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第31話 影しかない男(12)

「皆さん、場所を変えて飲み物でも。少し落ち着きましょう」


 エレノアの提案で、場所は晩餐室から談話室へと移った。

 リチャードが寝室へ運ばれ、とても食事を継続するどころではなかったからだ。

 喫煙室も兼ねた紳士向けの撞球室(ビリヤード・ルーム)と、ご夫人がお茶や歓談を楽しむ応接間(ドローイングルーム)へと、左右に分かれて移動できる中間の部屋だった。

 椅子やソファが小さなテーブルと共に点在し、皆、思い思いの場所にいる。


「一体、なんだってんだ親父殿はっ」


 暖炉脇のコンソールテーブルに用意された、リキュールセットのデキャンタからグラスに酒を注ぎ、苛立たしげにつぶやくトマスに応じる者はいない。

 ソフィアはコンラートと応接間に近い壁際のカウチソファに座っていた。談話室全体の様子を見渡せる。

 執事が気を利かせ、デザートに出るはずだった黒スグリのパイをティーワゴンに乗せて談話室の中央に運び入れていたが、手をつける者はいなかった。

 誰もが、一刻も早くこの集まりから離脱したいが、倒れた当主の容態も不明なまま自室に戻ることもできずといった様子でいる。


「ねえ、どういうことなの貴女? お父様に招かれてここにいるのじゃないの?」

「よしなさい、アビゲイル」


 母親と共にソファに座り、お茶を飲んでいたアビゲイルがロビンに切り出す。

 娘の不躾な質問をたしなめたエレノアも、リチャードの態度が気にかかっているのは明白だった。


「でも、ロビンはおじさまが手紙で蒸気客船の切符や旅費を送ってくれたから、ここに来られたのでしょう?」

「ええ……行くのにも帰るのにも大変なお金がかかって、移動日数を考えたらアウストラリスでの仕事も失います。後のことを考えたら母の遺産だけではとても」


 窓辺の肘掛け椅子でコーヒーを飲むジェシカが、一人掛けソファに座るロビンの背もたれ越しに尋ね、その答えに「たしかに」とソフィアは胸の内でつぶやく。

 蒸気客船で一ヶ月以上かかる旅費は、それだけでぶどう農園で働くロビンには何年分もの賃金に匹敵する大金となる。仕事も失うなら実質戻ることはできない。


「アルビオンに残るなら、住居や仕事も探さないといけません」

「なにを言っているの? リチャードおじさまが放り出すわけないじゃない。ここに住むか、首都で暮らすにしても支援するわ」

「そんなっ! 生まれてから一度もお会してもいないのに! それに父は……その、大変な迷惑をおかけしたとか」


 おずおずとロビンが言えば、しんとサロンが静まり返る。

 

「デニス叔父なら表向き、家出して行方不明にされてる。醜聞には違いないが、女連れで出奔よりマシだ。この土地では公然の秘密だが……」

「支援を受ける気もなく、貴女一体なんのためにこの屋敷に来たの?」


 パチンと手にした象牙の扇を閉じ、ジェシカと向かい合う椅子に掛けていたボイル夫人が疑問を口にする。ロビンに尋ねたというよりは、純粋な疑問を口にした調子であった。このご夫人は、どうも考えがそのまま口に出る人のようである。

 

「伯父やそのご家族がどんな方かと、娘として父と母のことを謝ろうと……」

「とんだお人よしだこと! 本当であればですけど」

「本当ですっ! 嘘じゃありません!」


 疑惑と好奇の目を向けられるのも限界だったのだろう。

 ロビンがやや掠れた声で叫ぶように言って、ボイル夫人は簡単に怯んだ。

 ぼそぼそと「別に、嘘だとまで言ってませんよ」とつぶやき、ジェシカはそんな母親に頭痛がすると言わんばかりに額を押さえている。


「ロビンさん、喉を痛めているんですか?」


 ソフィアが気遣えば、ええと彼女はレースを巻いた首へと手をやった。

 喉が弱いのは本当のようだ。思い返せば彼女は少し声が出しづらそうに抑揚少な目に話す。声も女性としては低めだ。


「子供の頃から、乾燥した農場で声を出して遊んで働いていたせいね。あまり綺麗な声ではないでしょう? 恥ずかしさもあって」

「別に恥じることはないだろ。愚かな親のせいで、ここにいる誰も想像すらできない生活を強いられていた。親父殿はその補償も考えて呼んだのだろうさ」


 酒のグラスを呷って、コンソールテーブルに背を預け、トマスが腕を組みながら部屋にいる人々を見回す。

 トマスの庇うような発言に、アビゲイルが急にはしゃぐように手を合わせた。 


「あら、お優しいのね。お兄様ったら」

「どこまで馬鹿で慎みのない妹なんだ? デニス叔父が植民地で結婚し、子供がいると知って親父殿が調べないはずないだろ。偉大なる領主様が」


 あからさまに妹を見下してトマスは前髪を掻き上げた。その白手袋の手と妹の結い上げられた髪を見て、ため息をつく。


「髪も目もお前とそっくり同じ色だ。光加減で金髪に見える薄茶色に青灰の瞳」

「たしかにそうね。お父様、倒れた後は時々おかしくなるからきっと混乱したのよ。でもディ……いえいいわ」

「おい、なにを言いかけた?」


 邪気のない様子で一人納得した様子を見せたアビゲイルがなにか言いかけ、トマスが睨んで口をつぐむ。間にいたエレノアが慌てて、アビゲイルの肩を揺すった。


「もう遅いから、貴女は部屋に戻りなさい」

「いやよ、お父様が気になるわ」

「トマスも、妹に絡むのはいい加減になさい」


 エレノアが軽く叱れば、トマスは歪んだ笑みを見せた。


「ああ……ええそうですね。貴女も奴がお気に入りだ。カーライル弁護士! 貴方はご存知でしょう。今日の馬鹿げた晩餐会の理由を」


 トマスの呼びかけに、部屋の隅のソファに置物みたいに静かに座っていたブランドル家の顧問弁護士が銀の眼鏡の縁を触る。


「理由とは?」

「親父殿がブランドルの屋敷の親族全員を集め、デイビッドまでディナーの席につかせた理由に決まってる。倒れた依頼人の意思を確認したい」

「そうね、あたくしも気になるわ」

「お母様っ」

「ジェシカ、お前も気になるだろ。居候の娘にどれほどのものが転がり込むか」


 思ったことが口に出るボイル夫人がトマスを援護し、制止したジェシカの態度がさらにトマスから言葉を引き出した。

 ソフィアはコンラートのローブの袖を引っ張る。

 どう考えても、トマスの言葉はブランドル家の遺産相続に関することだ。

 彼は父親が秘書のデイビッドに、なにか譲り渡すと考えている。


「……僕たちは部屋に戻ろうか」

「はい、師匠」


 他人の家の込み入った事情を、事件の捜査でもなく直に聞くのは躊躇われる。

 コンラートがソフィアを促す形で退室を切り出してくれた。


「お待ちください。お二人は立ち会いを。どうせ後でヤードの警部があれこれ聞きに来るでしょう? だったらこの場にいた方が合理的だ」

「トマス、いい加減になさいっ! お父様が倒れたのに止めて頂戴っ!」


 エレノアがヒステリックに声を張り上げた。

 優雅で淑やかな女主人に徹していた彼女は、その威厳を脱ぎ捨てたように立ち上がり、ソフィア達を引き留めたトマスに金切り声を上げたのだ。

 同じ緑色の目で睨み合う、母とその息子の間になにがあるのだろうとソフィアは思った。エレノアは本当に、リチャードが倒れて遺産の話を切り出したトマスの不謹慎さを咎めているのだろうか。


「……私、先に部屋に戻るわ。なんだか疲れちゃった」


 母親と兄の険悪さから逃げるように、アビゲイルが談話室を出ていく。羨ましい。彼女のように客室に戻れたらどんなにいいだろう。

 ソフィアは、先に立ち上がったコンラートのエスコートの手を取って、カウチソファから降りる。客の礼儀として、女主人か主人代理の令息、どちらかに挨拶もなく出ていくなんて夕食もご馳走にもなっていてできない。

 

「はっきり言えよ、親父殿も、母親の貴女も、ブランドルの誰もがデイビッドが本当の息子だったらよかったのにと、思ってるのはわかってる!」

「トマス!」

「母親似のこちらと違って、容姿までブランドルに似てやがる……」


 ははっ、とトマスが力無く自嘲する声に、談話室が重い沈黙に包まれた。

 そのまましばらく時間が流れ、トマスも、エレノアも、冷静さを取り戻し沈黙の質が変化する。気まずそうに視線をさまよわせて、エレノアがソファに腰を下ろす。


「――なににせよ」


 厳かな口調で、弁護士のカーライル氏が切り出した。


「依頼人の許可も指示もなくその内容の開示はできません。いくらご令息の貴方でも。もちろん、ブランドル夫人や他のご親族の方々も」


 エレノアのため息の声と、アビゲイルが掛けていた場所にどさりとトマスが腰を下ろす音がしたのは、ほぼ同時だった。 


「……取り乱しました」


 ぼそりと詫びるように言ったトマスに、彼の母親は応えなかった。

 目に余った言動を許さない様子でもない。

 ソフィアの目には、エレノアが息子のトマスを持て余しているように見えた。


「二人も、悪ふざけが過ぎた……親父殿のことは気にせず休んでくれ」


 驚いたことに、ソフィア達にもトマスは詫びた。

 物言いはともかく、客間に戻りたいこちらの意も汲んでくれた。

 

「ええ、それでは。サー・リチャードにお大事になさってくださいと」

「ああ、伝えておく」


 コンラートが室内の人々に退室の挨拶をする。

 ようやく解放されたと、ソフィアがほっとしたのも束の間、倒れたリチャードを介抱したグラットン医師とデイビッドが早足に談話室にやってきた。


「おや、もう休むのかい?」

「はい。サー・リチャードは?」

「ひとまずは落ち着いたよ」


 グラットン医師の言葉にサロンの人々がほっと安堵する。

 ちらりとトマスへ目をやれば、張り詰めていた気が緩んだような表情をしていた。父親に反発していたが憎んではいないのだ。

 よかったと、ソフィアは再び正面を向きデイビッドと目が合った。

 トマスが、ああ言いたくなるのもわかる。

 瞳の色は青灰色ではないが、印象の似た灰色。

 髪は、晩餐の場に現れたリチャードとほぼ同じ薄茶色の髪だ。


「ゆっくりお休みください、ミス・レイアリング」

「はい」


 ブランドル家の人々を意識してか、一度崩したソフィアへの呼び方を戻してデイビッドは微笑んだ。少し距離を感じる態度にソフィアは瞬きする。

 彼は「失礼いたします」とまるで執事のような身のこなしで、コンラートにエスコートされるソフィアのそばをすり抜けてロビンへと歩いていく。


「ロビンお嬢様、旦那様がお呼びです」

「え……?」

「申し訳ないね、なにか思い違ったようだ。首都に事務所を持ったり、大工場を建てたりとした反動か、ここ半年くらいで急に弱って、大きな発作の後はしばらく気が塞いだり少々混乱が起きがちなんだ」


 グラットン医師がロビンに説明し、窓辺の椅子で聞き耳を立てていたボイル夫人が「人騒がせだこと」と拍子抜けした調子でつぶやいた。


「君と話がしたいと、謝りたいのだろう」

「ご病気ですから気にしません。誤解が解けてよかったです」

「本人にも注意したけれど、疲弊しているから五分だけだよ」

「ご案内いたします」


 黒のテールコートを着ているからか、本当に執事のようなデイビッドに案内されて、ロビンが談話室を出ていく。


「あたくしも休もうかしら」

「そうね、アビーじゃないけど今日は疲れたわ」

「エレノア、貴女も少し休みなさいな。人前で親子喧嘩なんてらしくもない……」

「ええ、そうね。トマス、後のことはジョージに任せるといいわ」


 ボイル母娘も立ち上がった。ボイル夫人がエレノアを気遣い、一緒に談話室を出て行く。迎合するようにカーライル氏も退室した。

 なんとなく去っていく人々と挨拶を交わし見送っているうちに、ソフィア達は居残ってしまった。


「こうなると少し残りたいかな。フィフィ、いいかい?」


 エスコートの手を軽く持ち上げ、尋ねたコンラートにソフィアは頷いた。

 いまサロンに残っているのは、トマスとグラットン医師だけだ。

 使用人ははなから、執事の出入りだけを許して払っている。


「わたしもグラットン先生と少しお話ししたいです」


 コンラートがソフィアの手を離し、たっぷりした黒いローブの袖から書類封筒を取り出す。呆れたことに典礼用ローブに工場機械の設計書をしのばせていたのだ。

 

「師匠……」

「フィフィだって人のことは言えない。ディナーの時、グラットン医師にそわそわした目を向けていた。解剖結果が気になっていたんだろう?」

「はい。話が済んだら先に戻りますね」

「……手短に済ませるつもりだよ」


 コンラートはトマスに話しかけ、二人して撞球室へ行ってしまう。設計書を台の上に広げて話すためだろう。ソフィアもグラットン医師に声をかけた。

 

「先生、検体と一緒にもらった遺体検案書に背筋の強張りって……」

「ん、ああ……仕事熱心だねぇ、君も。おそらくだけど……」

 

 ソファに腰を下ろしてソフィアを見上げたグラットン医師の視線が、不意に談話室の外の廊下へとずらされる。ソフィアも廊下が騒がしいことに気がついた。

 なにか訴えながら、慌ただしくこちらに向かってくる足音がする。


「誰かっ、叔父さまがっ! グラットン先生――ッ!」

  

 息を切らし、駆け込んできたロビンにグラットン医師もソフィアも、撞球室にいるコンラートとトマスも即座に反応した。リチャードになにかあったのだ。


「ロビンさん、どうしたんですか!?」

「き、急にひどく苦しみ出して……っ!」

「なんだって!?」


 駆け出したグラットン医師を先頭に、全員でリチャードの寝室へと急ぐ。

 廊下に使用人の姿はなくがらんとしていた。遅い時間で大半仕事を終え、夜番の者も控えの間で待機しているのだろう。


「人を呼ぼうにもっ……誰もいなくて……っ」

「どうして、デイビッドやジョージまでいないんだ!?」

「大事な話だからとっ……おじさまが……人払いを……」 


 廊下を駆けながらの会話に息を切らして、ロビンがグラットン医師に答える。

 その大事な話をロビンにしようとした矢先、苦しみ出したらしい。

 

「五分と言われていたのに、なかなかお話ししようとなさらなくて……」

「次、大きな発作がきたら危ないと注意したばかりなのにっ」


 リチャードの寝室だろう、中途半端に開いた扉から恐ろしい呻き声がした。

 皆で飛び込むように寝室に入れば、枕から頭がずり落ち、リチャードが目を剥いていた。


「リチャード義兄(にい)さん!」

「叔父さまっ! え……」

「……っ、お前!」


 ベッドの側に、黒いテールコートの青年が立ちすくんでいた。

 怒号にも似たトマスの声に、青年がゆっくりとソフィア達を振り返る。


「デイビッド!?」

「旦那様が呼ぶ声が……苦しんで……お薬を……、そしたらっ!」

「なんてことだっ!」


 グラットン医師がデイビッドを押し除け、リチャードに触れる。

 脈を計り、眼球を確認して、そっと苦悶に開いた瞼を下ろして首を横に振った。

 ロビンが息を引き込み、床に崩れ落ちる。


「亡くなってる」


 言葉もなく呆然とするトマスと、主人を凝視し立ち尽くすデイビッド。 

 青年二人の後ろで、ソフィアはコンラートの袖をぎゅっときつく握った。

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