第24話 影しかない男(5)
【木曜日・午後:ブランドル家-新工場】
そろそろブランドル家の客人が到着する時間だと、デイビッドは新工場の事務室でデスクの上の時計へ目をやった。時間を気にしながら、彼は目の前の工場長相手に昨日も話したことを繰り返す。内心うんざりしていた。
「――とにかく。想定外の箇所に過剰な負荷がかかっているのですから、魔石動力炉は停止するほかない」
「そのせいで生産に支障が出てる! だからあんなものワタシは反対だった! お坊ちゃんの思いつきでいい迷惑だ。アンタもトマス様を止めようともせずっ」
皺の目立つシャツが、ここ二日家に帰っていない工場長の奮闘を物語っている。
新工場の立ち上がりをデイビッドは任されているが、軌道に乗れば新工場の責任者は工場長だ。苛々と組んだ腕の左肘を指でノックする彼を取りなすようにデイビッドは言った。
「いまそのことで我々が揉めても仕方ないでしょう。万一事故が起きれば致命的だ。それにトマス様に経営とは別の才能があると分かれば、旦那様も少しは……」
「ハッ、我々ね。ブランドルのご家族の関係まで考えて。ろくでなしのロバートの息子が偉くなったものだ」
「どの口が、と仰りたいのは承知してます。ええ、父が侵入し、あんなことをしでかさなければ……っ」
さすがに感情を抑えきれず、デイビッドは机の上で合わせた両手を握りしめずにはいられなかった。
小刻みに震えるデイビッドの手と憤りに気がついたのだろう。
工場長が急に大人しくなる。
「すまん……ろくでなしなんて言っちまったが、前はそんなじゃ」
その顔にはデイビッドに言い過ぎた後悔と哀れみが浮かんでいた。
デイビッドの父ロバートと同期の工員だった男は、家庭事情も知っている。
「いいですよ。私にとって、誰よりろくでもない最低の落伍者なのは間違いない」
「デイビッド! 奴も辛かったんだ。巻き込み事故で左足を潰され、左手にも麻痺が残る前は一流の機械工で……」
最低の父親に対する大人達の同情の言葉なら、幾度となく聞いた。
誰もが、デイビッド達を哀れむ一方で蔑み、優越感を得る傍観者だったくせに。
「知ってますよ! だからなんです!? 毎日飲んだくれ、妻と息子に暴力を振るい、仕事もせず、落ちるところまで落ちた挙句! 当てつけのような死に方してっ、仕方ないとでも!?」
「そうじゃない、奴は悔やんでた。そりゃお前や、お前の母親への仕打ちを考えたら恨むなとは言えんが……」
「冗談じゃないっ!」
バンッと、デスクを叩いて激昂したデイビットに工場長はたじろいだ。
普段の彼にはない態度だったからだろう。
底辺の人間が、当主秘書といった信用ある中流階級の事務労働者まで這い上がるには、知識や立ち回り以上に、礼儀が重要だから。
「死ぬなら、人様に迷惑かけないように死ねばいい!」
火曜日の夜、彼の父親は、入り込んだ工場の監督室で焼身自殺した。
町の巡査の手に余り、翌日、水曜の午前中に州警察から来た刑事は「捜査の結論が出るまで工場を閉鎖しろ」と横暴極まりないことを言い出し、当主リチャードと揉めた。
それだけで済めばよかったが、怒りと興奮で発作を起こしたリチャードが卒倒し、いまも絶対安静だ。
「デイビッド! お前の父親なんだぞ!」
「落伍者の血を引いてるのを心底恐れてますよ。魔石動力炉は停止。稼働できる製造ラインでどこまで善処できるかに貴方は注力してください、工場長」
自分でもぞっとする低く冷ややかな声が出た。そんなデイビッドに気圧されたように、工場長はそれ以上の議論は避けて、彼の指示を受け入れた。
「目の前で父親が燃えるのを見て、仕事しているアンタが信じられんよ……本当に旦那様そっくりだ」
工場長の去り際の言葉を耳に、一人になった室内でデイビッドは疲れ果てた長いため息をついた。左腕を枕にデスクに突っ伏し、右手で後頭部の髪を掴んで呻く。
「一体、どうなっているんだ……っ」
仕える主人、当主のリチャード・ブランドルから、気鬱でしかない週末の晩餐に招待されたのは月曜日の朝。
以降、デイビッドは毎日、悪夢のような出来事に見舞われている。
「……神に祈る前に行動を。救ってくれたブランドルのために出来ることを」
自身に言い聞かせるように唱え、デイビッドは頭を上げて立ち上がる。
工場の事務棟を出て、徒歩で十五分もかからないブランドルの屋敷へ向かった。その途中で足を止め、デイビッドは上を見上げる。二階の窓。工場の監督室。
いま立っている場所からデイビッドは、窓の向こうで父親が火に包まれて苦悶する姿を見たのだ。
日暮れた後で、帰途についた工場長や工員と一緒だった。
慌てて駆けつければ父親の姿は跡形もなく、床に人型の黒い跡が残っていた。人間の体がたかだか数分で消失するわけがない。そんな灰でもなさそうだった。
わからないことばかりだ。
悪夢なら一刻も早く覚めほしい。
「どうして……俺がトマス様みたいに、機械に興味ある息子だったら違っていたのか?」
すべてが憎悪の記憶であればいいのに。計算を教わり、巨大な工場機械を誇らしげに見せられ、痣や傷のない美しい顔で笑う母といた、幸せな家族の記憶もある。
焼身自殺と皆が言い、デイビッドもそう思うものの、父親の姿が消えているので実際は生死不明だ。死んでいたとしても、自殺か他殺かもわからない。
母親譲りの灰色の目を伏せて、デイビッドは頭を切り替えると再び歩き出す。
今日は客がくる。デイビッドが生まれる前に失踪したリチャードの弟、デニスの遺児。新たなブランドル家の一員。
「ほぼ同時にヤードの刑事も来るとは、大事にならないといいが……」
州警察と揉めてリチャードが倒れた後、デイビッドは強く抗議し、現場検証を終えた彼らを直ちに撤退させた。同時に顧問弁護士に連絡して、責任を求める書面を当日中に州警察へ届けるよう依頼した。
ブランドル家は貴族でなくても、この地域の繁栄をもたらした名家だ。
州警察は慌てて、「首都警察に協力要請し、速やかな解決を図る」と返答してきたが、謝罪はなしなところがいかにも正義の執行者らしい。
「魔石動力炉の問題も……」
元々工場機械との連結部の調子が悪かった。
だましだまし動かしていたものの、連結部の負荷が見過ごせず完全停止せざるを得なくなった。月曜に首都の業者へ連絡は入れたが、木曜になっても音沙汰がない。
「旦那様になんて言えば」
せめて、なにか一つでいいから解決の目処をつけたい。
ブランドルの屋敷に裏口から入り、廊下を歩きながらデイビッドは途方に暮れる。父親の行動やその行方も、事件への対応も、魔石動力炉も、なにもかもどうしたらいいか皆目見当もつかない。
「あら、デイビッド。来ていたの?」
ふと、頭上に降ってきた芯のある柔らかな声にデイビッドは、上を見上げた。
階段で繋がっている二階の廊下から、金髪を結い上げた貴婦人が緑色の瞳で彼を見下ろしている。
「奥様! 申し訳ありません、私のような者が廊下をうろうろと」
エレノア・ブランドル。子爵家から嫁いだリチャードの妻。
階下から、デイビッドは恭しくこの屋敷の女主人へ失礼を詫びる。
「なにを言うの。あなたよりこの家の誰からも頼りにされる人が他にいて? ジョージを見なかった? 迎えはどうなったのかしら、列車が途中で止まるだなんて」
ジョージはこの屋敷の執事で、迎えとはブランドル家の客人を駅まで迎えにいく手筈のことだ。午過ぎに一度、この家の新たな一員になる人物を迎えに行けば列車が遅れていた。
「まさか首都警察から刑事が来てくれるだなんて」
「州警察も反省したのでしょう。馬車ならとうに駅に向かっています。二時間ほどの遅れで、おかげでほぼ同時刻くらいに着くようです。ロビン様のお部屋もご心配なく。もちろんヤードの方の客室も」
デイビッドは普段、彼の主人に答えるように、エレノアの心配すべてに満足いく返答をした。
「デイビッド、本当にあなたはブランドルのなにもかもを知っているのね」
「まさか。ティースプーンの置き場所ひとつも知りません」
「それはわたくしが知っているわ」
軽やかな絹楊柳に東洋紋様を描き、複雑なドレープが身体に沿った淡いベージュのデイドレスの裾を引いて階段を降りながら、エレノアはくすりと微笑んだ。
デイビッドにとってエレノアは、どこか夢見心地な気持ちにさせられる人であった。四十半ばを過ぎた彼の母親と変わらない歳だが、いつまでも優雅で美しい。
彼が雑用仕事に屋敷に出入りしていた子供の頃から、ずっと変わらない。
「丁度、弟と休憩しようと思っていたの。愚痴は聞かされるでしょうけど、貴方も一緒にいらっしゃい。二人共、せめてあの人が眠っている時くらい休んで頂戴」
本来なら辞すものだが、先回りして気遣われると断りづらい。
エレノアの弟は、トリスタン・グラットンという名のリチャードの主治医だ。
子爵家の三男。これと引き継ぐ財産もない彼は、身を立てるため内科医となった。
親族で貴族出の医師と、元工員とエレノアに仕えた乳母の子の秘書では、同じ平民でもまるで違う。これはブランドルの女主人の、直に夫に仕える者への労いだ。
「本当はあんなことがあって、きちんと休ませてあげたいのに……事業のことは貴方が一番よくわかっているから。せめてトマスが貴方くらいしっかりしていたら……」
やはり止そうと、デイビッドは首をそっと横に振った。
「トマス様は素晴らしい才能をお持ちです。今後必要とされる方です。お気遣いいたみいりますが……もう間もなく到着する刑事を工場へ案内しなくては」
「あら。だったらわたくしも、あまりのんびりとはしていられないわね」
「奥様は、ロビン様が一段落ついた後でも遅くはありませんよ」
「――デイビッド!」
後ろから、呼ぶ声にデイビッドは振り返った。
珍しく慌てた、この屋敷の老執事の声だった。
「ジョージ、探していたのよ。騒がしくしてどうしたの?」
長年仕える彼らしくなく、息を切らし早足できた老執事の様子に驚き、エレノアが問いかけると、その時初めて女主人に気がついた様子でジョージは姿勢を正した。
「お、奥様……! ロビン様がお着きになられたのですが、その……お連れの方が」
「どなたか連れてきたの?」
「それが何故そのような御方がといった……ヤードの刑事もあまりに有名で。旦那様に申し上げるべきと思い」
それで声をかけたのかと、デイビッドは納得した。
工場や事業の場では大半の者からやっかまれているが、ブランドルの屋敷の中は別だった。彼ほど、気難しい旦那様を上手く扱える者はいないからだ。
特に古参の使用人達。デイビッドを子供の頃から知り、いまの彼を誇らしく思ってくれている。
「あの人はいま眠っているの。誰?」
エレノアに答える執事の言葉を聞いて、デイビッドは驚きに目を見開いた。
暗闇の中に一筋の光が差した気がした。
「本当ですか!? ジョージおじさん!」
「あ、ああ間違いない。新聞で何度か見た方々だ……」
途方に暮れていた状況を一挙解決してくれそうな、デイビッドにとって僥倖と言える知らせだった。
「怪事件を次々解決するレストラード警部でも驚きなのに! 大魔導師シュタウヘン卿だって!?」
「シュタウヘン卿って……エドワード殿下と懇意なことで有名な、元ルドルフシュタット旧貴族の?」
デイビッドとエレノアとで受け止め方は異なるものの、首都の大物には違いなかった。魔石動力炉の開発者の一人である。
休暇で湖水地方へ旅行中だった大魔導師は、列車内で偶然ロビンと知り合った。
なにに興味を覚えたのかブランドルコートに途中下車し、要請で来たレストラード警部と駅で鉢合わせ、捜査協力を求められ、共にブランドル家を訪れたらしい。
彼が魔導師の見地から事件解決に協力していることは、しばしば新聞に書かれていることである。
「こんな幸運、あるものなのか」
それからデイビッドの行動は早かった。
リチャードには上手く報告すると話し、エレノアとジョージから一切を任せると了承を得た。
裁量を得て、デイビッドは大急ぎで屋敷の正面玄関へと向かう。
「旦那様も、これでいくらか気が休まるはずだ」
その時は、彼も、誰も、まだ気づいてはいなかった。
ブランドル家に忍び込んでいた、不吉な影の気配に――。




