第15話 あなたの部屋はどんな部屋(7)
「今日は大変な一日でしたね、レイアリングさん」
グラハム夫人の侍女エヴァ・ポーロックが、蜂蜜入りのホットミルクをソフィアに差し出した。色々立て続けで、今日の夕方に出会ったばかりの人なのに、しばらく離れていて再会したような懐かしさを感じる。
「よく眠れますよ」
「ありがとうございます。ポーロックさん」
「奥様からお世話を仰せつかりました。私のことはエヴァとお呼びください」
小ぶりのマグカップの温かさに、ソフィアはほっとした。ずいぶん気が張り詰めていたと自覚する。
夫人の侍女に世話されるのは気が引けるものの、「あなた倒れたのですよ! 私の恩人なのに、二度も恐ろしい事件に巻き込まれて!」と、エヴァの勢いに負けた。
大人しい控えめな人かと思ったら、侍女としてはかなりしっかりした人のようだ。
「レイアリングさんは、奥様のお話し相手で、伯爵家のお客様も同然ですから」
「なんだか張り切っているのね、エヴァ」
「ミルクを置いてもなかなか舐めてくれない、懐きそうで懐かない小さな子猫を見ている気分ですわ、奥様。ふかふかの寝床でよく眠ってくれるといいのですけど」
青年といい、なぜソフィアを小さな動物扱いするのだろう。
人間なのに……と、用意してもらったベッドの上で、彼女は両手に持ったマグカップを傾ける。甘くて熱々で美味しい。
「あら、手間をかけた甲斐があったようよ」
くすくすとグラハム夫人が、ドレッサーの鏡越しにソフィアを見て笑う。
夫人の客室の、使用人が控えるスペースにベッドを入れてもらい、ソフィアは今夜はそこで眠ることになっている。本来エヴァが使う場所だ。
「エヴァは仕事熱心過ぎて、わたくしの側ではゆっくり休めないのよ」
それで二等客室を別に手配されている。本当にいい主人だ。
「すぐ下の階で、近い部屋が取れてよかったわ。行き来に歩かせては気の毒だもの」
「部屋を出てすぐの船員の階段が使えたらもっと近いみたいですよ。船の底から特別室までひと繋ぎですって」
エヴァの言葉に、あの壁の継ぎ目とソフィアは思い出した。やっぱりあれは船員用通路の入り口なのだ。
「まあ、どうしてそんなことを知ってるの?」
「ホールに飾られた見取図の見方をサイモン子爵に教わって……本当にお気の毒に。私のような侍女にも気さくな方が、声を失うなんて」
「船医さんは、回復するって言ってました」
レジナルドの遺体を見た時、船医から聞いたことをソフィアが伝えれば、エヴァはよかったと胸を撫で下ろした。
「レイアリングさんのお荷物運びましたけれど、ずいぶん少ないですね。本当にこちらで全部でしょうか?」
「はい」
エヴァの言葉にソフィアは答える。平民の服の着替えとコンラートに子供の頃にもらった魔石で動く玩具くらいしかない。
お金は首から下げていて、変身薬は最後の一本を船に乗る前に飲んでいる。
「トランク一つだけだなんて。ソフィア、着いたらどなたか頼る宛があるの?」
グラハム夫人に尋ねられ、今度こそコンラートの居場所をとソフィアは頷く。
さすがに夫人の部屋では邪魔は入らないはず、そう思ったのに――。
――イャァァ――ッ!! 来ないで、誰かっ! メイ……メイ!
「キャスリンさんの声です!」
助けを呼ぶ悲鳴に、ソフィアはベッドの上のブランケットを寝巻きの上に羽織って、廊下へ出た。
ガシャーンと、なにかが割れる派手な音がしてドアが開き、東洋風の絹のガウンを羽織ったキャスリンが飛び出てきて、様子を見に近づいたソフィアにすがりつく。
「ああああなた、助けてちょうだい! 蜂よっ……」
「蜂?」
「キャシー!」
まだ青いドレス姿でメイが、隣の部屋から足を少し引きずって出てきた。
自室の扉を閉め、ソフィアの足元で怯えるキャスリンに近づき抱き締めるが、彼女はさらに興奮気味に声を張り上げた。
「ああっ、メイっ! 助けてっ、蜂っ、蜂よ! 刺されて死にかけたことがあるのあなたは知ってるでしょう!」
「落ち着いて。冬の海の上よ、どうかしてるわ」
「羽音がしたの! もうなにがどうなってるの……レジーまで死んで……次はきっと私よ……ねえメイそうでしょっ」
「馬鹿なこと言わないで。ごめんなさい。彼女、色々あって少し神経過敏で……」
ソフィアを気遣ったメイの言葉を、「違うわ!」とキャスリンが遮る。
「レジーも……アランの亡霊にっ」
「いい加減にして。もう夜も遅いのよ」
サロンで見たのとは、印象がかなり違う二人にソフィアは驚く。
足を悪くし女優を辞めた気弱なメイが、付き人として有名女優の世話になっているのかと思ったら、まるで逆に見える。
「部屋、部屋を変わってよ……あんな場所じゃ眠れないわっ」
「わかったから。私の部屋へ行きましょう。ね、落ち着いて」
キャスリン・グレイの部屋が、開き放しのドアから見えた。
翡翠色で統一され落ち着いた趣のグラハム夫人の部屋と違い、白い柱と赤い壁紙の豪奢な部屋で、花瓶が床に割れ、アクセサリーや化粧瓶などが床に散らばっている。
彼女の取り乱し様がわかる酷い有様だ。奥で窓のカーテンが揺れている。
不意にきらりと小さな光が床に瞬き、ソフィアが目を凝らせばダイヤモンドのピンだった。レジナルドのルビーのピンと同じデザイン。
グラハム夫人の部屋に戻れば、夫人とエヴァからソフィアは叱られた。
「なにかあったらどうするの」
「奥様の仰る通りです。もうレディの歳で薄着で出るのもよくありませんよ」
「ごめんなさい」
体が冷えていると夫人のガウンを着せられ、小さな暖炉の前のふかふかのソファに座らされる。
「それにしても、こんな夜更けになにを騒いでいたのかしら?」
温め直したミルクをソフィアに渡し、エヴァが眉を顰める。
キャスリンをよく思っていないようだ。
「部屋に蜂がいるって怖がってました。羽音が聞こえたそうで」
「冬の海で? 風か機械の音でしょうに。どうかしてますね」
「エヴァ、蜂は刺されて亡くなる人もいるのよ。困った方だけど、立て続けに恋人を亡くして……神経過敏になっても仕方ないわ」
「奥様は人が良過ぎますわ」
眠気を誘うミルクの甘みにうとうとしつつ、夫人とエヴァの会話にそうだとソフィアは子供の頃を思い出した。
王女宮の庭園でお茶していた時、コンラートが蜂を追い払って夫人と同じことを言った。ある人にとって一部の食べ物が毒のように作用することがある。蜂の毒もそれに似た症状を引き起こすと。キャスリンはそれだったのだろう。
だが冬の海で蜂はどうかしている。しかしソフィアにすがりついた彼女は本当に怯えていた。それにさっきのはなにか……だめだ体がぽかぽかして眠い。
ソフィアが目をこすると、エヴァがミルクのカップを持ってくれて、ベッドまで誘導される。
「……ありがとうございます」
「お疲れが出たのですよ」
そうかもしれない。おやすみの挨拶もしないまま、ソフィアは深い眠りに落ちた。
◇◇◇◇◇
「おはよう、ソフィア。よく休めたかい?」
「おはようございます、グラハム様。はい、おかげさまで」
ソフィアは顔を合わせたグラハム卿に挨拶した。
一等客室専用の大階段を降りてすぐの食堂は広く、窓からの朝日に白いテーブルクロスがまぶしく、銀食器が輝いている。
天窓と装飾が壮麗な大階段と合わせて、ルドルフシュタットの王宮に戻ったかと錯覚しそうになるが、そんなことあるはずもない。
「あの、実は……夫人のお話し相手を、よく知らずに承諾してしまって」
「ん?」
「エヴァから説明されて、少しびっくりしたようなの」
おかしそうに笑うグラハム夫人に、笑い事じゃないのにとソフィアは思う。
アルビオンに着くまでの臨時雇いのソフィアだが、本来は屋敷に住み込みで、しかも家人と同じ一室を与えられ、食事の同席も許されるという。
ソフィアが夫人に連れられ、食堂に来ているのもそのためだ。
ルドルフシュタットで、姉の元にいた行儀見習の令嬢達と変わらない。
「君は、我が家の名誉を守った恩人だ。それに貴族でなくとも、祖国を追われるまでは相応の待遇だったと聞いている」
赤毛の青年だろう。ソフィアがルドルフシュタットの王女宮にいたと知っている。
「そんなお嬢さんが、一人で船にいるのを知らぬふりなどできるはずもない」
「そうよ。わたくし達には娘がいないし、その代わりを務めるとでも思って頂戴」
あくまで船にいる間だけ、あまり意固地になるのも不審だ。
夫妻の好意は素直に受け取ってお礼を言い、ソフィアは朝食の席についた。
「それより、あなた。ソフィアは海が初めてなんですよ。朝、窓からずっと外を見ていたのが可愛らしくて」
「ほう、それは私もその場にいたかった」
「ええと、海も見ていましたけど煙が……でも船はまだ動いてはないですね」
「半日はかかりそうだ。ボイラーの蒸気が漏れて、部品も腐食していたらしい」
「ボイラーが、部品が腐食ですか」
「昨晩は保ったが、暖房や湯に不便がでるだろう。ソフィアも、マーガレットも室内でも暖かくするんだよ」
昨晩、船長から船の状況を聞いたのだろう。
ソフィアとしては昨日の遺体や、サロンがどうなったかも知りたいが、和やかな朝食の席で話題にするのは憚られた。
「おはよう、グラハム卿」
聞き覚えのある声に、ソフィアは朝食をとる手を止めた。ソフィア達のテーブルに挨拶に来た、赤毛の青年だった。
滑らかな艶の最高級のウール地で仕立てた、明るい紺の三揃いを着ている。
相変わらず実業家風でいるが、グラハム卿の青年を庇うような立ち回りを考え、かなり身分が高い人だろうとソフィアは推察していた。
「朝から物言いたげな顔だな、子リスのようなお嬢さんは」
「……おはようございます」
また子リスって言った。そう思いながらもソフィアは挨拶を返した。
彼の表情がやや暗く見えたからだ。
「どうかしましたか?」
「ああ、朝食の最中に申し訳ないが、用があってきた」
「わたしに?」
「そうだ、グラハム卿や船長とも話はついている」
ソフィアはグラハム卿を見た。
気の毒そうにソフィアを見る表情で、卿としては不本意とわかった。
「あなた」
「マーガレット、仕方ないんだ。魔術は魔術の素養がある者にしかわからない。この船にはソフィアしかいない」
どちらにせよ赤毛の青年の助けを借りなければ、解けない不可解もある。
ソフィアは了承した。だが魔術について過度に期待されても困る。
「でも魔術はほぼ独学です」
「構わん。子リスの知識でも必要だ」
「また子リスって言った」
ソフィアがぼやけば、青年は軽く笑って、十五分後に迎えに来ると背を向けた。
お皿に残る朝食を不作法にならない程度に急いで食べ終える。
食堂にはゴッドフリーとダッドリーもいた。
ゴッドフリーは、朝からそのビール樽体型を裏づける健啖家ぶりだった。食事しながらメモを書き、船員を呼び電報を指示している。新聞社主だけあって精力的だ。
彼と反対にダッドリーは覇気がない。食欲がないのか不器用な手つきでのろのろとスープをスプーンで掬っている。
演出家まで失えば、今後の公演はキャスリンがいても、彼が好んだ舞台とは違うものになるだろう。気落ちしても無理はない。
赤毛の青年は、ソフィアに告げた時間通りに迎えに来た。
「グラハム様は、あなたに大人しくして欲しそうですけど」
「そうも言っていられなくなった」
ソフィアを食堂から連れ出した、青年の苦々しい表情と言葉に嫌な予感がした。
いや違う、朝からずっとだ。
あの二人の姿をまだ見ていないのは、朝が遅いだけとソフィアは思いたかった。
「キャスリン・グレイが亡くなった」
思わずぎゅっとソフィアは目を閉じ、手を握り合わせる。
昨日眠らなかったらと、そう思わずにはいられなかった。
各話の登場人物。
・マーガレット・グラハム(グラハム夫人)
アルビオン貴族、グラハム伯爵令息夫人
・アーサー・ウィリアム・グラハム(グラハム卿)
アルビオン貴族、グラハム伯爵令息
・赤毛の青年
一等客室専用サロンにいた乗客
・サイモン子爵
魔法薬が混入した酒を飲み倒れた乗客
・キャスリン・グレイ[死亡]
有名舞台女優
・メイ・アシュトン
キャスリンの付き人、元舞台女優
・レジナルド・ブラウン [死亡]
演出家、キャスリンの恋人
・チャールズ・ゴッドフリー
新大陸の新聞社主
・ジョン・ダッドリー
新大陸の画商
・アラン・ギルバート[死亡]
劇作家、半年前に自殺している




