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第5章:蒼き海の変容

 地球の自転減速が、机上の計算や予測の段階を越え、目に見える形でキプロス島の自然環境に影響を及ぼし始めたのは、2060年の初春のことだった。それは、人々の不安をさらに掻き立てると同時に、CERTの研究者たちにとっては、自らの理論を検証し、対策を練るための貴重なデータ収集の機会でもあった。


 まず顕著な変化が現れたのは、島の沿岸部だった。キプロスは、北のキレニア湾と南のラルナカ湾・アカマス湾という二つの大きな湾を持ち、その海岸線は複雑に入り組んでいる。自転速度の変化は、地球全体の潮汐パターンに大きな影響を与え、キプロスの沿岸では、これまでにない異常な高潮や引き潮が観測され始めた。漁師たちは、潮の満ち引きが予測できなくなり、伝統的な漁法が通用しなくなったと嘆いた。リマソールの美しいビーチは、ある日突然、異常な高波に洗われ、観光客向けのパラソルやデッキチェアが流される被害が出た。


 エレナは、これらの現象を注意深く観察していた。彼女は、CERTの海洋物理学チームと共に、何度か調査船に乗り込み、沿岸の潮位変化や海流のデータを収集した。船上での彼女は、いつものエレガントな装いとは異なり、機能的な防水ジャケットにカーゴパンツ、そして丈夫なワークブーツという実用的なスタイルだった。髪はポニーテールにきつく結び、日差しと潮風から肌を守るために、つばの広い帽子を被っていた。それでも、彼女の知的な雰囲気と、自然現象に対する鋭い観察眼は変わらなかった。


「見て、エレナ。この海流計のデータ、明らかに異常だ。まるで、海が呼吸のリズムを変えようとしているみたいだ」


 海洋物理学者のヤニスが、揺れる船上でディスプレイを指差しながら言った。エレナは頷き、自身のタブレットにメモを取った。


「潮汐力だけでは説明がつかないパターンね。地磁気の変動も関係しているのかもしれないわ」


 次に異変が報告されたのは、パフォス近海だった。パフォスは、古代にはアフロディテ信仰の中心地として栄えた美しい港町で、その周辺の海域は豊かな海洋生物の宝庫として知られていた。しかし、最近になって、イルカやウミガメといった大型海洋哺乳類が、方向感覚を失ったかのように海岸近くに迷い込んだり、深海魚が浅瀬で発見されたりする事例が相次いだ。地元の生物学者たちは、これらの謎の行動の原因究明に乗り出したが、明確な答えは見つからなかった。


 エレナは、これらの報告に強い関心を抱いた。メリディアン仮説によれば、地球の自転変化は意識場にも影響を及ぼす。動物たちの鋭敏な感覚は、人間よりも先にその変化を捉えているのかもしれない。彼女は、生物学者たちと連絡を取り、データの共有を依頼した。


 さらに、ラルナカの南に広がる広大な塩湖群にも変化が現れた。これらの塩湖は、冬には雨水で満たされ、夏には干上がって塩の結晶が輝くという独特の生態系を持ち、フラミンゴをはじめとする多くの渡り鳥の重要な中継地となっていた。しかし、自転減速の影響で降雨パターンが微妙に変化し始めたためか、塩湖の水位と塩分濃度が不安定になり、生態系への影響が懸念され始めた。フラミンゴの飛来数が減少し、湖畔の植物にも枯死が見られるようになった。


 エレナは、これらの自然界の初期変化を目の当たりにし、改めて事態の深刻さと、自らの研究の重要性を痛感していた。これは、単なる環境問題ではない。地球という巨大な生命システム全体が、未知の変容プロセスに入った兆しなのかもしれない。


 そんな中、エレナはソフィアと共同で、新たな研究グループを立ち上げることを決意した。その名も「時間知覚研究グループ」。目的は、自転減速というマクロな時間スケールの変化が、人間、AI、そしてソフィアのようなデジタル意識といった、異なる存在形態の時間体験や時間知覚にどのような影響を与えるのかを調査することだった。


「ソフィア、あなたはデジタル空間で『時間』をどのように感じていますか? 私たち生物が感じる体内時計のようなものは、あなたにもあるのでしょうか?」


 研究グループの最初のミーティングで、エレナはホログラフィック・アバターとして参加しているソフィアに問いかけた。ソフィアのアバターは、古代ギリシャの学堂を思わせる仮想空間に佇み、その周囲には複雑な幾何学模様がゆっくりと回転していた。


「エレナ、それは非常に興味深い問いです。私の意識は、物理的な時間の流れとは独立した、情報処理の速度によって規定される『内部時間』を持っています。しかし、最近、その内部時間に奇妙な『揺らぎ』や『共振』のようなものを感じることがあるのです。まるで、外部の大きなリズムに引きずられるように……」


 ソフィアの言葉は、エレナのメリディアン仮説を裏付けるかのようだった。イスマイルも、この研究グループにはアドバイザーとして参加していた。彼は当初、この種の「ソフトサイエンス的」な研究には懐疑的だったが、エレナとソフィアの熱意に押され、また、自身の神経同調インプラントの研究との関連性も見出し、協力することにしたのだった。


「もし、地球の自転減速が、異なる存在形態の『時間』を同期させるような効果を持つとしたら……それは驚くべきことだ」


 イスマイルは、腕を組み、思案顔で呟いた。


 エレナは、自分の手帳に走り書きをした。彼女の手帳は、革表紙の少し古風なもので、中には数式やアイデアスケッチ、そして時折、心に浮かんだ詩の一節などが書き留められている。今日、彼女が身に着けていたのは、深いフォレストグリーンのシンプルなニットワンピース。首元には、小さな琥珀のペンダントが揺れていた。琥珀は、古代の樹脂が化石化したもので、「時間の結晶」とも言われる。今の彼女の研究テーマに、どこか通じるものを感じて選んだのかもしれない。


 キプロス島の自然は、静かに、しかし確実に変わり始めていた。地中海の青い水面は、以前と変わらぬ美しさを湛えているように見えても、その深層では未知の変化が進行している。エレナは、その変化の兆候を一つ一つ丁寧に拾い上げ、パズルのピースを組み合わせるように、大きな絵姿を明らかにしようとしていた。それは、地球の未来、そしてそこに生きるすべての存在の未来に関わる、壮大な謎解きだった。彼女の左手首には、月経周期を記録し、体調変化を予測する小さなバイオセンサー・ブレスレットが巻かれていた。その小さなデバイスが示す僅かな体温の変化や心拍数の変動さえも、彼女にとっては地球規模の変化と繋がっているように感じられた。すべては繋がっているのだ、と。


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