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第2章:グリーンラインの誓い

 エレナが最初に異常を検知してから数週間後、事態は彼女の不吉な予感を裏付けるかのように急速に動き出した。地中海沿岸諸国の観測施設で構成される「地中海観測網メディ・ネット」が、地球の自転速度に統計的に有意な偏差が生じていることを公式に確認したのだ。データはエレナの観測と完全に一致しており、もはやセンサーの故障や局所的な現象として片付けることは不可能だった。


 キプロス政府の反応は迅速だった。この小さな島国は、2038年の東地中海における巨大天然ガス田発見以来、エネルギーとテクノロジーのハブとして国際的な地位を確立していた。2040年代には再生可能エネルギーと量子エネルギー研究の中心地となり、その技術力は世界でもトップクラスと目されていた。さらに、長年の懸案だった南北分断問題も、2040年代後半に統一合意がなされ、象徴的な意味では解消されていた。政治体制も「テクノ民主制」へと移行し、AIアドバイザーが人間の意思決定を補佐する混合民主主義が機能していた。このような背景が、危機への迅速な対応を可能にしたのだろう。


 直ちに「キプロス緊急対応チーム(CERT)」が結成され、エレナとイスマイルはその中核研究チームのメンバーとして招集された。彼らの専門知識――エレナの量子物理学と宇宙論、イスマイルのニューロテクノロジーとシステム分析――は、この未知の脅威に対処するために不可欠と判断されたのだ。


 緊急対応本部は、ニコシアの旧市街を南北に分断していた「グリーンライン」――かつての国連緩衝地帯――に設置された。そこには、最新の設備を備えたプレハブ式の研究施設や会議棟が急ピッチで建設され、かつての分断の象徴だった場所が、今度は国家的な危機に立ち向かうための「統一対応」のシンボルへと変貌を遂げようとしていた。エレナは、この場所に本部が置かれたことの歴史的な皮肉と、そこに込められた未来への希望を同時に感じていた。


 チームの最初のブリーフィングは、張り詰めた空気の中で行われた。CERTの責任者である国家安全保障担当大臣の重々しい説明の後、キプロス政府が誇る戦略AIアドバイザー「アキレス」による状況分析がスクリーンに映し出された。アキレスは、量子処理と従来型アーキテクチャを組み合わせたハイブリッドAIで、その予測能力と戦略立案能力は極めて高い評価を得ていた。


 アキレスが示した分析結果は衝撃的だった。現在の減速ペースが続けば、地球の自転は5年以内に完全に停止する可能性が高い。そして、アキレス自身が複数のシミュレーションモデルを統合して算出した「最も確からしいシナリオ」では、完全停止までの猶予は約3年――。


 会議室は水を打ったように静まり返った。3年。それは、あまりにも短い時間だった。エレナは、隣に座るイスマイルの顔を盗み見た。彼の表情は硬く、こめかみのインプラント接続部が微かに青白い光を点滅させているのが見えた。彼もまた、この事態の深刻さを全身で受け止めているようだった。


 エレナにとって、この緊急対応チームへの参加は、自身の研究が現実世界の危機と直結するという、重い責任感を伴うものだった。彼女は普段、白衣ではなく、動きやすさと美的感覚を両立させた服を好んだ。今日も、深いインディゴブルーのシルクのブラウスに、ベージュのワイドパンツという出で立ちだった。ブラウスの袖口には繊細な刺繍が施され、彼女の知的な雰囲気の中に柔らかな女性らしさを添えている。首には、母親から譲り受けたという小ぶりな金のロケットペンダント。それは彼女にとって、家族との繋がりと、守るべきものへの想いを象徴するお守りのような存在だった。


 ブリーフィングの後、エレナとイスマイルは、割り当てられた研究室で二人きりになった。窓の外には、慌ただしく動き回る作業員たちの姿が見える。


「3年か……」


 イスマイルが重い口調で言った。


「アキレスの予測は、通常、かなり正確だ。我々が思っている以上に、事態は深刻なのかもしれない」


「ええ」


 エレナは頷いた。


「でも、イスマイル、これは単なる物理的な問題だけではない気がするの。アキレスは物理現象の予測は得意だけれど、もっと別の……何かを見落としている可能性があるんじゃないかしら」


「別の何か、とは?」


 イスマイルは訝しげに眉を上げた。


「例えば……意識よ。私たちの意識、あるいはもっと大きな……宇宙的な意識と、この自転減速が何らかの形で繋がっているとしたら?」


 エレナの言葉に、イスマイルは一瞬言葉を失った。彼の合理的な精神は、そのような飛躍した考えを受け入れ難いと感じているようだった。しかし、彼はエレナの直観力を誰よりも知っていた。


「エレナ、君のその発想は、確かにユニークだ。だが、それを科学的に検証する方法はあるのか? 意識と惑星の自転を結びつけるなんて、まるで神秘主義じゃないか」


「そうかもしれないわ。でも、私たちはまだ何も知らないのよ。この『ブレーキング・フィールド』についても、その正体は謎のまま。既成概念に囚われず、あらゆる可能性を検討すべきだと思うの」


 エレナは力強く言った。彼女の瞳は、不安の中にも確固たる意志の光を宿していた。その真摯な眼差しに、イスマイルは僅かに心を動かされた。彼は、エレナの着ているブラウスの深い青色が、彼女の瞳の色とよく似合っていることに、ふと気づいた。それは、地中海の深い海の色であり、無限の可能性を秘めた宇宙の色でもあった。


「分かった。君のその『別の何か』という視点も、頭の片隅には置いておこう。だが、当面は、この減速現象の物理的メカニズムの解明と、それに対する具体的な対策の立案が最優先だ」


「もちろんよ。私も物理学者だもの。現実的なアプローチを疎かにするつもりはないわ」


 エレナは微笑んだ。彼女とイスマイルは、考え方もアプローチも異なるが、互いの専門性を尊重し、補い合うことができる良きパートナーだった。


 その夜、エレナは自室で、古代ギリシャの哲学者たちの著作を読み返していた。ヘラクレイトスの「万物は流転する」という言葉。パルメニデスの「存在は不動である」という逆説。これらの言葉が、今、新たな意味を持って彼女の心に響いてくる。地球の自転という、永劫不変と思われたものさえもが変化し始めている。この変化は、一体何を意味するのだろうか。


 彼女は、窓辺に置かれた小さなハーブの鉢植えに目をやった。ローズマリーの清涼な香りが、部屋に漂っている。彼女は時折、月経周期に合わせてハーブの香りを使い分ける。今は、集中力を高め、精神を安定させるローズマリーが心地よかった。この香りが、複雑な問題を解きほぐす助けになるような気がした。


 グリーンラインに設置された緊急対応本部は、昼夜を問わず活動を続けていた。キプロス島が、そして地球全体が、未知の運命へと向かって、ゆっくりと、しかし確実に舵を切り始めている。エレナは、その最前線に立つ者として、全力を尽くすことを心に誓った。


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