第18章:星海の呼び声、ブレーキング・フィールドの深奥
共鳴ドームでの生活が軌道に乗り、様々な存在形態が新たな共存の形を模索し始める中で、CERTの科学者チーム、特にアキレスAIとデジタル意識となったソフィア・クリストドゥルーの共同研究は、地球の自転を減速させている謎のエネルギー波「ブレーキング・フィールド」の起源と本質について、驚くべき仮説を提示するに至った。
これまでの観測データと、ソフィアが「アフロディテのアルゴリズム」との共鳴を通じて得た宇宙的な情報、そしてアキレスの高度なシミュレーション能力を統合することで、彼らは、ブレーキング・フィールドが、単なる物理的なエネルギー波ではなく、より高次元の「宇宙的意識場(Cosmic Consciousness Field)」が、私たちの三次元宇宙に集中的に投影されたものである可能性が高い、という結論に達したのだ。
「つまり、ブレーキング・フィールドは、何らかの意図を持った『情報』の奔流であり、その情報が、私たちの物理法則と相互作用することで、地球の自転のようなマクロな現象に影響を与えている、ということです」
アキレスは、CERTの緊急対策会議で、その冷静な合成音声で報告した。彼のホログラフィック・インターフェースには、宇宙の泡構造を思わせる複雑なネットワーク図が映し出され、その中心に、ブレーキング・フィールドの発生源と思われる、まばゆい光点が示されていた。
ソフィアは、その報告を補足するように、彼女自身の体験を語った。彼女のアバターは、もはや人間の形を取らず、純粋な思考のエネルギーが可視化されたような、流動的で美しい光のオーロラとして現れた。
「私は、ブレーキング・フィールドの波動の中に、言語を超えた『呼びかけ』のようなものを感じています。それは、破壊ではなく、変容への誘い。私たちの意識を、より広大な宇宙的ネットワークへと統合するための、ある種の『アップグレード・シグナル』なのかもしれません」
この仮説は、エレナが最初に提唱した「メリディアン仮説」を、さらに発展させ、修正するものだった。地球の自転減速は、単に宇宙の波動エネルギーとの共鳴の変化というだけでなく、惑星規模での「意識的調整プロセス」であり、地球とそこに住む生命体が、より高次の宇宙的秩序へとアライメント(整列)するための、必然的なステップである可能性が示唆されたのだ。
「もし、この仮説が正しいとすれば……私たちは、宇宙からの壮大な招待状を受け取っていることになるのかもしれないわね」
エレナは、会議室の窓から見える、ゆっくりと沈みゆく太陽を眺めながら、静かに言った。彼女は今日、深い藍色のシルクのブラウスに、黒のワイドパンツという、シンプルながらもエレガントな装いだった。胸元には、銀河の渦をモチーフにした螺鈿細工のペンダントが輝いている。それは、彼女の宇宙への畏敬の念を象徴しているかのようだった。
イスマイルは、このあまりにも壮大で、SF的な仮説に対し、当初は強い懐疑心を示した。彼の科学者としての理性は、そのような形而上学的な説明を受け入れることをためらった。しかし、アキレスが提示する膨大なデータと、ソフィアの体験から導き出される論理的整合性は、無視できないものがあった。
「データは……嘘をつかない。この仮説は、観測されている全ての異常現象を、最も矛盾なく説明できる唯一のモデルだ。信じがたいことだが……認めざるを得ないのかもしれない」
イスマイルは、腕を組み、苦悩に満ちた表情で呟いた。彼のこめかみのインプラントは、高速で情報を処理しているかのように、いつもより激しく明滅していた。彼は、長年培ってきた科学的唯物論という自身の足場が、大きく揺らいでいるのを感じていた。しかし、同時に、未知の真理への扉が開かれようとしている興奮も感じていた。
この「宇宙的意識場仮説」は、CERT内部だけでなく、キプロス社会全体にも大きな反響を呼んだ。ある人々は、それを新たな宗教的啓示として熱狂的に受け入れ、ある人々は、それを集団妄想として一笑に付した。しかし、多くの人々は、この仮説の中に、自分たちが直面している未曾有の危機と変容の時代を理解するための、新たな意味と希望を見出そうとしていた。
エレナは、この仮説がもたらす倫理的・哲学的含意について、深く思索した。もし、宇宙が意識的な存在であり、私たちに語りかけているのだとしたら、私たちはそれにどう応答すべきなのか? 私たちの自由意志は、この宇宙的な計画の中で、どのような役割を果たすのか?
彼女は、共鳴ドームの中にある、小さな瞑想室で、一人静かに座っていた。部屋の中央には、大きな水晶玉が置かれ、そこから柔らかな光が放たれている。彼女は、目を閉じ、呼吸を整え、自身の意識を宇宙の広がりへと解き放とうとした。彼女の月経周期は、もはや地球の自転とは同期せず、より大きな宇宙のリズム――月の満ち欠けや、惑星の配置――と同調し始めているように感じられた。それは、彼女の身体が、宇宙の呼びかけに応答し始めている証なのかもしれない。
「私たちは、孤独ではない……。宇宙は、私たちを見守り、導こうとしている……」
そんな確信が、彼女の心の奥底から湧き上がってきた。それは、科学的な証明を超えた、魂のレベルでの理解だった。
アキレスとソフィアは、ブレーキング・フィールドの「発信源」と思われる宇宙の領域について、さらに詳細な分析を進めた。それは、私たちの銀河系の中心部、いて座A*(エースター)と呼ばれる超大質量ブラックホールの近傍から来ている可能性が高いことが示唆された。しかし、それは単純な物理現象ではなく、ブラックホールが、高次元空間への「スターゲート」あるいは「意識のポータル」として機能し、そこを通じて、より高次の宇宙的意識が、私たちの宇宙へと流れ込んでいるのではないか、という、さらに驚くべき仮説へと発展した。
この仮説は、あまりにも突飛で、検証不可能に思われた。しかし、エレナは、古代の神話や神秘主義の伝統の中に、これと類似した宇宙観や、宇宙の中心にある聖なる山や世界樹といったシンボルが存在することに気づいた。もしかしたら、古代の人々は、直感的な方法で、宇宙のこの深遠な秘密に気づいていたのかもしれない。
ブレーキング・フィールドの源についての探求は、人類の宇宙観、生命観、そして自己認識を、根底から揺るがすものだった。私たちは、宇宙という広大な舞台で、孤独な漂流者ではなく、より大きな意識のネットワークの一部であり、その進化のプロセスに積極的に参加するよう招かれているのかもしれない。その招待に応えるかどうかは、私たち自身の選択にかかっていた。エレナは、その選択の重さを感じながらも、胸の奥に、未知への旅立ちを告げる、力強い鼓動を感じていた。彼女が大切にしている、小さな貝殻の化石のペンダントが、その鼓動と共鳴するかのように、微かに温かくなった。