10 聖者の戦い
「これより、戴狛の儀を執り行う」
明朗な夏陽の声が神殿に響いた。
夏陽は神殿にいる桜を見ても、特に驚く様子はなかった。
(良かった、怒られなくて)
桜はホッとした。千代の言う許可を貰ったと言うのは本当だったのかもしれない。
本殿の中央には、赤、白、金色などで刺繍を施された豪奢な絨毯が敷かれていた。
その上に教卓くらいの広さの黒い机が置かれていた。机の中央部には例の魔法陣のようなものが、金色の線で描かれていた。そこに白い衣装を纏った陽也と、明史という名の貴族の男が向かい合って座っていた。
桜は陽也の顔をチラリと見た。
(陽也、いつも通りだ)
部屋の壁には複雑な紋様の幕が下がり、バルコニーのように突き出た舞台部分は広く空いていた。
舞台の片側の端に、雅楽を奏でる者が各々の楽器を前に二列に並んで座っていた。
桜と雪代もそれぞれの列の端に座っていた。
(私、本当にこんな所にいていいのかな)
あまりにも神聖な雰囲気に、桜は気後れした。
太い柱に支えられた天井は高く、柱には流麗な模様が隙間なく刻まれていた。
陽也は両手を合わせ、魔法陣に向かって長い呪文のようなものを唱えた。
「御石と錫杖を、ここへ」
夏陽の合図で、桜と雪代はそっと立ち上がると、廊下に控えていた千代から石の乗った盆と、いくつかの輪っかのついた杖をそれぞれ受け取りしずしずと陽也の元へ運んだ。
絨毯に上がる前、
「神界へ跨ぎ入る事、ご承諾願い奉る」
教えられた通りの口上を述べ、盆を頭のあたりまで持ち上げた。机のところまで進み、魔法陣、これを奏天紋と呼ぶらしいが、その上に盆を置いた。
次に、錫杖を持った雪代が同じように絨毯に上がった。
そのまま二人は、陽也の斜め後ろ、それぞれの絨毯の隅に正座した。
桜は机に向かった男と、斜め向かいに対峙する形になった。
歳は五十程、膝に肘を乗せ、頬杖をついていた。もう片方の手は、扇をパチン、パチンと鳴らし、神前とは思えない不謹慎な視線を雪代に向けていた。
一様に真剣な、神聖な雰囲気の中、男だけが異物、そんな印象だった。
「神は天界に言の葉を生み、理をもって互いを結んだ。天帝の呪言は言霊となり、冥界を照らす光となった。やがて目覚めた銀の御狛馬は、時を跨いで天下を結ぶ天使となった」
陽也の少し高めの、透き通った声が響いた。
陽也が石の左右から手をかざすと、触れていないのに石が宙に浮いた。
(うそっ!)
桜は声が出そうなのを何とか堪えた。
この世界に来て狛馬という不思議な生き物に出会ったが、そこまでの驚きはなかった。
火を吹く魔獣や森に住む精霊がいるわけでもないし、魔法を唱えて魔族と戦う者もいない。
桜の住む世界と基本的には変わらない思っていた。
が、今目の前に見える光景は、桜の知る科学では到底説明のつかないものだった。
浮いた濁った石は、見る間に透明度を増していく。やがて、向こうが完全に透けて見えるまでになった。
男は目を丸めて、
「おおっ」
と子供のように声を上げた。石の様子を興奮気味に眺める明史に、夏陽が問う。
「強き言の葉は、光を溜め、冥界を照らす道標となろう。汝の信念、『王』にて相違ないか」
「相違ない」
それで真剣に答えたつもりかと言いたくなる、やや締まりのない声で男が返事した。
すると、再び飛び上がりそうな程の衝撃が桜を襲った。
陽也がまた何事か呟くと、透明になった石の中に、『王』の文字が刻まれたのだ。
陽也が手を下げるのに合わせて、石も下降し、やがて盆の上に戻った。
「天帝へ、御神楽を奏じ奉る」
夏陽の声に、雪代が立ち上がり、錫杖を手に舞台へと進み出る。
「明史殿、石を舞台前へ」
夏陽が言うと、明史と呼ばれた異物は、よいしょと腰を上げると、桜に向かって言った。
「お前が運べ」
神殿内の清らかな空気が、明史を中心に濁る。
桜は動揺して夏陽を見た。
予行演習では、明史役の男は、丁寧に盆を運び舞台の前に置くと、一歩下がって座し、ひれ伏すように額を床につけ、石を授かる感謝の言葉を述べていた。
「儀式は全て、天帝の記した律令に定められた方法に則って行われます。起点から終点まで、一本の道です。道を外れた者は、天の恩恵を失います」
「村長風情が誰に向かってそのような口を。そんなつまらん理由で天命を失った者などおらん」
明史は気色ばみ、夏陽に詰め寄った。
「ならばお前が石を運べ。そして額ずいて天に祈るがいい」
オロオロとした桜に夏陽が視線を向け、目線で予定通りの場所に促した。
桜は練習通り、雅楽の列の端に戻って座った。
「明史様、石を」
「きさま!」
「この刻まれた文字への気持ちの強さによって、狛馬を授かる事ができるかどうか決まります。つまり、狛馬を授かる資格を得られなかった時、あなたの信念が疑われる事になります。あなたが選んだ文字は何ですか」
「…王だ」
「ならばもしいつまでも狛馬を授からなければ、あなたの王への忠誠に疑問を抱く者が出てくるかもしれません。儀式を蔑ろにする者に、狛馬は降りて参りません。あなたの周りの方々を見ればお分かりになるのでは」
「……!」
明史は今度は真っ青な顔をして、夏陽を見つめた。
「石をお運びください。そしてお言葉を天へ向けてお納めください。緊張でお忘れのようなら、私の後に続けて詠唱してください」
促されるまま明史が儀式をこなすのを見て、桜は感嘆した。
この汚れた男を浄化しようとしている、そんな気がした。
明史が言葉を述べ終えると、桜の前に座していた雪代がそっと舞台の中央に出た。
演奏が始まると、錫杖の音を響かせながら、雪代が舞った。
神殿にいた者達から、ほうっと声が上がる。
陽の光を浴びながら、雪代は熱に浮かされたように一心に舞う。桜は雪代から目を逸らす事が出来なかった。
(なんて、綺麗)
明史はポカンとした顔で見惚れていた。
一曲分舞っていた筈なのに、それはあっという間に終わってしまった。
舞が終わり雪代が一礼すると、一同はその余韻に浸り、神殿は鎮まりかえった。
そこへあまり場にそぐわないパチパチという拍手が聞こえた。
「いや、見事なものだ。久しぶりにいい舞を見た」
場違いな態度である事は、周りの様子からわかった。
雪代が浄化した空気が、また、澱む。
「よし、そなたを王都へ連れて帰ろう」
伏せていた雪代の肩がビクリと動いた。
今までとは違う緊張感が漂った。
(王都へ連れて行く?)
皆明史の言葉に項垂れている。桜だけが状況をわかっていなかった。
重い沈黙を破ったのは千代だった。
「どうか、どうかお許しください。来月には祝言が控えているんです」
明史に縋った千代は、今までになく取り乱した様子で桜を指さした。
「あの娘、あれは天涯孤独でここに何の未練もありません。行き倒れた所を拾われこの村に流れ着いた哀れな娘です。どうか王都で、王様のおそばに置いてやってください」
桜はその様子を唖然として見ていた。
明史は桜をじっと見つめ、次に雪代を見た。再度桜を見て、フッと笑いながら首を振った。
「あの娘はいらん」
千代が絶望の表情を浮かべた。
「ありがたく、お受け致します」
雪代は震える声で言うと、神殿から出て行った。
「では、そう言う事で」
次いで明史が去り、残った神殿を重い空気が包んでいた。
(いったいなんなの)
混乱する桜を、千代がキッと睨む。
「この役立たず!」
そう吐き捨てて、千代は雪代の後を追った。
「桜さん」
呼ばれて振り返ると、終始変わらぬ落ち着きの夏陽と目があった。
「このような事に巻き込んで申し訳ない。千代の酷い態度も私から詫びさせて欲しい。すまなかった」
そう言って夏陽が頭を下げる。
「私が不甲斐ないばかりに、千代の娘はこれまでに二人も王都に取られた。雪代で三人目だ。千代は全ての娘を失った」
ー全ての娘を失ったー
「娘さん達、帰って来れないんですか?」
桜の問いに、夏陽は僅かに眉を上げる。
「まさか、何も知らなかったのか?」
桜は頷くしかなかった。何がわからないのかわからない。
夏陽は僅かにため息をついた。
「私は、全て承知で君が引き受けてくれたと聞いていたんだ」
少し疲れた様子の夏陽は、陽也と楽次を振り返って言った。
「陽也、楽次、桜さんに事情を、説明してあげなさい。私は…少し休ませて貰う」
儀式が終わり、ようやく桜は、自分が生きていた世界とは全く違う常識を知る事になった。