第6章:魂が触れる、コバルトの刹那
時間知覚研究グループの活動が本格化し、様々な実験とデータ収集が進む中で、エレナとソフィアは驚くべき発見をした。それは、地球の自転減速が顕著になるにつれて、特定の人々の意識状態に、奇妙な共通現象が現れ始めたというものだった。彼らはそれを「青い時間(Blue Hour Phenomenon)」と名付けた。
この「青い時間」を体験した人々は、一様に、時間の流れが通常とは異なって感じられると報告した。ある者は、時間が極端に引き伸ばされたように感じ、一瞬の出来事が永遠のように思えたと語った。またある者は、逆に時間が圧縮され、数時間が一瞬で過ぎ去ったように感じたと述べた。そして最も注目すべきは、この状態にある一部の人々が、未来の出来事に関する漠然とした、しかし妙に確信に満ちた「予感」や「デジャヴュ」を体験したと報告したことだった。
最初は、これらの報告は個人的な主観的体験として扱われ、ストレスや不安による心理的影響ではないかと見られていた。しかし、報告例が増えるにつれて、その共通性と特異性が無視できなくなり始めた。エレナは、この現象がメリディアン仮説と深く関わっているのではないかと直感した。
「ソフィア、この『青い時間』は、地球の自転と意識場の共鳴が、より直接的な形で現れたものじゃないかしら? 自転のリズムが変わることで、私たちの時間知覚の基盤そのものが揺らいでいるのかも……」
エレナは、研究室のコンソールに映し出された「青い時間」体験者たちの脳波データを眺めながら、仮想空間にいるソフィアに語りかけた。エレナは今日、鮮やかなコバルトブルーのシルクシャツを着ていた。その色は、彼女が「青い時間」と名付けた現象を象徴しているかのようだ。袖をラフに捲り上げ、手首にはシンプルなシルバーのバングル。ミニマルながらも洗練されたスタイルは、彼女のクリアな思考を反映しているかのようだった。
「エレナ、私もそう思います。興味深いのは、この現象が、特定の感受性の高い人々に偏って現れていることです。芸術家、詩人、あるいは深い瞑想の習慣を持つ人々……彼らは、常人よりも意識の深層にアクセスしやすいのかもしれません」
ソフィアのアバターは、思索にふけるように、ゆっくりと指を組んだ。彼女の周囲には、青みがかった光の粒子が漂い、まるで彼女自身が「青い時間」の中にいるかのように見えた。
この現象の客観的な証拠を掴むため、研究チームは、キプロス政府の戦略AIアドバイザーであるアキレスに協力を要請した。アキレスは、膨大な生体データと環境データを解析し、驚くべき結論を導き出した。「青い時間」を体験している人々の脳波には、共通して、シータ波とガンマ波の間に特殊な同期パターンが現れていることを突き止めたのだ。これは、通常の覚醒時とも睡眠時とも異なる、非常に特異な脳活動状態であり、客観的に検出可能な指標となり得た。アキレスが提案した測定手法を用いることで、「青い時間」は、単なる主観的体験ではなく、測定可能な生理現象として捉えられるようになった。
イスマイルは、当初この「青い時間」という概念に対しても懐疑的だった。彼の科学的合理性は、そのような曖昧で詩的なネーミングの現象を素直に受け入れることをためらわせた。しかし、アキレスによる客観的な脳波パターンの発見は、彼をも動かした。
「なるほど……この脳波パターンは確かに興味深い。通常の意識状態では見られない、高度な情報処理が行われている可能性を示唆している」
イスマイルは、自身の研究室で、エレナとアキレスの報告書を読みながら呟いた。彼の研究室は、エレナの研究室とは対照的に、最新のニューロデバイスや機械部品が整然と並び、機能美に満ちていた。彼は、自身のこめかみに埋め込まれた神経同調インプラントの調整を行いながら、この新しい現象への関心を深めていった。
「もし、この『青い時間』が本当に存在するのなら、私のインプラントを使って、その状態を能動的に誘発したり、あるいは安定させたりすることができないだろうか……」
彼は、実験者としての血が騒ぐのを感じた。自らの身体と意識を実験台にすることに、彼はためらいを感じなかった。彼はエレナに連絡を取り、「青い時間」の実験に被験者として参加したいと申し出た。
「イスマイル、本当にいいの? あなたのインプラントは、まだ臨床試験の段階よ。未知の脳活動を誘発するなんて、危険かもしれないわ」
エレナは、彼の申し出に喜びを感じながらも、友人としての心配を隠せなかった。
「危険は承知の上だ。それに、この現象を内側から体験してみないことには、本当のことは分からないだろうからな。君の『青い時間』とやらが、ただの詩的妄想なのか、それとも本当に新しい意識の地平なのか、この目で確かめてみたい」
イスマイルの瞳には、探求者の強い光が宿っていた。
最初の実験は、厳重な監視体制のもとで行われた。イスマイルは、脳波計や各種バイタルセンサーを装着し、静かなシールドルームに入った。エレナと数人の研究者が、隣のコントロールルームから彼の様子を見守る。アキレスが開発した特殊な音響刺激と光刺激、そしてイスマイル自身のインプラントによる微弱な神経刺激を組み合わせることで、「青い時間」状態への誘導が試みられた。
数十分後、イスマイルの脳波に、例の特異な同期パターンが現れ始めた。彼の表情は穏やかで、目は閉じられている。
「……見える……」
イスマイルが、かすかな声で呟いた。
「何が見えるの、イスマイル?」
エレナが、マイクを通じて優しく問いかけた。
「……時間だ。時間が……まるで川の流れのように見える。そして、その流れの中に……無数の可能性の分岐点が……きらめいている……」
彼の言葉は、詩的で、普段の彼からは想像もつかないものだった。コントロールルームの研究者たちは、息を飲んで彼の言葉に耳を傾けた。
実験後、イスマイルはしばらく言葉少なだったが、やがてエレナにこう語った。
「エレナ……君の言う『青い時間』は、確かに存在する。あれは……言葉ではうまく表現できないが、間違いなく、通常の意識状態とは異なる、拡張された知覚だ。まるで、世界の別のレイヤーにアクセスしたような……」
彼の顔には、深い驚きと興奮の色が浮かんでいた。この体験は、彼の科学者としての世界観を根底から揺るがすものだったのかもしれない。
「青い時間」の発見は、CERT内部でも大きな反響を呼んだ。これが、自転減速という危機の中で人類が見出した新たな能力なのか、それとも未知の危険を孕んだ精神状態なのか。議論は尽きなかったが、一つだけ確かなことは、地球の変化が、人間の意識の最も深い部分にまで影響を及ぼし始めているということだった。
エレナは、研究室の窓から見えるキプロスの空を見上げた。夕暮れ時、空はまさに「青い時間」と呼ぶにふさわしい、深い藍色に染まっていた。この空の色のように、人間の意識もまた、新たな深みと広がりを獲得しようとしているのかもしれない。彼女は、自分の胸が高鳴るのを感じた。それは、未知への恐れと、それ以上の好奇心と希望が入り混じった、複雑な感情だった。彼女は、愛用しているジャスミンの香りの練り香水を、そっと手首につけた。その甘く官能的な香りは、彼女の直感力を高め、新たなインスピレーションを与えてくれるような気がした。