7話 同族殺し
とある会社内で男はため息をついた。
(禁煙をしてから9年…か)
口が恋しい。
煙がほしい。
食べ物がおいしく感じない。
そんな不満を心に浮かべながら、眉間に皺を寄せた。
(最近、ストレスが溜まってる)
それもこれもあいつのせいだ、と。
部屋の中で誰かが騒いでいる。
高い声を部屋中に響かせている。そのくせ声は拙い。
ときどき言葉をつっかえる様は逆に見ていて虚しくなるくらいだ。
彼は…部屋で騒いでいる豚は怯えているのだ。恐怖しているのだ。
なぜならーーー
(なぜなら殺人事件が3件も続けてあったから、だ)
ステファンは再度、ため息をついた。
どうしたものか考えてもわからない。
殺人事件というよりはあれは人食い事件。
そんなものがオフィスで3件も、この1か月の中で起きて動じないほうがおかしいのかもしれない。
「誰だっ!? ここにいるんだろっ!? なんで5人も人が死ぬんだっ!?」
「全員、手を頭の後ろに…組んで 伏せろっ!? 抵抗するな…よっ!?」
豚は銃を向けて脅した。
片方の手にはライターの火が揺れている。
ああ、恐い、とステファンは思う。
下手な銃ほど恐ろしいものはない。
下手な運転手の横に座るほど恐ろしいものがないのと似ている。
そんなことをステファンは思った。
(殺されたのは5人だったか…)
3件だと思っていたが、もう5件なのか?
今度のやつは大食いだな、とそんなことを思った。
(禁煙を初めて9年…)
(9年以上も吸っていないということだ…)
(9年も耐えてきたというのに、今は吸いたくてたまらない)
(ストレスのせいだ)
(そういや9年も人を食べていない…)
「いるだろ、ここにっ! 吸血鬼が…! 人食いの化物め」
最後の言葉はすらりと出てきた。
化物。それは本心なのだろう。
「指を噛み切ろっ…」
その言葉に並んでいた周囲がぎょっとした。
(理論上は可能だ)
人の顎の力は70N以上。本気を出せば指ごとき、嚙みちぎれる。
だが。
(誰がそんなことするかよ、バーカ)
10人中10人の人がそんなことできるわけがないのだ。
銃で脅されてやっとできるんじゃないか?
「吸血鬼は…ちぎれた指すら再生すると聞く…わかるはずだ…人狼の正体が」
(手を頭の上に置け、今度は指を噛み切れ…か。要領が悪いな)
はぁ…とため息をついた。
ステファンはちょっと失礼、と言い、隣の上司のポケットに手を突っ込む。
「メビウスかあ…」
ピースがよかったな、平和なだけに、と思いながら。
今の状況も9年前の自分が振り返れば平和の範囲内だと嗤うだろう。
(実際、なにも困ってないしなぁ…)
攻撃を受けているわけではない。
見えない敵に追い込まれているわけでもない。
穏やかな日常。
メビウス(煙草の種類)を吸い出す。
(メビウスの輪…)
メビウスの輪ってなんだったっけな、と思いながらステファンは煙草を吸い出す。
煙が肺に貯まったとき、すべてのストレスから解放された気分がした。
(穏やかな日常…?)
我慢してばかりな気がする。
そういう意味では穏やかではない。
我慢して穏やかで平和な日常を送るくらいなら、危険のほうがまだマシか…?
「おいっ…」
となりのやつが小さく声を漏らす。
その表情や声音は切迫としているが、俺にはどうしてだか他者に共感できない。
人の気持ちは論理的にはわかるのに、どうにも他人事に見えてしまう。
(実際、他人事だがな)
ステファンはゆったりとした動作で歩を進める。
「ひっ…!?」
途中で怒号と銃口を向けられたが、逆に威圧した。
ステファンは自身の席に座ると、引き出しからランチボックスを取り出す。
パンにレタスとトマトを挟んだサンドイッチとスパム缶。
(俺は9年間、人肉も食べていない…)
(こんな豚や牛の肉で我慢している…)
缶詰を開けるのに必要なもの。それは缶切りだ。
「吸血鬼を見極める方法…」
ステファンはゆっくりとそう言い終わると、自身の爪を缶切りで取った。
人差し指の爪が床に落ちる。
「指を噛み切るなんて無理がある。指は生えてこないからな」
ステファンは缶切りを差し出す。
「ひとりずつ、爪を剥がして調べろ」
ステファンは剥がれた自身の爪を凝視する視線を感じ、顔を向けると上司が頬を引きつらせてドンびいていた。
(この会社でいつものような毎日を送るのはもう無理だな)
違うな、と自身が見当はずれな予想をしていたことに気づいた。
彼がドンびいているのはステファンの人間性にではない。吸血鬼性だ。
ステファン自身も驚いた。
自分の爪が回復していることに。
長らく人肉を食べていなかったので、自分の爪が回復しているとは思わなかったのだ。
「吸血鬼ならば、俺のようにか瞬時に治癒するはずだ」とステファンは気高くそう言った。
「おおお…おまえが人食いだったのかっ!?」
ステファンは拳銃を向けた手を怒りと恐怖で震わせる男を一瞥すると、腕ごと捻り上げ、うるさい喉を潰した。
「誤解しないでほしいが…」
言い切る直前、ステファンは気づく。
周囲の理性は喪失していることに。
「ーーーー無理だろうな。吸血鬼は俺の推定だと10人中2人はいる。この会社の規模を考えれば5人はいるはずだ。俺を除いて4人。俺は自身の潔癖を証明したい。誰が人喰いか見極めようじゃないか」
「5人ってことは…5人死んだんだっ…ひとり、ひとつずつ食べててもおかしくないだろっ…おまえだって人食いだろうっ!?」
怒鳴り散らす同僚のひとりにステファンは歩を進めた。
「人が人を殺す。吸血鬼である必要はない。ーーーー誰もが無自覚に恨まれている。そう思わないか」
ステファンは缶切りで相手の爪をひとつずつはぎとる。
まるで悲鳴など聞こえていないかのように、流暢にステファンは続ける。
「生産性が低いが給料は高い。デブで不清潔で不潔臭がする。大声で怒鳴り散らして耳障り。食事は口を開けて喰い汚いーーーーー人が人を殺すこと自体はおかしなことじゃない。吸血鬼かどうかなんて関係がない。強いていえば力の差くらいだが。そんなものは努力でなんとかなる」
まぁ、だがあれは、とステファンは断言する。
「吸血鬼の仕業だな。もちろん俺ではないがな。俺はあんな禁煙、人を喰うこともやめた。あんな汚い喰い方をするのは俺ではないな」
俺は潔癖なんだ、とステファンは付け加える。
ちょうどすべての爪を剥がしおえたーー足を除いて。
10本の爪を剥がす必要など、本来はないはずだが、これはステファンの私怨だ。
「さて、暴き出そうじゃないか…人殺しを」
ステファンは疲れを紛らわすために微笑みを自ら浮かべた。それはステファンにとってはいつもと同じ、会議前の疲れを紛らわすための笑顔であったが。
周囲は、その歪んだ邪悪な笑みに恐怖した。
ステファンの5つ銀河から名前をとりました。
特に意味はありません。
銀河系のニュースがたまたま目に入ったからです。
5つ子いいですよね。
ブラックな話ができそう…。