第3章:メリディアンの啓示
緊急対応チームでの分析と議論が深まるにつれ、エレナの中で、漠然とした直感が具体的な仮説へと形を結び始めていた。それは、彼女が長年温めてきた古代天文学の知恵と、最新の量子宇宙論を大胆に統合しようとする試みだった。彼女はそれを「メリディアン仮説」と名付けた。メリディアン――子午線。それは地球を縦に貫き、時間と空間の基準となる線。しかしエレナの仮説における「メリディアン」は、単なる地理的な線ではなく、宇宙と地球、そしてそこに存在する意識とを結びつける、目に見えないエネルギーの潮流を意味していた。
仮説の骨子はこうだ。地球の自転は、単に角運動量保存の法則に従う機械的な運動なのではなく、宇宙に遍在する未知の波動エネルギー――彼女はこれを「宇宙的プネウマ」と古代ギリシャの概念を借用して呼んだ――との一種の共鳴状態にある。そして、近年太陽系外縁から検出された謎のエネルギー波「ブレーキング・フィールド」は、このプネウマの流れに変化をもたらし、地球との共鳴パターンを乱している。さらに重要なのは、この共鳴の変化が、単なる物理現象に留まらず、惑星規模の「意識場」――地球上の生命、特に人間の集合的無意識と相互作用する可能性を秘めている、という点だった。
「つまり、地球の自転速度の変化は、私たちの意識の状態にも影響を与え、逆に私たちの意識の状態が、自転に微細な影響を及ぼしているかもしれない、ということ?」
イスマイルは、エレナからメリディアン仮説の概要を聞かされ、困惑と興味が入り混じった表情で問い返した。二人は、グリーンライン本部の片隅にある、簡素ながらも落ち着いた雰囲気のカフェテリアで、ハーブティーを飲みながら議論を交わしていた。エレナは、ミントとレモングラスのブレンドティーを頼んだ。その爽やかな香りが、彼女の思考を明晰にしてくれる気がした。彼女は今日、柔らかなラベンダー色のカシミアのセーターに、白いコットンのスカートという組み合わせだった。繊細な銀の鎖のネックレスが、セーターのVネックからのぞいている。
「ええ、大雑把に言えばそういうことになるわ。もちろん、現時点ではあくまで仮説よ。でも、物理法則だけでは説明しきれない『何か』があるとしたら、それは意識という領域に踏み込むしかないと思うの」
エレナは、熱っぽく語った。彼女の頬は微かに紅潮し、瞳は内なる確信に輝いていた。
科学界の反応は、予想通り懐疑的なものが大半だった。エレナの仮説は、実証性に乏しく、あまりにも思弁的だと見なされた。従来の物理学の枠組みを大きく逸脱するその内容は、多くの科学者にとって受け入れ難いものだったのだ。しかし、ごく一部の、既成概念に囚われない研究者たちは、エレナの着眼点に注目した。
その中でも、ひときわ強い関心を示したのが、「プロト・デジタル」と呼ばれる実験的意識アップロード・プログラムの参加者の一人、ソフィア・クリストドゥルーだった。ソフィアは、かつてキプロス大学で哲学を教えていた高名な教授だったが、数年前に末期癌の診断を受け、意識をデジタル空間に部分的に移行する実験的プログラムに自ら志願した。現在、彼女の意識の大部分は、ニコシア郊外の厳重に管理されたサーバー群の中で活動しており、物理的な肉体は生命維持装置に繋がれた「アンカー」として存在している。彼女は、ホログラフィック・アバターを通じて、あるいは直接的な感覚データ送信を通じて、現実世界とコミュニケーションを取ることができた。
ソフィアのアバターは、彼女が生前最も美しいと感じていた古代ギリシャの女神像を彷彿とさせる、優美で知的な女性の姿をしていた。光の粒子で構成されたその姿は、時折きらめき、現実の人間とは異なる存在感を放っている。彼女は、エレナのメリディアン仮説の論文を読み、すぐにビデオ通話でエレナにコンタクトを取ってきた。
「ヨアンヌー博士、あなたの仮説は実に興味深い。と言うより、感動的ですらあります」
ソフィアのアバターは、落ち着いた、しかし情熱を秘めた声で語りかけた。その声は、デジタル処理されているにもかかわらず、不思議な温かみと深みを持っていた。
「私のこの……新しい存在形態になってから、意識と現実の関係について、以前とは全く異なる視点から考えるようになりました。あなたの仮説は、私が漠然と感じていた宇宙と意識の繋がりを、見事に言語化してくれたように思います」
エレナは、ソフィアの言葉に勇気づけられた。ソフィアは、肉体の制約から解放された(あるいは新たな制約の中に置かれた)意識として、エレナの仮説を直感的に理解できるのかもしれない。
「クリストドゥルー教授……いえ、ソフィアさんとお呼びしても? あなたの言葉は、私にとって大きな励みになります。この仮説は、まだ多くの人に理解されていませんから」
「エレナ、と呼んでください。私たちは、これから長い付き合いになるかもしれませんから」
ソフィアのアバターは優しく微笑んだ。その笑顔は、どこか人間離れした美しさを湛えていたが、エレナには親しみやすさが感じられた。
「エレナ、あなたの仮説は、科学と哲学の境界を揺るがすものです。アリストテレスの『ヌース(知性)』やプロティノスの『一者』といった概念が、あなたの理論の中で新たな生命を得るように感じられます。これは、単なる物理学の進展ではなく、人間存在そのものへの問いかけなのですよ」
ソフィアとの対話は、エレナにとって大きな刺激となった。彼女は、自分の探求が孤独なものではないことを確信した。そして、この危機が、人類にとって新たな知の地平を切り開くきっかけになるのかもしれない、という予感さえ抱き始めていた。
エレナのメリディアン仮説は、学会だけでなく、一般社会にも波紋を広げ始めた。メディアはセンセーショナルにこの仮説を取り上げ、科学者、哲学者、宗教家、そして一般市民の間で、活発な議論が巻き起こった。ある者はそれを希望の光と捉え、ある者はそれを危険な疑似科学と断じた。
そんな中、エレナは、自身の身体が発する微細なサインにも注意を払っていた。自転減速が公表されてから、彼女の月経周期は僅かに不規則になり、PMS(月経前症候群)の症状も以前より強く感じられるようになっていた。頭痛、気分の落ち込み、そして奇妙な夢。それは単なるストレスのせいかもしれない。しかし、メリディアン仮説を提唱した彼女にとって、自分自身の身体と意識の変化は、地球規模の変動と無関係ではないように思えた。
彼女は、毎朝の日課である短い瞑想の時間を少し長くした。窓辺に座り、地中海から昇る朝日を浴びながら、呼吸を整え、自身の内なる声に耳を澄ませる。サンスクリット語のマントラを静かに唱え、意識を宇宙の広がりへと解き放つ。それは、科学者としての分析的な思考とは異なる、もう一つの知性へのアクセス方法だった。
メリディアン仮説は、まだ証明されていない。しかし、それは既に人々の心に種を蒔き、新たな問いを生み出し始めていた。地球の鼓動がゆっくりと変化していく中で、人類の意識もまた、新たな覚醒の時を迎えようとしているのかもしれない。エレナは、その最前線に立ち、未知なるものの探求を続ける覚悟を新たにしていた。