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第4章:黄昏に揺れる魂

 地球の自転減速という衝撃的な事実が公式に発表されると、キプロス社会は大きな動揺に見舞われた。当初こそ、政府の迅速な対応とCERTの活動開始によって一定の冷静さが保たれていたものの、時間が経つにつれて人々の間に不安が広がり、それはやがて社会の深層に眠っていた亀裂を再び露わにし始めた。


 キプロスは、2040年代後半に南北統一という歴史的偉業を成し遂げたが、それはあくまで政治的な枠組みの変化であり、人々の心に長年刻まれた分断の記憶や、文化・宗教的背景の違いが完全に解消されたわけではなかった。未曾有の危機に直面し、未来への不確実性が増大する中で、古い亡霊たちが再び顔を出し始めたのだ。


 ニコシアの旧市街、かつては賑わいを見せていたピアサスル地区。そこでは、「自然回帰主義者」を名乗るグループが集会を開き、声高に主張を繰り返していた。彼らは、地球の自転減速を、過度な技術文明に対する地球ガイアからの警告であり、人類が自然との調和を取り戻す最後の機会だと解釈していた。彼らのリーダーである、白い髭を蓄えたカリスマ的な老人は、古代の預言者のような口調で語った。


「見よ! 母なる大地が我々に語りかけているのだ! テクノロジーの傲慢さが、星々の運行さえも狂わせたのだ! 今こそ、機械を捨て、土に還り、古の叡智に耳を傾ける時だ!」


 その言葉は、一部の伝統主義者や、現代社会に不満を抱く人々の心を捉えた。彼らは、CERTが進める科学的アプローチや、イスマイルが開発しているようなエンハンスメント技術を、問題の本質から目を背けるものだと批判した。


 一方、島の南岸に位置する国際都市リマソールでは、全く逆の現象が起きていた。最新鋭の医療施設やエンハンスメント技術を提供する「エンハンスメント・クリニック」には、予約が殺到していたのだ。迫りくる危機に備え、自らの身体能力を強化し、変化する環境への適応力を高めようとする人々が後を絶たなかった。彼らは、科学技術こそが人類を救う唯一の道だと信じていた。


「先生、私はもっと強くならなければ。この身体では、これから起こるであろう困難に耐えられないかもしれない」


 クリニックの待合室で、高価なスーツに身を包んだビジネスマンが、不安げな表情で医師に訴えていた。彼は、視覚強化インプラントと、代謝効率を上げるための遺伝子調整を希望していた。


 このような社会の二極化は、エレナの心を痛ませた。彼女は、科学と自然、テクノロジーと精神性が対立するものではなく、むしろ調和し、補い合うべきものだと考えていたからだ。彼女自身のライフスタイルも、その哲学を反映していた。最新の量子物理学を研究する一方で、自宅の小さな庭でハーブや野菜を育て、手作りのオーガニックコスメを愛用し、月の満ち欠けを意識した生活を送っていた。今日の彼女は、落ち着いたモスグリーンのリネンのワンピースを着ていた。ウエストには、幅広の革ベルトを締め、古代ミノア文明のフレスコ画からインスピレーションを得たという青銅のバックルがアクセントになっている。足元は、編み上げのレザーサンダル。派手さはないが、質の良さとデザインの洗練さが感じられる装いだ。


 そんな中、イスマイルが長年研究開発を進めていた「神経同調インプラント」が、CERTの強い後押しを受けて緊急承認され、臨床試験が開始されることになった。このインプラントは、脳内の松果体に作用し、外部環境の変化に関わらず、個人のサーカディアンリズム(体内時計)を安定させることを目的としたものだった。自転減速によって昼夜のサイクルが不規則になることを見越した、先を見据えた技術だった。


 イスマイルは、自らも被験者となり、このインプラントの有効性と安全性を検証しようとしていた。


「エレナ、君はこの技術をどう思う? 自然回帰主義者たちは、これもまた『自然への冒涜』だと騒ぐだろうな」


 臨床試験の準備が進む研究室で、イスマイルは少し皮肉な笑みを浮かべてエレナに尋ねた。彼のこめかみには、既に新しいインプラントの試作品が埋め込まれ、そこから伸びる細いケーブルが計測装置に繋がれている。


「私は……必要だと思うわ、イスマイル。多くの人々にとって、急激な環境変化に適応するためには、こうした技術の助けが必要になるでしょう。大切なのは、技術をどう使うか、そして技術とどう向き合うかよ」


 エレナは真摯に答えた。


「ただ、心配なのは、こうした技術が新たな分断を生み出さないかということ。インプラントを受けられる人と受けられない人、あるいは受けたい人と受けたくない人。その間に、また新たな壁ができてしまうのではないかしら」


「それは……否定できない。だが、何もしなければ、混乱はさらに大きくなる。私たちは、最善と思われる道を選ぶしかない」


 イスマイルの言葉には、技術者としての責任感と、ある種の諦念が込められていた。


 社会の不安は、かつての民族的・宗教的な対立感情にも火をつけ始めていた。キプロス・ギリシャ系とキプロス・トルコ系のコミュニティの間で、些細な出来事をきっかけとした小競り合いや、SNS上での誹謗中傷が増加した。統一政府は融和を呼びかけたが、一度くすぶり始めた不信の炎は、なかなか消えようとしなかった。


 エレナは、ソフィアとの定期的なビデオ通話で、こうした社会の状況について憂慮を伝えた。ソフィアのアバターは、静かにエレナの言葉に耳を傾けていた。彼女の光の粒子でできた身体は、感情の起伏を表すかのように、時折その輝きを増したり、逆に少し翳ったりするように見えた。


「エレナ、人間社会とは、常にそういうものなのかもしれません。変化と危機は、人々の最も深い部分にある恐怖や偏見を呼び覚ます。しかし、同時に、それは新たな連帯や創造性を生み出すきっかけにもなり得ます」


 ソフィアの声は、デジタルでありながらも、深い叡智と共感を湛えていた。


「大切なのは、その恐怖に飲み込まれず、希望の灯を絶やさないこと。そして、異なる意見を持つ人々との対話を諦めないことです」


 ソフィアの言葉は、エレナにとって大きな慰めとなった。彼女は、ソフィアの言葉を胸に、再び研究に集中しようと努めた。


 グリーンラインの緊急対応本部では、様々な分野の専門家たちが、自転減速がもたらす多岐にわたる影響について分析を進めていた。気候変動、生態系の変化、インフラへの影響、そして人々の心理的影響……。問題は山積みだった。


 エレナは、窓の外に広がるニコシアの街並みを見下ろした。新旧の建物が混在し、歴史の重みと未来への胎動が感じられる街。この街が、そしてこの島が、この未曾有の危機を乗り越え、新たな調和を見出すことができるのだろうか。彼女の心には、重い問いが深く刻まれていた。そんな時、ふと彼女の視線は、手首に着けたシンプルなシルバーのブレスレットに落ちた。それは大学時代の友人で、今は遠い国で暮らす親友からの贈り物だった。友情の証であるそのブレスレットは、困難な時でも人との繋がりの大切さを思い出させてくれる。エレナは、ぎゅっとブレスレットを握りしめた。


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