第6話 誰にでも秘密がある(5)
「さすが中流上ともなると、違いますなあ」
翌朝、時計が十時を示す頃。
丘の上の大魔導師の家に現れたレストラードが、褒め言葉か慇懃無礼かよくわからない言葉を口にする。刑事らしく黒目を動かし工房内を見回す様子が、ソフィアにずる賢いイタチを連想させた。
「廃屋同然の家を買い、手を入れただけですよ。魔術実験もできる工房が必要でね」
「市街地を見下ろす丘の上に、立派なもんです」
コンラートの指示でお茶を運んで、ソフィアはビスケットの皿も作業机に並べる。
昨晩の作業でついた血の一部が、うっすら染みとなって残っているのに気がついたけれど、よく拭いたから衛生面に問題はないはずだ。
「使用人もいない。大したもてなしもできませんが、お好きにどうぞ」
「お構いなく。茶会に来たわけではないですからな。しかし、朝から電報で十時に来られたしと招かれてみれば……なんですこれは」
レストラードが作業机の奥へと目をやって、半ば呆れ混じりにつぶやく。
ソフィアも顔を上げて同じ場所を見た。
作業机に整然と並べられた捜査資料。その向こうに運んだ可動式の黒板に貼ってあるのは首都中心部の地図だ。
早朝からコンラートがなにやら作業していたもので、地図の上には複数のメモがピンで留められ、ピンからピンへ赤い毛糸が張ってあり、いくつかの道が赤いインクでなぞってある。
「いささか全体像が見えにくいからね、朝から僕なりに整理を試みていた」
「いっそここで捜査会議をやってはどうです?」
「試作の魔法薬や魔道具もあるから、よく知らない人は入れられないです」
ソフィアが応じれば、冗談ですよと冷めた口調で流された。
投げかけておいてひどいと、ソフィアはむすっとしながらレストラードが腰を下ろした席にお茶のカップを置く。資料と黒板がよく見える位置だ。
続けて、黒板の近くに掛けたコンラートにもお茶を運ぶ。
「ありがとう、フィフィ。いい香りだ」
お礼を言って、優雅な所作でカップを口に運ぶコンラートに機嫌を直して、自分のカップを持って彼の側の椅子にソフィアも座る。
「警部も今朝の登庁は億劫でしょう。ヤードの組織力を持ってしての犯罪捜査、弟子の検屍と分析、僕は魔導師らしく事象の考察を。それぞれ持ち寄ってはどうかと考えてね。フィフィ」
レストラードに検体分析について伝えるよう促されてソフィアは頷く。
「はい。まず最初に、魔法薬は検出されませんでした」
「とすると、普通の事件か」
「解剖医の見立て通りにモルヒネが検出されました。おそらくは被害者自身が使用していたものです。解剖初見に堕胎手術の記述があったから痛み止めでしょう。動けたのは強い鎮痛作用のためと考えられます」
「薬の線から犯人は追えなさそうだ……手がかりになるかと思っていたが」
レストラードが額を掻いて、まるで透明人間だとぼやく。
「余程目立たない奴なのか、周囲を聞き込んでもさっぱりだ。遺体を動かすことはもちろん、三人もの女性を無作為に襲うだけでも難しいはずが」
「無作為、でしょうか?」
両手でカップを口元に支えたまま、ソフィアは机の上の資料へと目を落とした。
三人の被害者はすべて女性。髪色は暗い栗色で瞳の色は茶色、多少経済的な差はあるものの中流の層に属する。
共通項を挙げたソフィアに、レストラードは左端の被害者資料を指差した。
「リズ・アッシャーは百貨店の売り子だ。中流とは言えん」
「建築技師の婚約者がいますよね? 退寮予定で、仕事を辞める寸前だった」
「つまり、労働者階級の女性にはない余裕がある。フィフィはそう言いたいのだね」
「はい。階層が近ければ、行動範囲も近いはず」
ソフィアはカップを机に戻して立ち上がり、地図を張った黒板の前へと移動する。
「師匠も場所を気にしていますよね?」
「そうだね。首都中央部。オクサンフォルド通りを南端に、醸造所を角に交差する通りより東側。博物館周辺までが、いま明らかな犯人の行動範囲かな」
「場所といえば……検屍官の推測通り、路地は犯行現場じゃなさそうだ。貧民街との境に内側が血塗れの布と膝掛けを被せた車椅子があった。コルセットも」
レストラードの言葉に、ソフィアは昨日調べた路地と犯人が被害者を運ぶところを想像する。大通りに出る、貧民街に接していて人通りの少ない薄暗い路地。
石畳なら車輪の跡はつかない。
被害者を車椅子に乗せ、傷に布を当てて膝掛けをかけた。腹部の傷は隠れ、流れる血は傷に当てた布と衣服と膝掛けが吸い取る。
車椅子を傾け、被害者を路上に落とすまで汚れない。
モルヒネを常用していた被害者は睡眠薬を使われ、途中で目が覚めてもしばらく意識は朦朧としているはずだ。失血で再び気を失ったかもしれない。その間も傷から血は流れ、捨てられた場所で息絶えてもおかしくなかった。
『オクサンフォルド通りで深緑のドレスを作らせたとか……』
遺体が着ていたのは、深緑のツーピースのデイ・ドレスだった。
オクサンフォルド通りは百貨店も建つ、貴族御用達の高級店が立ち並ぶ通り。
住まいは安アパートでも服装だけなら貴婦人に見える。
具合の悪い貴婦人の車椅子を押す使用人に、誰も注意は向けない。切り裂き魔などと誰も思わない。薄暗い路地に入るまで、堂々と人が行き交う通りにいた?
「見ていても見えていない。注意を払われない人物」
耳を打ったコンラートの声に、はっとソフィアは我に返った。
「犯人、動機、方法は警部の領分だが、透明人間という言葉は含蓄がある。近辺の路地に精通している人物なのは間違いないだろうね」
「精通?」
「師匠、博物館の爆弾騒ぎも関係が?」
レストラードの訝しむ声とソフィアの疑問が重なった。
地図に張られた糸を辿るように、ソフィアは持ち上げた右手の人差し指を動かす。
博物館に「いたずら?」と書いたメモが留められていた。爆弾騒ぎのことだろう。
メモの端に触れ振り返ったソフィアに、コンラートは柔かく目を細める。
「魔導師だからね、やはり事象に目を向けたい」
観察しうる形をとる状況、現象、出来事を見つめて把握し、魔術的な解釈で記述し直すのが魔導師だ。
そのいくつかは社会や人の役に立つものへと発展し、魔術師が実践する。
「爆弾騒ぎはいたずらだった。しかしその時、人の動きはいつもと違っていたはずだ。たとえば動員された巡査のその日の巡回は? 騒ぎを見ようとした群衆に通行が妨げられた場所もあっただろう」
なっ、とレストラードの口から声が漏れた。
ソフィアも目を見開く。言われてみれば、警戒が解かれて通常任務に戻った巡査の巡回途中に遺体は発見されている。
「別人の仕業でも、切り裂き魔の仕業でも、起きることは同じだ。ヤードは動員され、人々は集まり、一時的に警戒が手薄となり人の流れが途絶える場所ができる」
地図の道が赤いインクでなぞってある箇所は、巡査の巡回ルートだった。
「巡査の巡回ルートまでいつの間に調べたんですか?」
「資料に書いてあった。しかし、先ほどのレストラード警部の反応を見るに関連づけてはいなかったようだね」
「貴族か資産家の不良息子の、冗談では済まない悪ふざけの線で追ってましたよ……博物館の通用口に差してあった脅迫状がやたらいい紙だったんでね」
だとすると、エドワードが資料を整理させた“重宝な役人”が付け加えたということになる。ソフィアは眉間に皺を寄せて地図を見た。
あの変な役人が去り際にコンラートに言った、「気持ちが悪い資料」というのも含みがあるように思えてくる。
そういえば、エドワードは「手間もいくぶんか省けているはず」とも言っていた。とはいえ、いまは資料と役人への疑問は後だ。
「師匠と警部の話から考えると、人の目につかない通りや時間帯、反対に人が多すぎて互いを気にしない場所を熟知していないと、遺体が発見される出来事も透明人間も成り立たない」
「その通りだよ、フィフィ」
「つまり犯人は……この近辺に縁のある者か」
レストラードが地図を睨みつける。
捜査は絞られても、犯人一人を見つけ出すには範囲が広すぎる。
「明らかな共通項から検証し直してみてはどうかな。僕もフィフィ同様、被害者が無作為とは思えない」
「しかし、暗い栗色の髪で瞳が茶色の女性なんてごまんといる。似た年恰好や繋がりがあるなら別だが、年齢や境遇、タイプもばらばらだ」
検屍官も狙いかねない節操なしですよ、と冗談混じりに反論したレストラードにソフィアはむっとして言葉を返す。
「どうして、わたし……っ!」
「フードを被れば、暗い栗毛で茶色い目に見えなくもない。選んでいるのだとすれば……金髪や赤毛みたいな目立つのじゃないとか?」
冗談でもなかったらしい。
「最初が十七歳のいい家庭のお嬢さんで、昨日は二十五歳の芸術家のモデルじゃ違いすぎる」
言いながらレストラードがビスケットを取って食べ、そんな彼をまるで見咎めるようにコンラートが眉間に皺を寄せた。
「ん……お好きにどうぞじゃ?」
「失敬、ビスケットじゃなく。“最初”とは? エミリー・ガーランド嬢は二人目でしょう。書類のファイル番号はそうなっている」
「ああ、それは発見順です。同じ路地の手前と奥で、木箱にすっぽり収まってたんで発見がリズ・アッシャーの翌日になった」
どちらの遺体も時間が経ってわかりづらいが、解剖した医師が言うにはエミリーが先らしいと話すレストラードに、ええっ、とソフィアが声を上げる。
「そんなの解剖所見に書いてませんでしたよ!」
「なら後からわかったんでしょう。我々に伝えもし、遺体の状態は記録してある。エミリーは捜索願が先に出ていて、捜査にもさほど影響は……なんです?」
恨めしげな眼差しを向けるソフィアに、指についたビスケットの粉を払って、レストラードが不可解そうにぽかんと間の抜けた表情を見せた。
粉……被害者の爪の間にもあった、小麦粉と油脂の混ざったビスケットのようなお菓子の粉が。ソフィアの脳裏で様々な些細な事象が次々と浮かんでは繋がっていく。
『左手を切り落とし、心臓を抉り取り、と……正気とは思えん』
『お臍の部分が切り取られてる?』
遺体の傷を見た時に、ソフィアは引っかかった。
まるで魚を捌くようだと思った。調理のために内蔵を取るのと同じで、そうする必要があるものを取った――必要、なんのために?
あの時点では知らないことで、わからなかった。その後も。
『気持ちが悪い資料です』
すっきりしない感覚と不可解な気持ち悪さ、ソフィアもいまのいままで引きずっていた。いくつかあった。検屍だけじゃない、その後も。
けれどコンラートとレストラードの言葉ですべてが繋がった。
「フィフィ?」
気遣わしそうに声をかけたコンラートと、訝しむレストラードの顔を順番に見て、ソフィアは静かに告げた。
「……なにに引っかかっていたのか、全部わかりました」