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第11章:石の声、アフロディテの脈動

 地球の自転減速がさらに進行し、キプロス島全体が未知の領域へと足を踏み入れつつあった2060年の後半。人々の意識に変容をもたらした「青い時間」や「分岐する現実」の知覚に続き、今度は島の物理的な環境、特に古代遺跡群において、不可解な現象が報告され始めた。それは、まるで島そのものが、太古の記憶を呼び覚まそうとしているかのようだった。


 最初の報告は、パフォス考古学公園からもたらされた。ここは、ディオニュソスの館やテセウスの館など、見事なモザイク画で知られるローマ時代のヴィラ遺跡群が広がる世界遺産だ。ある夜、公園の警備員が巡回中、普段は月明かりに静まり返っているはずのモザイク画が、内側から淡い青白い光を放っているのを目撃したのだ。光は数分間続き、その後、何事もなかったかのように消えたという。


 当初、この報告は警備員の目の錯覚か、あるいは何らかの自然現象(例えば、特定の鉱物が月の光に反応して燐光を発する等)ではないかと考えられた。しかし、同様の現象が、島の他の古代遺跡――クリオンの円形劇場、サラミスのギュムナシオン、ヒロキティアの円筒形住居跡など――でも次々と報告されるに及び、CERTは本格的な調査に乗り出すことになった。


 エレナは、この調査チームのリーダーに任命された。彼女の古代ギリシャ哲学や宇宙論への造詣、そしてメリディアン仮説が、この現象の解明に不可欠だと判断されたからだ。彼女は、考古学者、地質学者、そして量子物理学の専門家からなるチームを編成し、パフォスの遺跡群へと向かった。


 パフォスの遺跡に到着したエレナは、その荘厳な雰囲気に改めて心を打たれた。数千年もの間、風雨に耐え、歴史の変遷を見つめてきた石柱やモザイク。それらが今、新たな謎を投げかけている。彼女は、今日、カーキ色のリネンのサファリジャケットに、同色のパンツ、そして丈夫なトレッキングブーツという、フィールドワークに適した服装を選んだ。髪は後ろで一つに束ね、日差しを避けるためにパナマ帽を被っている。首には、双眼鏡と、小さな地質調査用のハンマーを提げている。その姿は、まるで冒険に挑む探検家のようだったが、彼女の瞳の奥には、冷静な科学者の分析眼が光っていた。


 チームは、遺跡の各所に高感度センサーを設置し、発光現象の再現を待った。そして数日後の夜、彼らはついにその瞬間を目撃した。ディオニュソスの館の床を飾る、神話の場面を描いた広大なモザイクが、まるで内側から生命を吹き込まれたかのように、幽玄な青白い光を放ち始めたのだ。光は、モザイクのテッセラ(小片石)の一つ一つから発せられ、全体として複雑なパターンを描きながら、ゆっくりと明滅している。


「信じられない……これは一体……?」


 同行していた若い考古学者が、息を飲んで呟いた。エレナもまた、その神秘的な光景に言葉を失った。それは、科学では説明できない、何か根源的な力の発露のように感じられた。


 詳細な分析の結果、驚くべき事実が判明した。遺跡の石灰岩や、モザイクに使われている特定の鉱物が、地球の自転減速に伴って変化しつつある地磁気の微細な変動や、宇宙から降り注ぐ未知の素粒子(おそらく「ブレーキング・フィールド」に関連するもの)と共鳴し、特定の周波数でエネルギーを放出していることが分かったのだ。そして、その共鳴周波数は、アキレスAIの解析によれば、「青い時間」を体験している人間の脳波パターンと、驚くほど高い相関性を示していた。


「つまり、これらの古代遺跡は、巨大なアンテナか、あるいは共振器のような役割を果たしているのかもしれないわ。地球の変化と、私たちの意識の変化を、媒介し、増幅する……」


 エレナは、仮設テントの研究室で、データを見ながら推論を述べた。彼女の顔は、夜を徹しての作業で少し疲れていたが、その瞳は興奮で輝いていた。彼女は、傍らに置かれたマグカップから、ローズヒップとハイビスカスのブレンドティーを一口飲んだ。その酸味と鮮やかな赤い色が、彼女の疲れた心身をシャキッとさせてくれる。


 キプロス島全土の古代遺跡で、同様の共鳴現象が次々と確認されるに及び、研究者たちの間では、島全体が一種の巨大な「共鳴ネットワーク」を形成しているのではないか、という仮説が浮上してきた。それぞれの遺跡がノードとなり、互いに目に見えないエネルギーのラインで結ばれ、地球規模の変化と同期して振動している。それは、まるで古代の人々が、無意識のうちに、あるいは何らかの失われた知識に基づいて、この島をそのような「聖なる装置」として設計したかのようだった。


 ソフィアのデジタル意識もまた、この遺跡の共鳴現象に強い関心を示した。彼女は、CERTのネットワークを通じて、各遺跡に設置されたセンサーからのデータをリアルタイムで受信し、その複雑なパターンを解析し始めた。


「エレナ、これらの遺跡から発せられるエネルギーパターンは、単なるランダムなノイズではありません。そこには、高度な数学的秩序と、まるで音楽のような調和が隠されているように感じられます。それは……古代の叡智が、現代の私たちに語りかけているのかもしれません」


 ソフィアのアバターは、パフォスのモザイク画を背景にした仮想空間に現れ、その指先からは光の糸が伸びて、モザイクのパターンと共鳴するエネルギーの流れを視覚化していた。彼女の姿は、まるで古代の巫女が神託を解読しているかのようだった。


 エレナは、パフォスの遺跡を歩きながら、アフロディテの伝説に思いを馳せた。この地は、愛と美の女神アフロディテが海から生まれた場所とされる。彼女にとってアフロディテは、単なる神話の登場人物ではなく、宇宙の創造的エネルギーや、異なるもの同士を結びつける調和の力の象徴だった。この遺跡の共鳴は、アフロディテの古代の記憶が、現代に蘇ろうとしている兆しなのではないだろうか。


 彼女は、モザイクの一つにそっと手を触れた。数千年の時を経た石の冷たさと、そこから微かに感じられるエネルギーの振動。それは、過去と現在、物質と精神、地球と宇宙が、一つの壮大なシンフォニーの中で共鳴し合っていることの証のように思えた。


 月経が近づき、エレナの感受性は普段よりも研ぎ澄まされていた。彼女は、遺跡から発せられる微細なエネルギーを、まるで肌で感じ取れるかのようだった。それは、時に心地よい振動として、時に胸を締め付けるような強い波動として、彼女の身体と意識に流れ込んできた。彼女は、遺跡の一角に座り込み、静かに目を閉じて瞑想を始めた。古代の石の声に耳を澄ませ、そのメッセージを解き明かそうと、意識を集中させた。彼女が首にかけていた、小さな貝殻を繋いだネックレスが、胸元で微かに揺れていた。それは、地中海の浜辺で拾ったもので、海の記憶と生命の神秘を象徴しているかのようだった。


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