第11話 あなたの部屋はどんな部屋(3)
「この二等客室は夜の防犯用の内鍵だけ」
相部屋のため外鍵はない。他の二等客室も同じだ。
ドアの内鍵を見つめていたソフィアは振り返った。目につく位置にクレア・テイラーのトランクがある。
「この部屋で、あのトランクで、スカーフだった……」
ソフィアは一人つぶやいた。
エヴァ・ポーロックは侍女の仕事に戻り、クレア・テイラーも「もういいわ、新しいのを買ってもらうから」と気分を変えて部屋を出ていった。
「この部屋が無人になったのは、ほんの十分くらい。時間的に部屋の前でポーロックさんとぶつかりかけた人が怪しいけど……」
確証もなく、あの場は彼女の無実の証明で十分だったから言わなかった。
それにソフィアは犯人が誰かよりも、このおかしな盗難騒ぎを正確に掴みきれていないことが引っかかる。
「すっきりしないぃ」
誰が犯人でも不自然だ。忍び込んだ部屋でトランクを漁り、持っていったのはスカーフ一枚なんて盗難事件。
デッキへ行こうと部屋を出て、ふとソフィアは廊下の壁に継ぎ目が異なる箇所があるのを見つけた。おそらく船で働く者が使う通路の入口だ。
壁に触れようとして、前から人が来る気配にソフィアは手を止めた。
「レイアリングさん!」
明るいが落ち着いた声が呼ぶ方向をソフィアが見れば、一等客室にいるはずのエヴァ・ポーロックだった。
「あの、お時間取れますか。奥様にあなたのことをお話ししたら、サロンにお連れするよう仰って」
「え、でも……貴族の方、ですよね?」
「私がお仕えする伯爵家の奥様は、とても気さくでお優しい方ですから」
伯爵家の夫人なら社交界や有名人にもきっと詳しい。
アルビオンの大魔導師コンラートの居所を知っているかもしれない。
「わかりました」
「よかった。案内しますね」
◇◇◇◇◇
領地や爵位を複数の相続人に分け与えられる大陸貴族と違い、アルビオン貴族は厳格な長子相続を守っている。
王家を頂点に、一握りの世襲貴族が富と権力をほぼ独占し、強固な階級社会と社会的分業体制を築き上げ、国内の安定と秩序を維持している。
王城の教師に教わったことを思い返しながら、ソフィアは目の前の夫人を見た。
「まあ、想像よりずっと愛らしいお嬢さんね」
蜂蜜色の髪に、ソフィアと似た榛色の目。
三十を少し過ぎた、表情の柔らかい優しそうな女性だった。
淡い黄色の絹ベルベットのディナー・ドレスは袖口や襟ぐりにレースをあしらい、裾を引くトレーンの縁取る金糸のフリンジが品よく華やかだ。
「ソフィア・レイアリングです。お目にかかれて光栄です。レディ・グラハム」
王女だったからたまに公の場に出ても、黙って挨拶を受ける側だった。
習っただけの不慣れなカーテシーをしてソフィアが挨拶すれば、夫人と側に控えるエヴァ・ポーロックの驚く気配がして、失敗したと彼女は慌てた。
「あ、ええと……不慣れで、ごめんなさい」
「いいえ、貴族のお嬢さんではないと聞いていたから、きちんとした挨拶に少し驚いたの。こちらこそ失礼だったわ。あらためてグラハム伯爵家のマーガレットよ。わたくしの侍女を助けてくれてありがとう。ソフィアさんでいいかしら」
「はい」
「どうぞ掛けて」
たしかにとても気さくで優しい人だ。
ソフィアの身なりは、夕方の乗船に合わせた、淡い褐色の絹タフタに小花刺繍がされた少女用のドレス。手袋はソフィアのものだが、ドレスは姉の侍女の親類宅にあった子供のお下がりで、少しだけ裾が短い。
平民と考えればきちんとしているけれど、一等客室専用サロンで同じテーブルの席につかせたい相手ではないと思うのに。
「リュテスからいらしたの?」
リュテスを経由しているから、そうだと答えられる。
けれど侍女のエヴァ・ポーロックとは同室だ。もし船内で身分証の確認があった時に不審に思われたくはない。少し考え、ソフィアは正直に答えることにした。
「元々はルドルフシュタットにいました。ドゥルラハ大公国に避難したのに危険になって……知人の親類を頼ってリュテスまで逃れ、この船に」
「まあ! それで一人なのね……そんな大変な身の上で、エヴァのことを助けてくれただなんて。ますます感謝しなければいけないわ」
ソフィアへの同情を示すグラハム夫人は、素直に会話していい相手か判断がつかない。でも、好意は感じる。いまも彼女のために白葡萄のジュースを頼んでくれた。
「お心遣いに感謝します。でも事実から推察したことを言っただけです。大したことはしていません」
サロンのボーイが、ソフィアの前にジュースのグラスを置く。
まだ子供のような少年だった。グラスをいくつか乗せた銀盆を片腕に乗せて、大人のように慣れた動きであっという間に遠ざかり、ソファ席を回っている。すごい。
「どうぞ、遠慮なさらないで」
「ありがとうございます」
飲めば、爽やかな果実味と甘さがおいしい。
贅沢な味は久しぶりで、ソフィアはきゅっと目を閉じて味わった。
「喜んでもらえてよかったわ。でも貴女、エヴァやわたくしのことまですっかり言い当てたと聞きましたよ。一体どうしてか、教えてくださらない?」
尋ねる夫人に、見知らぬ人にあれこれ言い当てられたら、警戒されても仕方ないとソフィアは気がついた。安心できるように説明しなければ。
聞いてしまえばなんでもないことなのだから。
「ポーロックさんについては、服装や所作を見れば大体は――」
服装や詩集や刺繍、カメオのブローチといった目に見えるものから、船の停泊時間や状況を手掛かりにした推察を順を追ってソフィアは説明した。
「――というわけです」
「素晴らしいわ! ねえ!」
「ええ、奥様っ。まるで魔法のようです」
何故か夫人とその侍女は目をきらきらさせて、興奮気味に盛り上がりだす。
ソフィアへ向ける熱っぽい視線が、少し怖い。
「その、魔術は観察や観測が大事で……」
「魔術? それでアルビオンに?」
「はい、きちんと学びたくて」
優雅な寛大さでソフィアに接するグラハム夫人を、彼女はうかがった。
いまなら、コンラートのことを聞けるかもしれない。
「あのっ、アルビオンには大……」
グッ……ヴゥ、ゥァ……ッ――!
上品なサロンにそぐわない呻き声と、人々のどよめく声に、ソフィアの言葉が掻き消される。
ソフィアだけでなく、夫人もその侍女も一斉に呻き声の方向を見た。
四十がらみの男が苦悶の表情で喉と胸を押さえ、彼がいた席からふらりと踊り出る。
「サイモン子爵だわ。一体どうし……」
子爵であるらしい男は床に膝を落としてうつ伏せに倒れ、もがき苦しみながら仰向けに転がった。
「大変! 発作かしら、お医者様を呼んだほうが」
「……違う」
金を沈めたソフィアの榛色の瞳が揺れて、彼女は短くつぶやくと、勢いよく椅子から下りた。
「ソフィアさん?!」
「すみません! 失礼しますっ」
夫人に断り、ソフィアはソファ席を三つ隔てた先へと急いで向かう。
一瞬だけど、たしかに見えた。
彼の喉元に絡みつく魔力が。
◇◇◇◇◇
ソフィアの魔術的資質は目に偏っている。
魅了の力の影響か、体内を巡る魔力が目に一度留まり流れていると、コンラートが言っていた。
『それ自体は体質のようなものだけど。魔術式も解析も知らないのに、僕が見せる魔術を発動前で当てるよね? 〈水が出る〉とか〈火をつける〉とか』
『そんな〈色〉と〈感じ〉がする』
視覚と他の感覚が結びついてもいると、彼は難しい顔をした。
『君が、〈きれいな石〉って拾うの、大抵クズ魔石だしね』
『キラキラしてるもん』
『あんな微量魔力も常時感知して、質にも感応してたら神経が疲弊する。この点だけは囚われの環境が幸いしたね』
普段は、身近で発動した魔術を感知できれば十分だと教わった。
『独学だけど、基礎なら教えてあげられる。魔力の操作と感度調整が自然にできるようになろうね』
彼が国を出るまで、約二年、ソフィアは観測や実践を中心に魔術を教わった。
だから魔術や魔力の残滓とその性質を、ソフィアは視ることができる。
◇◇◇◇◇
「大丈夫ですか!」
駆け寄ったソフィアに応じようとする、サイモン子爵の呻き声にヒューヒューと掠れた息の音が混じる。首から手を外せば、感じる……やはり魔力だ。
喉が急激な炎症に腫れて、気道の入口を塞いでいる。
「どうしてこんな、薬の誤飲? 調合ミス?」
きっと人体に良くない影響を及ぼす魔法薬を飲んだ。
どうしようとソフィアは途方に暮れる、対処がわからない。
「おい、水だっ!」
遠巻きに眺めるだけではない、行動力のある乗客もいたようだ。
水差しを手に赤毛の青年が、ソフィアを押しのけ子爵に水を飲ませようとする。いけないとソフィアは手でそれを阻んだ。
「なにをするっ!?」
「ダメですっ、魔法薬によっては水と反応しますっ!」
「ッ……!」
だが子爵の喘鳴はだんだんひどく、顔色が蒼白に変化してきている。
炎症だけでも抑えないと、このままでは窒息しかねない。
「粘膜の炎症、腫れ……薬傷するほど強い腐食や燃焼? なにを飲んだかわかれば」
「ならこれか? 飲んで苦しみだした」
赤毛の青年が腕を伸ばし、床に転がる底の深いグラスを拾い上げてソフィアに見せた。わずかに中身が残り、魔力も含んでいる。
「くださいっ!」
青年からグラスを奪い、人々の中からボーイの少年を見つけて、ソフィアは声をかけた。魔法薬と区別するため飲み物の情報が欲しい。
「この飲み物は!?」
「……え、あ……ぼ、ぼくはちがっ……」
「なんの飲み物だと聞いている」
ソフィアの質問に怯えた少年に、赤毛の青年が補足するように尋ね、少年はオレンジを絞りハーブリキュールを混ぜた食前酒と答えた。たしかにそんな香りがする。
「苦味もあるから多少の味はごまかせるな……って、なっ!?」
赤毛の青年が、ソフィアの手元を見て瞠目する。
華奢な両手に、青白く光る水とグラスの中身が球形に渦巻いていた。絹手袋の細い指を濡らすこともなく、水だけが子爵の口へ注ぎ込まれる。
「水はだめなんだろう!?」
「中和剤です、飲んだものを元に調合を……」
「できるのかっ!?」
ソフィアは答えられなかった。視える魔力を意識し、手元の現物を反対の性質に加工すれば、効果は得られるはず。だが見知らぬ魔法薬を素材に、己の魔力のみを元手に即興加工など初めてだった。頭がぐらぐらしてくる。
「成分わからないし、飲み物と混ざってるし、魔力もそんなにないのにっ!」
「はぁ!?」
即席で作ったものを人に試すなんて、さらなる事故を起こす可能性もある。
でも放置すれば確実に死んでしまう。ひとまず生成したものは流し込んだ。
「グ……ぅッ……!」
一度、嚥下してすぐ、ゴフッと子爵が水を吐き出す。魔力はない。打ち消しは成功している。ソフィアは彼を見守り続けた。
しばらくして青紫になりかけていた唇が血の色を取り戻し始め、ほぅっとソフィアは息をついた。
彼女の様子に危機を脱したと判断し、赤毛の青年が子爵を軽く揺さぶる。
「しっかりしろっ……ん? なに……なんだ?」
声が上手く出ないらしい子爵に、青年が聞き返す。
口を動かし視線さまよわせる子爵の、力を振り絞った掠れた声が側にいたソフィアの耳にも聞こえた。
「……ら……羅針……ば、ん……」
「え?」
不可解な言葉を残し、子爵は弱々しく咳き込み意識を失った。
赤毛の青年が男の口元に手を近づけ、気を失っているだけだと言った。
「呼吸はできてる。魔術師だったか、貴様」
「違います。見習い魔導師に……な、る……予……」
ぐわんと目が回る感覚に襲われ、あれっとソフィアが思った時にはもう視界は真っ暗で、彼女はその場に倒れていた。
各話の登場人物。
・エヴァ・ポーロック
グラハム伯爵家の使用人
・マーガレット・グラハム
アルビオン貴族、グラハム伯爵令息夫人
・サイモン子爵
一等客室専用サロンにいた乗客、魔法薬が混入した食前酒を飲み倒れる
・赤毛の青年
一等客室専用サロンにいた乗客