9 八葉村の光と影
村長の屋敷はバタついていた。 桜達に構っている時間が無いのか、慌ただしく準備された夕餉は食べたはしからすぐ下げられ、一同は寝所へと追い立てられた。
「上位の貴族が来るんだろうな」
雷太が不満げに言った。それに応えるように、千寿が呟く。
「そもそも白華人に身分はない。石を授かる側は儀式を尊重するし、神妙な気持ちで臨む。どれだけ上位の身分であっても、村の人間が必要以上にへりくだる必要はないのだが」
桜はこの世界に来て初めて、身分制度の実態を見た気がした。
◆◇◆
部屋に一人になった桜は、落ち着かない気持ちで布団に横になった。
外はもう暗いが、元の世界ならまだまだ活動時間だろう。
枕元の明かりがぼんやりと部屋を灯す様子に最初は心細さを感じたが、今はもう慣れてしまった。
「陽也、大丈夫かな。随分落ち込んだ様子だったけど」
余程嫌な来訪者なのだろか。
今は儀式の準備で禊をしていると聞いた。陽也の身に本当に危険がないのか、あの夢はいったいなんだったのか。
薄暗い部屋で、桜は自分の手を眺めた。新しい皮膚がピンと張って、その周りを剥がれ落ちなかった古い皮がカサカサと縁取っていた。
見た目は汚いが、完全にもとの感覚を取り戻していた。
ここまでして貰って、桜はこの屋敷の人達や陽也が大変な時に何も返せないのが辛かった。
(明日、何か手伝えないか聞いてみよう。陽也の夢の事も、由羅達に話そう)
深い深い眠りに落ち、その日は夢を見る事はなかった。
◆◇◆
早朝、目覚めかけの微睡んだ状態の時に声がかかった。
「桜さん、こんな時間にすみません。少しお話しさせて頂きたいのですが」
囁くような弱々しい声が聞こえた。桜は寝ぼけた頭でしばし考え、茶房で会った若者かもしれないと思い至った。
障子越しに差し込む光は仄暗い。夜が開け始めた頃だろうか。
眠い目を擦り起き上がると、手櫛で髪を整えた。
桜がそっと障子を開けると、正座した若者が、瞠目して目の前に立つ桜を見上げていた。
「こんな時間の殿方の来訪に、そのように無防備に障子を開けるものではありませんよ」
若者の隣には、同じように正座した女性が微笑みながら桜を見上げていた。四十代くらいの綺麗で品のいい女性が、どこか面白がっているような口調で言った。
二人を見下ろす格好になっていた桜は、とりあえず自分も正座をして謝った。
「すみません、こちらの作法や常識があまりわからなくて…、もう一度閉めてやり直した方がいいですか?」
「いいえ大丈夫よ。でも次から気をつけた方がいいわ」
また笑顔で言った。その隣で、若者はオドオドしている。
「すみません、こちら雪代の母親の千代さんです。この方だけ部屋に入って貰う予定でしたが、いきなり出て来られたので驚きました」
「すみません、驚かせてしまって…」
桜は女性を見た。見覚えがあるような気がする。
「傷は痛みませんか?運ばれてから最初の二日程、お世話させていただきました。酷い有様で、屋敷の者が近づくのを躊躇っていたので、私が付いたのです。意識が朦朧としていたようだから、覚えてないかしら」
桜は湯呑みを運んでくれた人が同じような年恰好だった事を思い出した。
「もしかして湯冷しを飲ませてくれた人ですか。本当に、お世話になりました」
背中をさすってくれた温かい感触を思い出した。
「こちらの楽次からあなたが一五歳と聞いたのだけど、神殿に上がれる年齢ならお願いしたい事があって」
この女性も桜が陽也ほどの年齢だと思っていたと言うことか。
「あの、入ってください。私が出来る事は本当に少ないんですが、もし出来る事なら何でも。中でお話聞きます。楽次さんも」
「いや、私は流石に…」
手を振って辞去する素振りを見せたが、
「大丈夫です。実年齢が十五でも、実際は子供にしか見えないみたいなんで」
桜は布団を折り畳むと、部屋の隅にあった座布団を二枚出して、再度入るよう促した。
「あの、お願いというのは?」
「今日の戴狛の礼のことなんですけどね、身分のある方が来られるのだけど、巫女が私の娘一人しかいなくて、色々と手が回らなくて困っているのよ」
千代が頬に手を当て、心底困ったような表情を浮かべた。
「それで、あなたが神殿に上がれる年齢だって楽次から聞いて、ちょっと神殿の方で力を貸して貰えないかと思って…」
神殿と聞いて、桜は驚いた。
「あの、すみません。私そもそも戴白の礼というものをここに来て初めて知ったんです。神殿に上がると逆にご迷惑なんじゃないかと…。色々して頂いたので、皆さんが大変なら何でもお手伝いしたいんですが…」
「いいえ、難しいことをする必要は無いの。でも体が辛いなら無理しないでいいの。ただ、陽也の業に興味がありそうだったって聞いて、それならもし手伝って貰えたらこちらも助かると思っただけなの」
「体はもう何とも無いです。千代さん達が、お世話してくれたお陰です。でも…さっきも言った通り、私は常識を何もわかってないので、逆にご迷惑をおかけする事になるんじゃ…」
屋敷全体がこの騒ぎだ、きっとただの客では無い。それに、
ー桜は神殿に近づかないでー
あれは、どう言う意味だったのだろうか。桜には判断出来なかった。
「一度由羅に聞いて来ます」
立ち上がりかけた桜の手を、千代が引いた。思いがけず強い力で、桜は立ち上がる事が出来ず、再び正座した。
「あなたが決めたらいい事よ。あまり時間がないから、もし引き受けてくれるなら楽次を由羅さんの所にやります。体が大丈夫でこの屋敷の人達に恩を返したい気持ちがあるなら、是非引き受けてくれない?」
恩があるでしょう、とやんわり言われた気がした。千代は、さらに力を込めて桜の腕を掴んで離さない。
「でも…、あの、陽也が神殿に近づくなって…」
桜の言葉を聞いた千代の顔に、ほんの一瞬険がたった気がしたが、ふっと微笑むと、
「それは夏陽様の了解が無かったからよ。ここに来る前に夏陽様の許しをもらってるから大丈夫」
掴んだ手はそのまま、しかし声は優しく言った。
そこまで言われると、桜には断る理由が見つからない。困惑した顔で楽次を見ると、彼はバツの悪そうな表情を浮かべふいと目を逸らし、自身の手首の飾りに目を落とした。男性にしては細く、綺麗な手をしていた。
嫌なシーンがよぎる。
「楽次さんは、これから神殿で陽也の側にずっといるんですか?」
「あ、ああ、そうです。祭壇のしつらえや陽也の着替えを手伝うんです」
所詮はただの夢。こちらの世界に来てから一度たりともこの世界に関する夢は見ていない。雷太に言われるまでもなく、自分に夢見の才があるなんて信じていない。
しかし…、
「わかりました。私も、特に由羅は、この村に来ていなかったら助からなかったって聞いてます。お役に立てるなら手伝わせてください。由羅達には今から伝えに行って貰えるんですか?」
桜しか同年代の女性がいないなんておかしい。こんな早朝になって、こんな強引なやり方おかしい。しかし由羅の命を救ってくれた人達の頼みを無碍にできなかった。
そして何より、陽也に夢の事を伝え損ねた後悔があった。
どうしてもダメな時は由羅達が呼び戻しに来てくれるだろう。
「ありがとう。ええ、すぐに伝えるようにするわ。でも、反対されるような事なんて何もないから、心配しないで」
千代は、ホッと息を吐くように呟いた。とても、ちょっと忙しいから手を貸して欲しい程度のものとは思えなかった。
それでも、ゆっくりと背中をさすってくれた記憶が、桜を後押しした。
「じゃあ俺は由羅さん達に伝えに行きます」
そそくさと部屋を去ろうとする楽次に、桜は慌てて声をかけた。
「あの、楽次さん。その手首の飾りは…」
「ああ、これ」
ずっと陰っていた楽次の表情に、少し光が差した。手首を持ち上げた楽次は、
「これは、婚約した女性からもらったんです。こんな洒落たの私らしくないと思うんだけど、彼女が作ってくれたから、肌身離さず付けるようにしてるんだ」
少し照れたように言った。
手作りなら、付けているのは楽次だけなのか。それとも、婚約者に送る風習があるのなら、他に似たようなものを持っている人がいるのか。
色々聞きたかったが、時間がないのか楽次は足早に去ってしまった。
「では、行きましょうか」
千代に促され、桜は立ち上がった。千代は持ってきた上掛けを、そっと桜にかけてくれた。
「ありがとうございます」
温かい、と思った。
ー寒いから着けて行きなさいー
母がマフラーをかけてくれた事を思い出した。何気ない、今となってはかけがえのない思い出だった。
「あの、この村では婚約者に腕飾りを送るんですか?」
「そうね、何か身につける物を贈る事が多いかしら。誰か送りたい人がいるの?由羅さんとか?」
「いえ、まさか」
考えもしなかった。この世界に来て、そんな感情を抱く暇も余裕もなかった。
「あら、そうなの。十五の娘さんならいいと思ってる人くらいいるんでしょ」
千代が微笑みながら、少し探るように聞いてきた。
「以前はいました。いた、気がします。でも今はその気持ちが恋愛感情だったかどうかわかりません」
旭に憧れていたあの頃が、遠い昔のようだった。ぬるま湯のような世界で、平和な恋だった。
「そうなのね…」
呟くような千代の声からは、感情を読み取る事ができなかった。
門を出ると、朝焼けが空を赤く染め始めていた。浮き上がる千代のシルエットに、何故か桜の心は波だった。
千代の持つ蝋燭の明かりは、桜の知っている明かりに比べてあまりにも儚い。
(楽次さんはもう伝えてくれたかな。勝手な事して、由羅も雷太も怒ってるかな)
その心配は杞憂に終わる事をこの時の桜は知る由もなかった。
楽次は桜の部屋を去った後、由羅達に会う事はなく裏口からそっと外へ出て、一心に神殿へと駆けたのだった。
◆◇◆
神殿に着くと、入り口で湯浴みをさせられ、巫女の控えの間に案内された。そこには一人の可憐な女性が、上下白の巫女の衣裳を身にまとい、静かに座っていた。彼女が雪代だろう。
桜が入ると、瞠目して、戸惑ったように聞いた。
「あの、こちらのお嬢さんは…」
「例の、傷だらけで駆け込んできた、勇敢な女の子よ。こう見えてあなたと同じ十五才よ」
「え⁉︎」
千代の言葉に、雪代と桜は同時に声を上げた。こう見えて、と前置きされた通り、雪代にはそう見えなかったのだろう。
桜は別の意味で衝撃を受けた。
この大人びた、落ち着いた物腰の女性が十五才の標準なら、この世界で桜が実年齢に見えないのも納得がいった。
「巫女があなた一人では大変だから、手伝ってくれる事になったの」
「……!」
雪代が絶句した。手伝ってくれる事がありがたい、そんな雰囲気ではなかった。
「あの、私神事なんて初めてだし、本当にあんまり役に立たないと思います」
「でも、あなたもし…」
「雪代!」
千代が割って入った。
「雪代、桜さんはちゃんと納得して来てくてるのよ。あなたは神楽を舞う事だけ考えていればいいの」
確かに納得して自分の意思でここに来た。しかし千代の様子がおかしいのは明らかだった。
「あの、千代さん、やっぱり私には荷が重いと思います。神事なんて失敗できないところに私が来たらダメだと思います」
桜がやんわり断ろうとすると、他の人に聞こえない程度のトーンで、千代が冷たい笑みを浮かべながら言った。
「桜さん、昔夏陽様が、由羅さんたち三人に助けられた話は聞いたかしら?」
突然変わった千代の雰囲気に気圧されながら、桜は首を振る。
「王都からの帰り道、盗賊に襲われたところを救われたんですって」
「そう、なんですね」
桜は千代がなぜ急にそんな話を始めたかわからず困惑する。
「だから今回はその時の恩を返すんだって、惜しみない治療を提供するよう言われたわ」
千代はじっと桜を見つめた。
「でもあなたにはそれを受ける資格があったのかしら?」
「え?」
「この村はあなたに何の恩義もなかったのに、あなたが当たり前に手厚い保護を受ける資格はあったのかしら」
桜は言葉が出なかった。
「あなたのお世話は本当に大変だったの。だから今日、その恩を返して欲しいだけなのよ。大丈夫よ、隣で雪代も同じ事をしてるんだもの。やってくれるわよね」
(これはいったいだれ?)
桜には、目の前にいる人物が、優しく背中を支えてくれたあの女の人と同一人物には見えなかった。
時間が無いというのに千代は丁寧に桜の髪を結い、巫女の衣装を着せ、かなり念入りに化粧を施した。仕上がった際には満足げに言った。
「これで十五に見えるし、雪代よりも綺麗になったわ」
鏡を見てそんなはずは無いと思ったが、自分に言い聞かせるような千代の様子に、何も言う気にはなれなかった。
心臓が早鐘のようだった。千代が何か重要な事を話さずにいるのは明らかだった。
桜はせめて失敗だけはしないように、黙々と儀式の手順を覚えていった。
◆◇◆
「桜さん、どうして巫女の格好なんか…」
控えの間から本堂に入ると、楽次が絶句した。
「えっ、だってお手伝いって…」
「千代さん、これはどう言う事ですか?裏で雪代の補佐をしてもらうだけのはずでは?」
楽次が強張った表情で千代に問う。
「とても飲み込みが早くてね。一度教えたらすぐ覚えてくれるの。姿勢もいいから見栄えもいいしね。神楽だって一度見せたら覚えてしまったのよ」
千代が嬉しそうに微笑む。
「まさか、桜さんに神楽を?」
愕然として楽次が言う。その声音には、非難の色が濃い。
「残念ながら雪代と一緒に舞うと見劣りしてしまうから、神楽は流石に諦めたわ」
千代が頬に手を当てて残念そうに言った。
遅れて神殿に入ってきた陽也の表情も、桜を見るなり強張った。
「桜、どうして…」
「千代さんが、人手が足りないって…やっぱり来たら不味かった?」
「千代さんが連れてきたの?どうして…」
陽也はハッとしたように楽次を見た。
「ごめん陽也。まさかこんな事になるなんて…」
楽次はバツが悪そうに俯いた。
「そんな…」
泣きそうな陽也を見て、事情は全くわからないが、やはり自分はとんでも事をしてしまったと桜は後悔した。
「ご、ごめんなさい陽也。わたし、余計な事…。今から屋敷に帰った方がいい?」
「あら、それは困るわ」
千代の冷ややかな声が背後から聞こえた。
振り返って見た千代は別人のように冷たい表情だった。
「あなた、桜さんに神殿に近づかないよう忠告したそうね」
陽也は唇を噛んでいた。
「それはおかしいんじゃない?うちの娘は当たり前に神楽を舞うのに、この娘さんにさせてはいけない事なんてある?」
「でも、桜は何の事情も…」
「事情を知らなければ平和でいられるの?とてもおかしな理屈ね。雪代は全て了承した上で儀式を全うしようとしているの。雪代だけでなく、この村の娘達はみんなそう。どうして桜さんだけダメなんて思ったのかしら。白華様は選り好みが許されるのかしら」
「千代さん、何でこんな事…」
絞り出すように陽也が答える。
「何でですって?」
歪な笑顔で千代が陽也を見る。
「何でですって?わからない?娘を守るためよ」
項垂れた陽也の前に出て、楽次が千代に言い返す。
「千代さん、いい加減にしてください。陽也は自分の役目を果たしてきただけだ。こんな事しても無駄ですよ」
「無駄じゃないわ!ほら、よく見て。桜さん、化粧をしたらこんなに美人。雪代よりも綺麗になってしまったわ」
千代の言葉に、楽次が桜を見つめた。そして、向こうで神楽の練習をしている雪代を見る。もう一度桜を見て、頭を振りながらふっと笑った。
「ね、楽次もそう思うでしょう」
千代が嬉しそうに言ったが、絶対に同意ではなかった事を桜は確信していた。
なぜ容姿を比べられたのか意味がわからなかったが、それよりもずっと気掛かりだった事を楽次に聞いた。
「ねぇ、由羅達にはこの事伝えてくれたんですよね」
「…いえ、伝えてません」
頭が真っ白になる。
「な、な、なんてことを。じゃ、じゃあ雷太にしたら、私が勝手にやらかした事みたいに思われるんじゃ」
楽次が目を逸らす。ゲンコツを食らう未来が見えた。
「じゃあ私は雪代につきますから。神殿は全て閉門してます。もう逃げられないわよ」
完全に悪役の言葉を吐いて、千代が立ち去った。
気づけば雪代が不安げにこちらを見ていた。その雪代を、楽次が寂しげに見つめた。そしてため息をつく。
「桜さん、神事が終わるまで千代さんの思いつきに付き合ってやって貰えませんか?あなたに害がない事は保証します。ほら陽也も、桜さんは絶対に大丈夫だから。行こう。今は神事に集中して、全部終わったら一緒に色々と考えよう」
そう言って、諦めたような笑顔を浮かべながら、陽也の頭を撫でた。その手首に、赤い石が輝いていた。