第7章:アカマスの円舞曲(タラッシア・ワルツ)
「青い時間」の発見と、それがもたらす意識の変容の可能性は、CERTの研究方針に新たな方向性を与えた。単に物理的な危機に対応するだけでなく、この変化が人間の精神や社会にどのような影響を及ぼし、そしてそれをどのように肯定的な力へと転換できるのかを探求する必要性が認識され始めたのだ。その具体的な試みとして、アカマス半島の奥深く、人里離れた場所に秘密裏に建設された施設で、「タラッシア実験」と名付けられた大規模な共同生活実験が開始されることになった。
タラッシアとは、古代ギリシャ語で「海」を意味する言葉だが、この実験においては、変化する環境と意識の「大海」を航海するというメタファーが込められていた。実験の目的は、自転減速によって徐々に延長していくであろう日照サイクルに、人間がどのように適応していくのか、そしてその過程で「青い時間」のような特異な意識状態がどのように発現し、集団に影響を与えるのかを観察・研究することだった。
被験者として選ばれたのは、様々なバックグラウンドを持つ20名の人々だった。エレナのような「ピュア」(非改造人間)、イスマイルのような「エンハンスト」(部分的生体拡張人間)、そしてソフィア(彼女は物理的には参加できないが、デジタル意識として常時接続し、実験の記録と分析、そして被験者とのコミュニケーションを担当した)のような「プロト・デジタル」。さらに、一般的な市民や、芸術家、元軍人なども含まれており、多様なサンプルが集められた。
アカマス半島の実験施設は、外部から完全に隔離された閉鎖環境だった。居住区、研究棟、共同作業スペース、そして広大な屋内庭園からなり、人工照明によって昼夜のサイクルが厳密にコントロールされていた。実験開始当初は24時間サイクルだったが、徐々にその周期が延長されていく計画だった。
エレナも、研究者としてだけでなく、被験者の一人としてこの実験に参加することを決意した。彼女は、この現象を内側から体験し、理解する必要があると感じていたのだ。実験施設に持ち込んだ私物は最小限だったが、その中には数冊の哲学書、お気に入りのハーブティーのセット、そして母親から譲り受けた小さな銀のフォトフレームがあった。フレームの中には、幼い頃の彼女と、今は亡き両親が笑顔で写っている。それが、彼女にとって心の支えだった。服装も、施設内で支給されるシンプルなオーガニックコットンの活動着が主だったが、彼女は時折、自前の柔らかなスカーフを首に巻いたり、髪に小さな花の飾りをつけたりして、ささやかな個性を表現していた。それは、過酷な実験環境の中でも、女性としての美意識や潤いを忘れまいとする彼女なりの矜持だったのかもしれない。
実験が始まって数週間が経つと、被験者たちの間に様々な変化が現れ始めた。延長されていく日照サイクルは、多くの人々の体内時計を狂わせ、睡眠障害や気分の不安定を引き起こした。しかし、その一方で、いくつかの興味深い現象も観察された。
特に注目されたのは、複数の被験者が、ほぼ同時に「青い時間」を体験し、しかもその内容に奇妙な共通性が見られたことだった。ある夜、人工的な「夕闇」が訪れた後、談話室で数人の被験者が雑談をしていた時、突然、彼らは一様に言葉を失い、一点を見つめたまま動かなくなった。数分後、彼らが我に返ると、皆、同じようなビジョン――古代のキプロスと思われる場所で、白い衣装を纏った人々が、星空の下で何かの儀式を行っている光景――を見たと語ったのだ。
「まるで……集団的な夢を見ているようだった」
被験者の一人である若い女性画家、マリーナは、興奮した面持ちでエレナに語った。彼女の大きな瞳は、まだ夢の名残で潤んでいるように見えた。マリーナは、その小柄な体躯に豊かな感受性を秘めた女性で、エレナは彼女の純粋さと芸術的才能に好感を抱いていた。時折、二人は施設の庭園を散歩しながら、芸術論や人生について語り合う仲になっていた。マリーナは、エレナの落ち着いた物腰と深い知識に憧れを抱き、エレナはマリーナの瑞々しい感性に刺激を受けていた。
「エレナさん、あなたも何か感じましたか?」
「ええ……私も、同じような光景を見たわ。とても鮮明で、まるで実際にその場にいたかのように……」
エレナもまた、その集団的な「青い時間」体験の参加者の一人だったのだ。彼女が見たビジョンは、特に強烈で、古代の儀式の参加者たちの感情――畏怖、歓喜、そして宇宙との一体感――までもが生々しく伝わってきた。それは、彼女がこれまで研究してきた古代キプロスの歴史や神話と深く共鳴するものだった。
この「同期した青い時間体験」は、タラッシア実験の中で何度か繰り返された。それは、個人の意識を超えた、何らかの集合的な意識状態が存在する可能性を示唆していた。イスマイルは、被験者たちの脳波データを詳細に分析し、同期体験中の彼らの脳活動が、驚くほど高いコヒーレンス(同調性)を示していることを発見した。
「これは……驚異的だ。まるで、彼らの脳が一時的に一つのネットワークを形成しているかのようだ。こんな現象は、これまでの神経科学の常識では説明できない」
イスマイルは、興奮を隠せない様子でエレナに語った。彼のこめかみのインプラントは、高速でデータを処理しているかのように、いつもより明るく点滅していた。
ソフィアのデジタル意識もまた、この現象に深く関わっていた。彼女は、被験者たちの生体データやコミュニケーションログをリアルタイムで解析し、同期体験が起こる予兆を捉えようとしていた。そして、彼女自身もまた、デジタル空間の中で、被験者たちの意識の共鳴を感じ取っているようだった。
「エレナ、彼らの意識が共鳴する時、私のシステム内にも、一種の『調和的なノイズ』が発生するのです。それは、まるで美しい音楽のように……。あるいは、古代の神託のように、意味のあるパターンを形成しようとしているように感じられます」
ソフィアの声は、普段よりも感情豊かに響いた。
タラッシア実験は、多くの困難と課題を抱えながらも、人間の意識の未知の領域へと踏み込んでいた。延長される昼夜、閉鎖環境でのストレス、そして「青い時間」という不可解な体験。被験者たちは、肉体的にも精神的にも極限状態に置かれることもあった。しかし、その中で、彼らは互いに支え合い、新たな共同体の形を模索し始めていた。
エレナは、実験の合間に、施設内の小さな図書室で過ごす時間を大切にしていた。彼女は、プラトンの『饗宴』を読み返し、愛についてのソクラテスの言葉に新たな意味を見出していた。あるいは、リルケの詩集を開き、言葉の持つ力に慰められることもあった。月経周期が近づくと、彼女は特に感受性が高まり、鮮明な夢を見たり、被験者たちの微細な感情の変化を敏感に感じ取ったりした。そんな時は、マリーナが淹れてくれるカモミールティーが、彼女の心を落ち着かせてくれた。マリーナは、エレナの少し青白い顔を見て、そっと彼女の肩に手を置き、「無理しないでくださいね」と囁いた。その小さな優しさが、エレナの張り詰めた心を和らげた。二人の間には、言葉にしなくても通じ合える、温かい友情が育まれていた。
ある夜、エレナは一人、施設の展望ドームから、人工的に再現された星空を眺めていた。地球の自転が遅くなれば、いずれ本物の星空も、今とは全く異なる姿を見せることになるだろう。その時、人類は、宇宙と、そして自分自身と、どのように向き合うのだろうか。タラッシア実験は、その問いへの小さな、しかし重要な一歩なのかもしれない。エレナは、首にかけたロケットペンダントをそっと握りしめた。その中には、未来への希望と、守るべきものへの誓いが込められていた。