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第39話 影しかない男(20)

【月曜日・正午過ぎ:プレスト州警察庁舎】


 取調室でデイビッドは放心していた。

 記録係兼監視の刑事一人を残して放置され、そんな彼を咎める者は誰もいない。

 むしろ形だけ容疑者として扱われているような気すらする。

 首都警察(ヤード)から派遣された警部レストラードの関心は、デイビッドではなく母リディアにあるのは明らかだった。隣室から、廊下越しにすすり泣く女性の声がかすかに聞こえてくる。リディアはレストラードの取り調べ中だ。

 一体どういうことなのかと思うが、頭が働かない。

 デイビッドの思考は完全に停止していた。

 

「僕は……これからどうなるんでしょう。母は?」


 疑問を口にしてみたが、部屋に残る刑事は答えなかった。

 彼らは事件の捜査が仕事だ。裁くのは判事や裁判官、陪審員達である。

 ふと、今日は月曜日かとデイビッドは思い至った。

 月曜日……先週のその日、主人のリチャードにロビンのことを打ち明けられ、気が重くなる晩餐の席に招かれた。あれからたった一週間。

 どうしてこんなことになっているか、自分はなにか間違いを犯したのだろうか。

 わからない。

 

「なんだって……こんな……」


 昨晩のトマスによる父ロバートの告白といい、きちんと考え出せば気がどうかにかなりそうだった。頭が働かないから正気を保てているとも言えた。

 ずっと父親を憎み恨んできたというのに。

 デイビッドのいまの境遇は、ブランドルの学資支援は、すべて巻き込み事故にあった父に渡るはずの補償だったのだ。

 

「そんなふうに考えられたのなら……どうして……」


 あんな酷い仕打ちができた?

 顔を合わせればデイビットや母への憎しみが抑えきれない父に、どれほど怯えて暮らしたことか。十五の頃に暴力が止んだのは、デイビッドが体格的に抵抗できるくらい成長したから。以降は疎遠でいた。

 ああ、これ以上考えたくない。どうにでもなるがいい。そんな気持ちと父親殺しの容疑がかかっている状況に、恐慌状態に陥りそうになる。

 状況証拠は間違いなくデイビッドを指し、絞首台が目の前に迫っている。


「僕は……なにも、していない……っ!!」


 神に祈るように固く組み合わせた両手を額につけてうなだれ、絞り出すような声でつぶやいたその時だった。


「はい。あなたはなにもしていません」


 きいっと、金属入りの扉が開く音と共に、凛と静かな少女の声が聞こえた。

 ゆっくりとデイビッドは振り返る。

 褐色のローブを羽織った小柄な少女がそこにいた。

 三つ編みに栗色の髪を束ねて垂らし、なにもかもを見通すような榛色(ヘーゼル)の瞳が、輝くような光を奥に宿して真っ直ぐにデイビッドを見ている。


「すべてが繋がりました。もう大丈夫ですよ」


 もう大丈夫――その一言でデイビッドは決壊した。みるみるうちに視界が曇って歪み(はな)をすすり上げながらでしか呼吸ができなくなる。


「えっ、え……どうしよう。折角、警部が色々明るみにしてくれたのに」


 ははっ、と嗚咽まじりにデイビッドは自嘲した。

 年上の男が突然泣き出したのだから、戸惑って当然だ。

 まだ子供の歳にも見える若い少女なのに、彼女の方がずっとしっかりしている。

 捕まって、トマスの告白と謝罪を聞いたあの場にいた時も。


「……すみ、ません……なんだかほっとして、しまぃ……」

「大丈夫です。ね、警部」

「大丈夫じゃないですよ。検屍官のおかげで始末書やらなんやら書類が山と待ってるのは確実だ……これだから政府経費持ちの人らは、ったく」


 愚痴りつつ少女の後ろから出てきた警部レストラードに、どこの世界でも書類仕事は面倒と相場が決まっているのかと、妙に暢気なことをデイビッドは考えた。


「釈放です。クック夫人もひとまず同様に」

「……ひとまず、とは? 母はなにか?」

「あなたの母親――いや、乳母リディア・クックは預かった子供を入れ替えた詐欺や誘拐の疑いがある。逃亡の意思はないので拘束はしませんがね」

「……え?」

「二十年以上も昔で、いくぶんか情状酌量の余地と半ば察しつつ告訴されずにきている可能性も否めない。裁判でどう判断されるかだが、懲役刑は免れんでしょう」


 レストラードの説明が、デイビッドにはすぐに理解ができなかった。

 いま、この刑事はなんと言った?

 乳母リディア・クックは預かった子供を入れ替えた……?


「デイビッド・クックとトマス・ブランドルは、赤子の時に入れ替えられた。貴方がブランドル家の実子です。サー・トマス・ブランドル」


 実際にそうなるには、様々な立証手続きが必要にはなりますが――といったレストラードの言葉は聞こえはするが頭に入ってはこなかった。

 まさかそんなこと、トマスは知らされているのだろうか。

 まさかそんな……まさか、まさか……。


「まさかそんなこと!」

「事実です。リディアさんが認めて打ち明けてくれました。あなたを絞首台に送るわけにはいかないと」

「まさか本当に、僕は……母と、旦那様の……」

「それも違います。あなたがサー・リチャードと思っている人は出奔したデニス・ブランドルです」

「……は? なっ……」

「リディアさんは入れ替わった双子の弟、恋人だったデニスに捨てられ、その償いでロバートさんと結婚させられた。家のために自分自身もリディアさんも捨て、リチャードとなったデニスが許せなかった。でも執着心もあった」


 乳母としてエレノアの子を抱いた時、灰色の瞳に金髪、自分と同じ色だったことにふと魔が差した。自分の子は金髪に父親譲りの緑目。それはエレノアと同じ。


「そして、デニスの血を引くエレノアの子と自分の子を入れ替えたんです。本来自分が育てるのはこの子だとその時強く思ったそうです」


 たしかに母はリチャードになにか並ならぬ憎しみのようなものを抱いていた。だがデイビッドが仕えることは喜んだ。エレノアの乳母になったのは彼女への同情心だと言っていた。金で買われた子爵令嬢への。母のブランドルへの思い入れがよくわからず、だから父が抱いた疑念は本当ではないかとデイビッドは思ったこともある。


「でもロバートさんは純粋にリィディアさんを愛していた。ブランドル家の仲人に感謝し……実はブランドルの双子の尻拭いで番わされたと知ってしまった」


 その頃、巻き込み事故に遭い、運悪く息子の髪色も変化した。

 よくある成長過程の変化だ。しかしロバートは妻もブランドルも信じられなくなった。トマスの話から考えて、息子は裏切られた人生の象徴となり、自己嫌悪と絶望と怒りをぶつける先になった。

 ソフィアが語る話を聞きながら、そんな……と、デイビッドは解いたばかりの両手を震わせた。額を押さえてがくりと首を落とす。


「そんな、そんなことって……!」


 つぶやいた言葉は、デイビッド自身が驚くほど弱々しい掠れた声だった。

 だが、どこかで、薄々……わかっていたような気もする。

 リチャードの仕事に関わり、彼のやり方を理解していくたびに誇らしい気持ちになった。自分の手で人生を切り開いていく手応えのようでなにか違う。

 エレノアに対しても、いつまでも美しい彼女に、かつてのまだ疲弊していない美しく幸福な母リディアの姿を重ねていると思っていた。

 けれどもっと奥深いところで甘い気持ちを誘う思慕であることも、デイビッド自身否定できずに自覚していた。



 ◇◇◇◇◇



【月曜日・夕方:ブランドル家-居間(シッティングルーム)


 ブランドル家の居間(シッティングルーム)は二階。

 美しい庭園を臨む大きな吐き出し窓から、広いバルコニーに出られる部屋だった。

 明るく黄色味を帯びた光に照らされるバルコニーの左右には、庭へ降りられる階段がついている。

 美しく緑が刈り込まれ、咲き誇る花々が花壇にあふれる、窓の外を眺めていたソフィアは振り返って室内を見渡した。

 ブランドル家とクック家の者達、カーライル弁護士や新工場の工場長。

 ノートン氏までもが集まって、各々が居間のソファに腰掛けている。

 頭に包帯を巻き車椅子に乗ったアビゲイルも、ジェシカに連れられてきていた。

 グラットン医師の許可は取れている。


「集めろというので集めたが、一体どういうことだ? レストラード警部」


 詰め寄ったトマスにレストラードは小さく肩をすくめ、ソフィアを手で示す。

 ソフィアの側にはコンラートも立っているから、どちらを指したのかわからないはずだが、トマスは理解したようだった。やはり彼は頭の回転が早い。


「貴様か……」

「ロバート・クックさんの死因がわかりましたので、検屍官として関係者の方々にお伝えするため、警部を通し集めていただきました」


 おお、探偵による皆を集めて事件解決の局面……と、ノートン氏が興奮気味につぶやき、ぎろりっとトマスに睨まれる。


「私の許可なく発言するな。この場の誰もだ。さっさと済ませろ皆忙しい」

「助かります。ですがそのためにはもう一人の方の許可も必要です」

「だそうだ、デイビッド」

「僕は……」

「しっかりしろ、俺は大丈夫だ。もう全部吹っ切れてる」


 二人の青年のやりとりに、リディアを除いた、まだ事情を知らない他の者達は一様に怪訝な顔をしたが、エレノアだけは表情を変えず落ち着いていた。

 彼女もまたなにか感じるものがあったのだろうか。母親として。

 まだトマスでいる彼の言葉に勇気づけられたのか、まだデイビッドである青年もうなずいた。そういえば、この乳兄弟の兄にあたるのはクック家の息子である。

 兄が弟に向ける気遣いをし、表情をしている。


「……わかりました、同じようにお願いします」


 デイビッドの言葉に、真っ先に反応したのはやはりボイル夫人だった。


「どうして使用人の許可が必要なの?」

「遺言をお忘れですか? トマス・ブランドルは家督を、デイビッド・クックは事業管財人権限を付与された。名誉と富は二分され両意思を持ってブランドルです」

「なんてことでしょう! まったく!」


 さすがトマスだ。いや、本当はデイビッドなのだけれど。

 便宜上、すべてを詳らかにするまでは、これまで通りのトマスとデイビッドとして対応し、話そうとソフィアは彼女の胸の内で決める。

 とはいえ青年二人には、すでに“二重の入れ替え”について伝えていた。分かった上で、“なにが起きて、起きようとしていたのか”を知るべきだと考えたからだ。

 薄々、そんな気がしていたとトマスは言葉を漏らした。

 彼は誰よりも繊細で注意深く、賢い人物であるから不思議なことではなかった。


「あの……」


 居間の人々の中から遠慮がちな掠れた声が上がった。

 喉の奥に何か詰まったように、スカーフを巻いた首元に手を当てるロビンだ。

 薄いグレーの半喪のようなドレス姿は、実にわきまえた淑女の姿に見える。


「なんだ? ロビン」


 トマスが彼女の発言を許す。


「その……、ロバート・クックさんの死因をこれだけの人を集めて話す必要があるのでしょうか。ひどい亡くなり方をした人を晒すようなことは感心しません……」

「何故そう言える? デイビッドが容疑者に上がっているいま、これはブランドルも関わる大問題だ」

「で、ですが。もしデイビッドさんが犯人でもその時は、本来通りにトマス様がブランドルの名誉と富を受け継ぐだけではないでしょうか」

「それもそうよね」


 ロビンの抗弁にボイル夫人が口元に象牙の扇を当てて同調する。たしかにそれはそうだ。しかしそれはあくまでデイビッドが犯人の場合である。

 そして、問題はそれだけではない。


「貴女がそう仰るのはとても意外ですね。ミス・ロビン・ブランドル」


 ソフィアの側でコンラートが諭すような口調でロビンに話しかけた。

 彼はもういつも黒衣に白ローブの賢者然とした姿だった。

 これ以上、ブランドルの事件に付き合う気はないのだ。

 

「な、ぜ……ですか?」


 穏やかなコンラートの迫力にロビンはたじろぎ、そんな彼女にあくまで紳士的な捜査協力者の顔で彼は微笑んだ。


「サー・リチャードの慧眼は、ブランドルの名誉と富を引き継ぐに、最も相応しい二人へそれを与えたことです」


 名誉の面は、祖母と母の二代に渡り貴族令嬢の血を引き継ぎ、首都の社交界でうまくやれて最新技術を理解できる頭の良さを持つサー・トマス。

 富の面は、サー・リチャードのやり方を熟知し、サー・トマスの提案を受け入れてまだ試験段階でしかない魔石動力を工場への実装を図る、大胆な推進力と経営的感覚に優れた秘書デイビッド。


「二人が両輪で各々の役目を果たせば、今後のブランドル家のさらなる繁栄は約束されたも同然です。そして貴女にとってもブランドルの利益の最大化は重要だ」

「どうしてなの?」 

「あの、ボイル夫人……」

「勿体つけず仰いなさい。この植民地からきたリチャードの姪がなんだというの?」


 困惑するロビンに、ボイル夫人が知りたくてうずうずした様子でコンラートをけしかける。この人は本当に無邪気で正直な人である。


「ブランドルの資産の大半がつぎ込まれる財団管理者はロビン・ブランドルだからです」

「なんですってっ!? どういうこと! 貴方は!? 知っているのトマス!?」

「ええ、つい先ほど知りました。屋敷に戻り届いていた、カーライル弁護士からの書面でね。ロビンにも同様の知らせが手元に届いているでしょうね」


 彼女はロバートの葬儀に出ていない。縁者でもない。アビゲイルの階段転落とその後の捕物もあって殺人犯かもしれない人自らが行う葬儀だなんてと、推定無罪を説くグラットン医師の言葉にも参列する気になれないと屋敷に残っていた。

 人々にデイビッドへの疑念を煽るだけ煽るように。


「……よかったわ」


 不意に愛らしい可憐な声が居間に響いた。

 車椅子にかけたアビゲイル・ブランドルの声だった。


「やっぱりお父様は、ああ言ってもロビンのことを考えていたのね。だって可哀想だもの。散々苦労して、ご両親を亡くして、いまは住むところも頼る人もないなんて」

「お前は本当にお嬢さん育ちの暢気な妹だが、心根の良さだけは兄として誇れるよアビー……」


 形容し難い切なげな色を緑の瞳に浮かべてトマスが言い、ソフィアはなんとも言えない気持ちになる。

 いつもどこか揶揄する言葉でいたトマスの、兄としてのお別れの言葉だと知ったらこの純真可憐な令嬢はどう思うだろう。


「だが、親父殿が“ああ言っていた”とはどういうことだ?」

「だって本当にかわいそうだったのよ」

「あの、おじ様はご病気の発作で……っ」

「“お前には渡さんぞっ”って、廊下に出たらお父様の声が聞こえて、ハンカチを手にロビンが部屋を飛び出していったの」

「ハンカチ?」


 トマスは、妹の言葉を訝しんだ。ソフィアもだ。

 談話室に人を呼びに来た彼女の手にはそんなものはなかった。咄嗟に慌ててやってきたなら手に持ったままのはずだ。


「ええそうだと思うわ、白かったもの。お昼に目が覚めて思い出したの。きっとお父様にひどいこと言われたのね。興奮した発作みたいで苦しみながらデイビッドを呼んで……怖くなってジェシカと別通路から部屋に戻ったのよ、絶対怒られるもの」


 そうよね、とアビゲイルは隣のソファに座るジェシカに確かめた。


「私は通路の奥にいたから、リチャードおじさまがなにか言ってる声しか聞こえなかったけれど。ご自分で呼んでおいて、晩餐会で錯乱した上に本当ひどいわよ」


 事情をまったく知らない、ただロビンを新しい女友達と思っているような無邪気な言葉がロビンの顔色を悪くさせていることに、二人は気づいているだろうか。


「あたくしは聞いていませんよっ! ロビン、貴女が財団管財人ってなんなの?!」


 清々しいほど遺産にしか興味がないことには、もはや好感すら抱いてしまう。

 ボイル夫人の剣幕に、おろおろとロビンはカーライル弁護士の方向を見た。


「た、たしかに書面は受け取りましたが……なにかの間違いじゃないかと問い合わせようとしていたところで……」


 周囲の視線が一斉に集まったことに、カーライル氏はこほんと小さく咳払いして厳かに断言した。


「間違いではありません。すべて故人の考えと意志によるものです」

「そんな馬鹿なことがありますかっ!」

「――しかしながら、この契約は無効となります。遺言においても然るべき凍結処置と配分の議論が必要になるでしょう」

「え……」


 驚いたのはロビンだけではない、遺言にまでカーライル氏の発言が及んだことで居間全体にどよめきが走った。


「契約者も遺言状も、別人の方の名前で作られたものとあっては」

「どういうことなの?」


 緑の瞳の眼差しを向け、凛とした女主人たる声音でエレノアが、カーライル氏を問いただす。


「捜査の過程で、サー・リチャード・ブランドルと思われていた方は、二十年以上前に出奔したリチャードの実弟、デニス・ブランドルであると判明しました」


 はっと息を呑む声がして、次の瞬間「――ああっ!」と、悲痛な声を上げたエレノアはソファから立ちあがりかけてよろめいた。

 ばさりと黒いドレスの裾を広げ、床に膝をつく。


「……やっぱり、そうだったのね……リチャードッ!!」


 嘆く言葉に、居間中がしんと静まり返った。

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