実行できる力をつけろ。ここか?」
男は宿に桜を下ろすとサッと立ち上がった。数歩歩いて立ち止まり、
「ただのむこう見ずかと思ったが、なかなか根性がある。だがこのままじゃすぐ死んじまうぞ。ちゃんと周りの大人が手綱引いてやれよ」
背中越しに言うと、そのまま立ち去った。