12 陽也の旅立ち
まだ昼を少し過ぎたくらいだろうか。
日は高い筈なのに、広葉樹の生い茂る森は葉っぱに太陽が遮られ薄暗かった。
(陽也、無事でいて!)
焦る気持ちとは裏腹に、木々に阻まれ進みは遅い。
登った先は切り立った崖になっている、そんな場所を聞き出して、楽次に先導させた。桜の迫力に気圧されて、楽次は言われるがままに案内役となった。
「ここは陽也にとっては庭みたいなもんです。何をそんなに心配して…」
桜がギッと睨みつけたので、楽次は口をつぐんだ。息切れした桜は言葉を発する事が出来なかったが、表情で伝えることに成功したようだ。
陽也が一人で歩いていたなら問題ない。でももし雪代が一緒なら…。
陽也と同じく雪代も姿が見当たらなかった。控えの間に入るのを千代が確認したが、騒動の最中姿を消した。
「もうすぐ着きますよ」
登って、登って、登り切ったところで急に視界が開けた。桜は地面に這いつくばるようにして崖の下を眺めた。
「桜さん、何か見え…」
同じく這いつくばった楽次は、言葉を失った。桜も声が出ない。
崖の途中、突き出た部分に人がいる。かなり離れていたが、人と、周りに広がる赤いものが確認できた。
あれは…、血だ。
「早く降りて助けないと!」
「ちょっと待ってください。きちんと準備しないとこの高さじゃ降りるのもたいへ…」
「いいから、早く縄か何かを!」
「縄ならここにある」
さすが由羅だった。桜の雑な説明を理解し、桜が飛び出した後、必要な物を調達してくれていた。
村の人に案内されてここまで登ってきたらしい。儀式で見た、数人の男の人がいた。
「どうすればいい?早く引き上げないと」
桜は焦って村人達を見たが、皆気まずそうに目を逸らした。
「?」
「もう死んでるんじゃないのか」
一人が言った。
「この高さから落ちたんだろ?」
別の者が言った。
皆が口々に陽也を諦めたような発言をする。
桜は怒りを通り越して、唖然とする。
「なに…、言ってるの?」
声が震えた。
こんな高さから、目視だけで生死の確認なんて出来ない。なぜみんな早々に陽也を見捨てようとするのか。
「そんなの、こんな高さから確認出来ないでしょう?人がいるのは確かなんだから、まず引き上げるのが先でしょう?」
「俺は無理だ」
一人の男が即座に言った。
「引き上げるには誰かが降りなきゃいけない。生きてるかどうかもわからない人間のために、そんな危険な真似出来ない」
「俺もだ」
「だいたい陽也どうかもわからないだろう」
「陽也だよ!」
桜は叫んだ。涙声で訴えた。
「あそこに陽也がいるんだよ。それを放って、このまま山を降りるの?村に戻って、何事も無かったように暮らすの?これで娘が連れ去られることはないって笑いながら?まだ十一歳の陽也をひとりぼっちであんな所に残して!」
男達は気まずそうに目を逸らして、何も言わなかった。
「痛くて、辛くて、不安で、泣いてるかもしれない陽也を放置して行くの?」
悔しくて、涙がポロポロと落ちた。
何故ここまで言わないとわからない?何故こんなに訴えても誰も陽也を助けようとしない?
「誰も行かないなら、私が行く」
袖でぐっと涙を拭うと、桜は由羅に向かって言った。
「解けない縄の結び方を教えて。どんな状態でも陽也を引き上げて来るから」
「しかし…」
「由羅じゃ重すぎるでしょう?」
雷太も千寿も到底無理だ。
「あっちの人達は手伝う気がないらしいから、三人で引き上げてくれる?陽也を抱えて自力で登る力はないから」
「私が行きます」
小さく、しかしキッパリと声を上げたのは楽次だった。
「おい!」
村人が非難の声を上げる。
「私は薬草を取りに何度もここを降りてる」
桜は困惑して楽次を見上げた。
婚約者を失った今、陽也を恨んでいないとは思えない。
「本当に陽也を助けたいって思ってくれてますか?」
「おい、せっかく代わってやろうってのに、なんて言い草だ!」
怒鳴った男を、楽次は手で制した。
「桜さんには無理です。もし陽也の意識がなかったら、縄で自分と陽也を結んで引き上げるなんて、あの狭い場所じゃ出来ないでしょう」
桜は由羅を背負って白斗に跨った時の事を思い出した。夢中だったのであまり覚えていないが、意識のない人間を動かすのは桜一人では難しい。
しかし…
「だって、楽次さん、嘘ついたでしょう?儀式の前にちゃんと由羅達に伝えてくれるって言ったのに…。陽也が生きてたら、ちゃんと引き上げてくれますか?」
「もちろん死んでいようが生きていようが引き上げますよ。ではこうしましょう。まず私と桜さんとで降りて、私が桜さんと陽也を結んであげるから、先に引き上げてもらえばいい。私と桜さんなら二人が降りるくらいの広さはありますから。私は縄一本垂らしといて貰ったら自力で上がります」
キッパリとした口調は、千代と一緒に桜の部屋を訪れた時とは別人のようだった。
「…私は陽也が生まれた時からずっと一緒だった。小さな陽也を世話しながら、沢山の時間を一緒に過ごしてきた。桜さんの言う通り、陽也をこんなところに残して何事もなかったように暮らすなんて無理だ」
桜はチラリと由羅を見た。
「確かに、桜が一人で降りたところで、何もできないだろう」
桜は俯いた。陽也の手当てを急がないといけないのに、モタモタしてる場合ではない。
「じゃあ…、お願いします」
◆◇◆
桜の体は、少しずつ崖を下っていく。
下を見ないよう、ただ必死に縄を掴んでいると、陽也のいる場所にたどり着いた。
降りたってみれば、確かに狭い。人が二人ギリギリ寝そべる事が出来るくらいの広さはあるが、この高所では狭すぎて心許なく感じる。
「陽也」
呼びかけるが、返事はない。しかし恐る恐る触れた肌は、まだ温かかった。
「陽也!」
続いて降りてきた楽次は、叫びながら陽也のそばにしゃがんだ。険しい顔で、全身の様子を診ていた。
「足が腫れてるが、折れてはいない。頭もそこまで酷い怪我じゃない。これなら引き上げられる」
言いながら、腰から下げた袋の中から包帯やら薬やらを取り出してテキパキと処置し始めた。その様子を、意外な気持ちで桜は眺めた。
「楽次さんは医者なの?」
「薬師ですよ。医術はまだ勉強中です」
一通り手当が終わると、今度は縄で陽也を結び始めた。
「…ひとつ、聞いていいですか?」
手を止める事なく楽次が話しかけてきた。
「何で陽也がここにいるってわかったんです?」
顔を陽也に向けたまま、抑揚のない声で聞いてきた。桜は、最初に楽次に抱いた印象と大きく違う事に戸惑った。
「言っても、信じてもらえないと思う。私も確信があったわけじゃないし」
楽次がぴたりと手を止めて桜を見た。
「確信は無かったけど、陽也が落ちたと思っていた」
桜を見つめる目は鋭さを増した。
「何で落ちたんですか?ここは陽也の庭だ。足を滑らせたとは考えられない」
「わ…わかりません。私は夢で陽也がどこか崖から落ちるのを見ただけだから」
「ゆめ?」
桜はコクリと頷いた。
「そうですか…」
少し考える素振りを見せた後、楽次は桜に手を伸ばした。一気に緊張感が走った。
「陽也と桜さんを結ぶから、ちょっとこっちに寄って陽也を抱えてください。こう、向き合う感じで」
そう言って陽也の上体を起こした。
「夢で見たのに、落ちる前に止めなかったのはなぜですか?」
「だって…、ただの夢だと思ってたから。でも、陽也がいないって聞いて、急に不安になって…」
「いなくなったのは陽也だけではないですけどね」
そう言って、楽次は桜をじっと見た。
早く、と促されて、桜は陽也を抱えた。
「…陽也が足を滑らせるなんて考えられない。…桜さんが見た夢では、どうやって陽也は落ちたんですか?」
耳元で楽次の声がした。心臓が早鐘を打つ。
追求をやめる気は無さそうな楽次の目を見て、桜は覚悟を決めた。
「崖に佇む陽也の背中に迫る手が見えました。逆光だったので影だけです。夢はそこで終わりました」
「その手にこの腕飾りがついていたとか?だから何度もこれについて聞いたんですか?千代さんにも聞いたんでしょう?」
楽次が自分の飾りを見せながら桜を見た。悲しげな表情だった。
きっと楽次も犯人に気づいている。
「そうです。それと同じ石の腕飾りをつけた、細い腕でした。きっと村の人達は誰も雪代さんを疑わないし、私は夢の事を誰にも話してない。知ってるのは楽次さんだけです。ここで口封じするつもりですか」
この人は雪代を守るために嘘をつける人だ。また騙されたのか、悔しさを滲ませて睨む桜に、楽次はポカンとした顔で言った。
「口封じ?」
釣られて桜も間の抜けた顔になってしまった。
「まさか、まさか!そんな事しないです!いや、ここで話したのは村の人に聞かれたくなかっただけで、そんな風に思われてたなんて…」
楽次が情けない顔をする。
勝手に勘違いして盛り上がっていた自分を誤魔化すために、桜はキリッとした顔で楽次に捲し立てる。
「だ、だって、急に別人みたいになるから、てっきり…こんな狭い場所で怖い顔して手を伸ばされたら何かされると思うでしょう。だいたい楽次さんの雰囲気が違い過ぎて混乱します。私、また騙されたのかって…」
対する楽次は、しどろもどろと何事か呟きながら、しかし手だけは休まず正確に動かしていた。
「違うんです。いや、一度騙しておいて信じてくれもないけど、桜さんを害するつもりは全く無かったんです。まさかあんな短時間で巫女の仕事を覚えられると思わなかったからせいぜい裏方の雑用ぐらいだろうって。そしたら千代さんの気も済むだろうし。それに雪代がいるのに、雪代より美しい人なんていないのに、桜さんが選ばれるわけないでしょう?」
でしょうと言われても。
「今回の事、雪代がやったんですよね。でも桜さんが思ってるのとは違うと思う。この村で陽也をよく思わない人間はたくさんいるけど、僕と雪代は違う」
「じゃあ何で、こんな酷いこと!」
婚約者を庇いたい気持ちはわかるが、そんなの納得できるわけがなかった。
怒鳴り返した桜に、楽次が眉尻を下げて情けない顔で言った。
「お願いです。雪代と話してください。きっと桜さんの思ってるのとは違うから」
そう言うと、縄をクイっと引っ張った。それが合図となり、桜の体はフワリと持ち上がった。
途中意識が戻ったのか、陽也のダラリと下がっていた手に力がこもった。
「陽也、もうすぐ助かるよ」
桜が囁くと、陽也は桜にギュッとしがみついた。
「桜、僕はもうここに居たくない。桜と一緒にいたい。逃げだしてもいいと思う?」
桜は崖の上で村の男達と交わした会話を思い出した。
「思う、思うよ!一緒に逃げ出そう」
陽也の目からポタリと涙が落ちた。
◆◇◆
助けられた陽也を見ると、男達の顔に明らかな落胆の色が見えた。一人の男が、やっぱりな、と、小さく呟いた。
「ちょっと!」
桜が男に食ってかかろうとしたのを、陽也がそっと袖を引いて止めた。
「帰ろう…」
「…っ!」
桜は奥歯をぐっと噛み締めて、怒りと涙を堪えた。
「陽也は私が背負って行きます」
楽次がそう言って陽也をおぶった。楽次の背に揺られながら、陽也は眠りについた。