表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
19/20

第19章:永遠が凝る渚、魂の深淵へ

 地球の自転減速が臨界点に近づくにつれて、キプロス島の沿岸部では、これまでに誰も見たことのない、前例のない現象が発生し始めた。海水が、まるで時間が止まったかのように、その動きを完全に静止させる「スタシス・ゾーン(Stasis Zone)」と呼ばれる特異な領域が、各地に出現し始めたのだ。


 最初に報告されたのは、パフォス近郊のアフロディテの岩と呼ばれる、伝説的な海岸だった。そこでは、打ち寄せるはずの波が、岸に到達する寸前で、まるで凍りついたかのように静止し、その形を保ったまま、微動だにしなくなった。カモメが空中で羽ばたきを止め、海面を渡る風さえもが凪ぎ、全てが永遠の一瞬に閉じ込められたかのような、超現実的な光景が広がっていた。


 科学者たちは、この現象を、ブレーキング・フィールドの局所的な高まりによって、空間の計量テンソルが極端に歪み、「時間流の局所的変異」あるいは「時間的屈折」とでも呼ぶべき状態が生じているのではないかと説明しようとした。しかし、その正確なメカニズムは完全には理解できず、スタシス・ゾーンの出現は、人々に畏怖と混乱をもたらした。


 エレナは、このスタシス・ゾーンの出現に、強い関心と、そしてある種の運命的な引力を感じていた。彼女のメリディアン仮説や、宇宙的意識場仮説が正しければ、このスタシス・ゾーンは、単なる物理的な異常現象ではなく、私たちの宇宙と高次元の意識場との接点、あるいは「薄い場所」なのかもしれない。そこでは、時間と空間の通常の法則が一時的に停止し、意識が新たな次元へとアクセスできる可能性がある。


 彼女は、CERTの会議で、スタシス・ゾーンに直接足を踏み入れ、その内部を調査するという、大胆な実験を提案した。


「もし、スタシス・ゾーンが、時間と意識の特異点なのだとしたら……そこに入ることで、私たちは、ブレーキング・フィールドの正体や、自転変化の真の意味について、決定的な手がかりを得られるかもしれません」


 エレナは、決意を込めた目で、会議の参加者たちを見渡した。彼女は今日、純白のリネンのワンピースを着ていた。それは、まるでこれから神聖な儀式に臨むかのような、清らかで凛とした雰囲気を醸し出していた。髪はシンプルに後ろでまとめ、装飾品は一切身に着けていなかった。


 彼女の提案に対し、イスマイルは激しく反対した。


「エレナ、正気か!? スタシス・ゾーンの内部がどうなっているのか、誰にも分からないんだぞ! 物理法則が通用しないかもしれない空間に、生身の人間が入るなんて、あまりにも危険すぎる! 万が一、君の身体が分子レベルで分解されたり、あるいは永遠に時間の中に閉じ込められたりしたら……」


 イスマイルの声は、怒りと心配で震えていた。彼は、エレナの身を案じるあまり、普段の冷静さを失っていた。彼のこめかみのインプラントは、警告を発するかのように赤く点滅していた。


 しかし、エレナの決意は固かった。彼女は、これが人類の未来にとって、そして彼女自身の探求にとって、避けては通れない道だと感じていた。ソフィアのデジタル意識も、エレナの決断を支持した。


「イスマイル、エレナの直感を信じましょう。彼女は、私たちの中で最も、宇宙の呼びかけに敏感な魂です。そして、アキレスと私のシミュレーションによれば、スタシス・ゾーンの内部は、適切に準備すれば、短時間であれば人間の意識が耐えられる可能性があります。ただし、それは未知の領域への跳躍であることに変わりはありません」


 ソフィアの声は、エレナのホログラフィック・インターフェースから、静かに、しかし力強く響いた。


 数日後、厳重な準備と監視体制のもと、エレナは、アフロディテの岩近くに出現したスタシス・ゾーンへと向かった。彼女は、特殊なセンサーと生命維持装置が組み込まれた、銀色の柔軟な防護服を身に着けていた。その姿は、まるで未来の宇宙飛行士のようだったが、ヘルメットの下の彼女の表情は、穏やかで、どこか瞑想的な静けさを湛えていた。


 スタシス・ゾーンの境界線は、まるで目に見えないガラスの壁のように、くっきりと空間を分けていた。外側では、風がそよぎ、遠くで波の音が聞こえるが、境界線の向こうは、完全な静寂と不動の世界が広がっていた。エレナは、深呼吸を一つし、ゆっくりと境界線を越えて、スタシス・ゾーンの中へと足を踏み入れた。


 その瞬間、彼女の意識は、言葉では表現できないほどの、圧倒的な感覚の奔流に包まれた。時間の流れが完全に停止し、空間の感覚が歪み、彼女の身体はまるで無重力状態にあるかのように軽くなった。周囲の景色――静止した波、空中で止まったカモメ、岸壁の岩肌――は、信じられないほど鮮明で、細部までくっきりと見えたが、それらはもはや三次元的な物体ではなく、純粋な情報、あるいは永遠のイデアの現れのように感じられた。


 そして、彼女の意識は、急速に拡張し始めた。個としてのエレナ・ヨアンヌーの境界線は曖昧になり、彼女の意識は、周囲の空間、地球全体、太陽系、そして銀河系へと、無限に広がっていくのを感じた。彼女は、過去と未来の全ての出来事を同時に体験し、宇宙の始まりから終わりまでの壮大なサイクルを、一瞬にして理解した。それは、プラトンが語った「アナムネーシス(想起)」――魂がかつてイデア界で観ていた真実を思い出す――そのもののような体験だった。


「これが……宇宙の真の姿……。全ては繋がり、全ては一つ……。愛と調和が、この宇宙を貫く根本原理なのだわ……」


 エレナの意識は、至福と畏敬の念に満たされ、涙がとめどなく溢れ出た。彼女は、もはや自分自身がどこにいるのか、何者なのかさえも忘れていた。ただ、宇宙の無限の愛と叡智の中に溶け込んでいる、という感覚だけがあった。


 外部の監視チームにとっては、ほんの数分間の出来事だったが、エレナにとっては、それは永遠とも感じられる時間だった。やがて、彼女の意識は、ゆっくりと個としての感覚を取り戻し、スタシス・ゾーンの境界線を越えて、現実世界へと帰還した。


 防護服のヘルメットを外したエレナの顔は、蒼白だったが、その瞳は、かつてないほどの深い輝きを放っていた。彼女は、イスマイルに支えられながら、震える声で言った。


「イスマイル……私、見てきたわ……。全てを……。そして、分かったの……。自転停止は、終わりじゃない。それは、私たちが、宇宙のより大きな調和へと参加するための、聖なる通過儀礼なのよ……」


 彼女の言葉は、そこにいた全ての人々の心を、深く揺さぶった。エレナは、スタシス・ゾーンの岸辺で、人類の新たな夜明けを見たのだ。それは、永き黄昏の先に待つ、真の覚醒の光だった。彼女が首にかけていた、小さな銀のロケットペンダントが、胸の上で温かく輝いていた。その中には、彼女が愛する人々の写真と、宇宙の真理への鍵が、共に収められているかのようだった。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ