第16話 あなたの部屋はどんな部屋(8)
――キャスリン・グレイが亡くなった。
青年の言葉に、大階段を上りながら昨日眠ってしまったことをソフィアは後悔した。眠る直前に思ったことを、もっと真剣に考えていたら。
「何故、貴様が落ち込む」
「……もっと考えていたら、防げたかもって」
「はっ、子リスがなにか気づいたところでどうこうできることか。死人が増えなかっただけましだな」
これは、慰めてくれているのだろうかと、ソフィアは上目に青年の顔を見た。
澄んだ青い瞳の精悍な顔は、仏頂面ではあったがやはり迷いがない。気休めの言葉ではないとわかる。
「また子リスって言った……」
「悪人の手に捕まれば、簡単にきゅっと潰せる……非力な子リスだろう」
たしかに彼の言う通りだ。抵抗してもきっと一捻りでソフィアは負ける。
同じ年頃の人と比べて、小柄で痩せてて、力も弱いし、魔術で相手を怯ませようにも発動には時間を要する。
ソフィアは大きく息を吸って吐くと、ぺちんと両頬を自分の手で軽く叩いた。
後悔しようと時間は戻らない。起きたことも消えない。
「昨夜、騒ぎがあったらしいな」
「はい。夫人の部屋の隣がキャスリンさんの部屋で、悲鳴と大変な物音にわたしが廊下に出ると彼女が飛び出して来ました。室内に蜂がいたと怯えて」
「蜂? 冬の海上だぞ」
「同じことを後から来たメイさんも言いました。でも羽音がしたと。キャスリンさんの遺体の様子は、レジナルドさんと似たものですよね?」
「何故わかる」
青年の問いに、ソフィアは答えなかった。
「おいっ」
「朝になって一つの仮説が浮かびましたが、まだちょっと信じられないんです」
現場はソフィアの予想通りメイ・アシュトンの部屋だった。
廊下で警備員に立ち入りを禁じられ、メイが泣きながらなにか訴えている。
彼女の青灰色のドレスの胸元で、サファイアのピンがさりげなく光るのを見て、ソフィアは俯き加減に黙考する。
ルビー、ダイヤモンド、サファイア……宝石の異なる同じデザインのピン。
ソフィアの耳に、切々と話すメイの声が聞こえる。
「――部屋を変わったんですっ。キャシーが怯え切っていて……それがこんな……きっと狙われたのは私ですっ、あのチャールズ・ゴッドフリーに……だって……」
「アラン・ギルバートの遺稿はあなたが持っていた」
「え?」
涙が引いた驚き顔でメイがソフィアを見た。
かつては彼女も舞台に立っていただけあって、あらためて見ると綺麗な人だ。
黒い眼差しが吸い込まれそうで、黒髪と共に不思議な魅力がある。全然地味じゃない。そう、メイもキャスリンと同じ女優だ。
眠り落ちる前にソフィアは思ったのだ、まるで一幕の舞台を見たようだと。
「あなた……昨日の、どうして……」
「アランさんの友人だったと耳にして、そんな気がしただけです」
ソフィアはメイの部屋へと入った。
赤毛の青年がドアを閉めながら、どういうことだと尋ねてきた。
「書き上げた原稿に意見をもらうなら、かつて舞台に立っていた彼女かなと」
意見を求める相手として、キャスリンは性格的に向かない。レジナルドは恋敵。子爵は異母弟の才能に心酔し、ゴッドフリーは利権しか考えていない。
画商のダッドリーも熱狂的ファンだ。どの人も偏った見方で意見するだろう。
「なるほど、だが彼女はどうして黙っていた?」
「聞かれなかったからでは? 地味な付き人が持っていると誰も考えなかった。まだ推敲中の作品が世に出ては故人の意思に反すると、落ち着いてから子爵に渡すつもりでいたのだと思います」
それがよくなかったのだ、きっと。
ベッドにうつ伏せに絶命している、キャスリン・グレイを見てソフィアは思った。
「ずいぶん苦しんだようで、マットレスまでずれている……って、おいっ、右手の指先に針の跡があるのも想定通りか? 貴様が犯人かと疑いたくなるぞ」
迷いなくキャスリンの右腕を取ったソフィアを見て、赤毛の青年が呆れたのに「違いますよ」と彼女は答える。状況がそれを示しているだけだ。
白い腕に赤く掻いた跡がある。レジナルドも倒れる前に腕や脚を掻いていた。
「子爵様の部屋は、彼と使用人だけですか?」
「急変やまた狙われる可能性も考え、念の為、人はつけてある」
「ならいいです。いくつか協力してほしいことがあります」
関係者の部屋とレジナルドの遺体の確認。そして船の故障について詳しく知りたいと言ったソフィアに、赤毛の青年の表情がわずかに険しくなった。
「何故、船の故障まで知りたがる?」
「最も重大なことだからです。それから子爵様と同じように、関係者全員に人をつけて一か所に集めてください。これ以上の被害を防ぐために――」
◇◇◇◇◇
「フィフィ、外が気になるかい?」
話すのを止め、列車の窓へ目を向けたソフィアにコンラートが尋ねた。
青空の下で草を喰む羊の群れを見ていたのにと、彼女は頷く。
停車駅を出たら、急に空はどんより曇り空となり、濛々と漂う白い靄は、蒸気ではなく霧だと気がついた。
「こんなにお天気が変わるって思いませんでした」
「まだ変わると思うよ。ところで、話の途中だけれど三つかな?」
ソフィアは瞬きした。その通りだ。
窓からコンラートへと視線を移し、ソフィアは再び頷く。
「僕が知る中で一番大きな事件だ。無事でよかった、本当に」
柔らかく笑んだコンラートに、少しだけ心が軽くなりソフィアも薄く笑った。
「でもあの人はなにをやっているのだろうね、本当に」
「熱心といえば熱心ですけど……少し残念でした」
「現場向けの人ではないからね。その自覚もあるのに困ったものだ」
コンラートが肩をすくめる。
ガタンゴトンと列車が走る音にポォォーと汽笛の鳴り響く音が被さり、窓の外が霧と蒸気の煙で真っ白になった。
「話終えたら、食堂車へ昼食を食べにいこうか」
コンラートの提案に、「はい」とソフィアは返事をした。
◇◇◇◇◇
船長室では、お茶とビスケットが出た。
ソフィアに気を遣ってだとしたら、ほとほと疲れた顔した船長は優しい人だなと彼女は思う。
表情から、これ以上何事もなく航海を終えたい思いがひしひしと伝わってくる。ソフィアも同感だ。
「このお嬢さんに、故障について詳しく教えるようにと……閣下?」
疲労とソフィアの要望への戸惑いで、船長が口を滑らせた。
「閣下?」
ソフィアが繰り返すと、船長はよくない顔色をさらに悪くして赤毛の青年を見た。
青年が何者か不明なままだが、船上の最高権威を司る船長がそんな呼び方と反応を見せるあたり、身分が高いだけではないのかもしれない。
閣下なんて敬称、公爵や大臣など重鎮の立場の人に対するものだ。
「まあいい。その通りだ」
船長の問いかけとソフィアの言葉、どちらに対する「その通り」か判然としない。両方まとめての青年の言葉かもしれない。
「子リスは余計なことは考えず、事件解決に専念しろ」
「……子リス」
今度は船長が困惑気味に繰り返す。ソフィアは彼女に共感してくれそうな人を、ようやく見つけた気がした。グラハム夫妻は微笑ましげな反応しか見せない。
「ソフィア・レイアリングです! 故障についてできるだけ正確に知りたいです」
「し、しかし、ボイラー室は危険で作業員が殺気立ってもいて、入れるわけには」
「状況を詳しく教えてくださるだけで構いません」
「そういったことでしたら……承知しました」
ボイラーを見たいわけではなく、正確な情報を欲しているソフィアの考えを理解し、了承した船長に彼女は質問する。
「ボイラーの蒸気漏れと、金具に腐食があったとグラハム様から聞きました」
「ええ、そうです」
「その正確な順番を教えてもらえませんか?」
「正確な、順番?」
「先に蒸気漏れが起きていたのではないでしょうか? いつから起きていたのかは不明かもしれませんが、気がついた時点で手当は難しく緊急停止した。金具の腐食は点検していて見つかった。おそらく蒸気漏れとは別の箇所に」
ソフィアの言葉に徐々に目を見開いて、船長は大きく頷いた。
「その通りです!」
「蒸気漏れを起こしたボイラーは――ですよね?」
ソフィアが推測した場所を言えば、呆然と船長は彼女の顔を見る。
「どうしてそれを……グラハム卿にもそこまで詳しくは」
「わたしが船に乗ってから遭遇した出来事と時間が、それを示しています」
やっぱりそうだ――たまたまあの部屋で、あのトランクで、スカーフだった。
ソフィアはお茶を飲み、せっかくなのでビスケットも一枚食べた。
「ありがとうございます。すっきりしました。もう船は動くでしょうか」
「昼頃にはなんとか……船内の出来事への対応もしなければ……」
「でしたらお昼過ぎにサロンへいらしてください」
「あそこはいま閉鎖してます」
「十三時に全員集まるよう手配しているところだ。子リスの指示でな」
船長室の次は、臨時の遺体安置所となっている空部屋だった。
船医には、赤毛の青年を通して先に連絡してある。
ソフィア達より早く遺体を再確認に来ていた船医は、青年を見るなり「伝言通りでした!」と称賛の声を上げた。
「その称賛は、子リスのものだ」
「子リスって呼ぶの止めてください」
「そんなことより! どうしてわかったんです? 右ふくらはぎに傷があると!」
そんなことって言った……と、ソフィアは軽くショックを受けたが、気を取り直して船医と共に検屍のために、下履き姿で露出したレジナルドの脚の傷を確認する。
針を刺して引っ掻いたような傷周辺がみみず腫れになり、脚全体蕁麻疹が出ている。キャスリンの右腕も同様だった。
「首の針にも毒はありますが、亡くなってから刺したもので、足の傷が本命です」
「皮膚を見れば一目瞭然だ。腕を見て皮膚病と思っていた。あの女優も恋人なら感染ったのかと」
「なんなんだ? わかるように説明しろ」
赤毛の青年が腕組みして尋ね、かつてコンラートから教わったことをソフィアは彼に話した。
「はあ? 食べ物や虫刺されでか?」
「はい、そういった人もいるんです。大きな蜂に刺されて亡くなった古代の王様の記録もあります。毒は、その人の害になるならなんでも毒ですから」
「薬も過剰に摂取すれば毒になりますからね。そういえば、未開地の先住民が吹き矢の毒に蜂を使うと本で読んだことがある。固い葉などに塗り付け乾燥させるそうで」
船医の言葉に、青年がソフィアを見た。
この部屋に来る前、船長室を訪れるより先に、関係者の部屋に立ち寄っている。
「もしかして、さっき奴の部屋で見つけたのは!」
「はい」
ソフィアが返事をすれば、うぐーと青年は唸った。
「すべての動かぬ証拠を押さえて、何故、黙っていろと!」
「でないと逃げられます。次の犠牲者が出て、最悪の事態になる可能性も……」
「だから奴を拘束すればいいだろう!」
「……違いますよ、もし次の犠牲者が出るとしたらその人です。運悪くすべての罪を被せるのにちょうどよくなっているんです」
「さっぱりわからん!」
がしがしと赤毛をかき乱して青年は叫んだ。
船医も青年の正体を知る人なのだろう。苛立つ彼の様子に顔色を悪くしている。
ソフィアは小さく肩をすくめ、「閣下」と呼びかけた。
「ここは許すが、他でそう呼ぶなよ」
「じゃあ謎の紳士Xさん。覚えていますか? キャスリンさんがわたしに手から水を出してみせてと絡んできたのを」
「ああ」
「つまり子爵が倒れた時、彼女はあの場にいた。他の人も。だから子爵はああ言ったんです。証拠もなしに指摘しても誤魔化されると考えて、疑惑の目が向くように」
何故なら、子爵は毒を盛ったのは彼だと思っていたから。
子爵の言動に便乗した者がいる。
「でも違うんです。そもそも劇作家アラン・ギルバートの自殺からして間違いなんですよ」
これから死のうとする人が、書き上げた原稿を人に渡して、推敲のための意見を求めるはずがないのだから。
各話の登場人物。
・マーガレット・グラハム(グラハム夫人)
アルビオン貴族、グラハム伯爵令息夫人
・アーサー・ウィリアム・グラハム(グラハム卿)
アルビオン貴族、グラハム伯爵令息
・赤毛の青年
一等客室専用サロンにいた乗客
・サイモン子爵
魔法薬が混入した酒を飲み倒れた乗客
・キャスリン・グレイ[死亡]
有名舞台女優
・メイ・アシュトン
キャスリンの付き人、元舞台女優
・レジナルド・ブラウン [死亡]
演出家、キャスリンの恋人
・チャールズ・ゴッドフリー
新大陸の新聞社主
・ジョン・ダッドリー
新大陸の画商
・アラン・ギルバート[死亡]
劇作家、半年前に自殺している