はじまりはこころ
夕焼けが綺麗な時間。
人の気配で少しだけザワついた館内。
いつものように受付で借りていた本を返し、次の物語を探しに行く。
私はこの瞬間が大好きだ。
沢山の本が詰まった棚は宝石よりも輝いて見え、その度に高揚感を感じる。
私のまだ知らない人生がそこには沢山ある。
他の誰かの人生をこっそり覗いている気分で少しくすぐったくもあるけれど、有り余る好奇心を前にそれは無力だ。
今日は、メインスペースから少し離れた場所にある棚に宝探しに行こうと思う。
そういえばこの棚の本はあまり借りたことがなかったな…
一段上がった少し狭いスペース。少し埃っぽかった。
けれど、窓の光をほんのわずかだけ受け入れているそこは、その古臭さが返って心地良く感じる。
本当の宝探しに来たみたい!と、上がった口角と軽い足取りに、私は本当に本が好きなのだと改めて実感する。
今日はどんな物語を持ち帰ろうか。
棚の上の方を見上げながらゆっくりと歩く。
その時、バサッッという音と共に、足元に微かな振動を感じた。
驚いて振り返ると、一冊の本が床に落ちていた。
「え…どこから落ちたんだろう…」
もしや幽霊の仕業?なんて考えてしまうのは、きっと最近読んだ本のせいだろう。
私は現実的な性格で、それに幽霊なんて19年間見たこともなかったので、躊躇うことなく近づき本をを拾った。
私はすぐに違和感を覚えたが、なぜかその時はその違和感に気付かないふりをしていたみたいだ。
その本にはタイトルが無かった。あらすじも、出版社名も、作者名も。
途中にしおりが挟まっていたので、おもむろにそのページを開く。
珍しい横書きの小説だった。
まるで日記のような…
p.34
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鳥かごに入った鳥は無力らしい。
何も出来ない。声をあげられない。助けを求めることも、出来なかった。
「神様は不公平だ」と昔読んだ物語にあったけれど、本当にそうだと思う。
安心して帰れる場所が欲しい。
がむしゃらに夢を追う権利が欲しい。
努力する事も、上を目指すことも放棄したくせに、自分は十分頑張ったと言う。
自分にはその環境が無かったと言う。
その環境さえ掴もうとしなかったくせに…
そして、自分が見た景色をこの世界の全てだと錯覚している。
そんな、頭の固い、体温のない、あの人たちが嫌いだ。
もう私は飛べない。
そして、広い世界を知らない。
どこまで行けるかも、世界がどこまで続いているのかも。
全部知らない。
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その本には、少女だろうか、少年だろうか、それとも大人か。
私は直ぐにこの物語はフィクションでは無いと分かった。
誰が書いたか分からないが、誰かの心の叫びが必死に綴られていた。
きっとこの鳥は、作者自身だ。
「鳥かごの鳥…か…」
あなたは無力なのでは無い。と、伝えたい気持ちでいっぱいになった。
栞を戻して、本をパタンと閉じる。
この物語がどうしてこんなにも身近に感じるのか全く分からない。
まるで、私のすぐ側で誰かが必死に叫んでいるみたい…
助けて、と。
そこで私は、手紙をその本に挟んで置いておくことにした。
『はじめまして。
勝手に読んでしまってごめんなさい。
あまりにも他人事には出来なくて、こうして手紙を書いています。
良ければお友達になりませんか?
いきなり変ですよね…すみません。
来週の金曜日、夕方にまた来ます。
気持ち悪ければ無視してください。
ご迷惑でしたらすみません。お返事待ってます。』
少し厚かましいかとも思ったが、最後に『あなたはひとりじゃないです』とも書いておいた。
それから私は新しく本を2冊借りて家に帰った。
そうして、大学の課題と読書とアルバイトに追われながら、"来週の金曜日"を迎えた。
いつもより少し早く目覚めたその日は、時間の経過が遅かった。
大学の講義中も、珍しく何度も時計を見た。
あぁ、まだ夕方じゃないのか…と。
しかし、私が待ちに待った夕方は、その後意外と早くやってきた。
大学から図書館までの道も今日は少し遠く感じる。
初恋をした少女が今からデートに向かうような、そんな胸の高鳴りを覚えながら図書館に入った。
例の本棚へと緊張しながら向かう。
「あった…」
先週と同じ場所に同じ本が置かれていた。
私の口角と心拍数が上がっていくのが分かった。
さっと手に取り、栞のページを開く。
すると1枚、メモが挟まっていた。
綺麗に真四角に折られたそれを見る限り、相手は几帳面な人なのかもしれない。
そこには
『初めまして。
お手紙、ありがとうございます。そして読んでくださってありがとうございます。
ぜひお友達になりましょう。
そうですね。確かにひとりじゃないかもしれません。温かい気持ちになりました。』
と書かれていて、最後には"真希"と名前もあった。
真希さんと言うのか。綺麗な名前…
文字も大人びていて、きっと私と対称的な人なのだろう…
私はその場で返事を書いた。
『こんにちは。真希さん。
私は星凪と言います。お返事貰えて嬉しいです。』
そんな言葉から始まるありきたりな手紙。
でもそれが私たちの始まりだった。
そこからというもの、私たちは毎日手紙を交換した。
月曜日は私が、火曜日は真希さんが手紙を本に挟んで棚の下に置いておく、というように。
やり取りをしているうちに「真希さんに会いたい」という気持ちが大きくなったりもしたが、お互い「会いましょう」とは一言も言い出さなかった。
真希さんはどうかはわからない、けど私は言えなかった。今のままでいいと思ったからだ。
名前以外真希さんのことを何も知らないし、真希さんも私が星凪という名前であること以外何も知らない。
それでいい。
しかし運命というものは残酷で、会おうとしなくても互いを引き合せるものらしい。
私が大学の課題に苦戦した日、いつもより3時間ほど遅く図書館に向かった。
その日は金曜日。
私が本に手紙を挟む番だった。
もう外は暗く、ただでさえメインスペースから離れ薄暗い棚がより暗闇に溶け、上の方のタイトルは見えないくらいだった。
閉館まであと20分。なんとか間に合った。
本に挟まった手紙を抜き取り、自分が書いた手紙を挟む。
(時間も無いし…帰ってから読もう)
本を戻し帰ろうと棚に背を向け歩き出した時、早歩きでこちらに向かってきていた女性とぶつかってしまった。
段差のそばにある棚が死角となって全く見えなかった。
「すみません!全く気づかず…」
私が咄嗟に頭を下げると、相手も「こちらこそ!すみません…」と頭を下げた。
そして「失礼します」ともう一度軽く頭を下げ、奥の棚へ向かう。
最初は(この棚の本を探しに来るなんて珍しいな…)なんて思っていたが、すぐに違うと悟った。
そして勢いよく振り向くと、その女性は私がさっき挟んだはずの手紙を抜き取ろうとしていたところだった。
「真希さん…ですか…?」
気づけばそう聞いていた。
慎重派の私にとって、頭で考えるよりも行動が先行するのは珍しいことだった。
私の心臓の音が耳いっぱいに広がり、時間が普段よりもずっと遅く流れているように感じる。
もうこの図書館には私たちしかいない。
「もしかして、星凪さん?」
私はゆっくり頷く。真希さんは私と同じくらいの身長で、ショートカットが良く似合う綺麗な方だった。
「まさか実際に会っちゃうとは…私が今日来ちゃったせいなんですけどね」
すみません、と照れ笑いをした。
図書館の閉館時間を知らせる放送が響く。
私たちはしばらくの沈黙の後「少し話しませんか?」と真希さんの一言で、近くの海辺で話すことにした。
私が先に座って待っていると、小さな袋を下げた真希さんが横に座った。
「何が好きかよくわかんなくて…」
と差し出されたのはお酒で、思わず笑ってしまう。
「あの、私まだ19なんです。」
私がそう言うと「えっ、そうなの?」と、とても驚いていた。
「そっか〜、まだ未成年だったんだね。」
改めて、私たちがお互いを知らなすぎたことを実感する。
「じゃあこれあげる。一応と思ってジュースとお菓子もあるよ!」
「ココアだ!」
あからさまに喜ぶ姿に真希さんは「わかりやすいね」と言いながら笑った。
私は、少し子どもっぽかったかもしれない…と後悔した。
「私は22歳になったばっかりだよ。楯川大学の4年。」
「私は今年20歳になります。春桜大学の2年です。」
この時、私たちは初めて名前以外の情報を交換した。
「今年20歳?!すごいおめでたいじゃん!」
お祝いしなきゃね〜とお酒を飲む真希さんは、月明かりに照らされとても綺麗だった。
未成年から見た3つ年上のお姉さんというのは、とても大人に見える。
波音だけが二人の間にしばらく流れたので、少し緊張しながら
「楯川大学だとお家はこの辺ですか?」
と話題を振ってみた。
真希さんの通う大学は、図書館から6キロほど離れた場所にある。
ここから通うにも十分通える距離だ。
「うん、ひとり暮らしだから今度おいでよ。」
突然の事に言葉に詰まる。
そんな私を察してか、真希さんは大きく笑い
「そんな警戒しないでよ〜、なにも捕まえて食べたりなんかしないよ」
と言った。
捕まえて食べるって…
安心のさせ方が面白くて、つい笑ってしまう。
それを見て真希さんがもっと笑顔になった。
そうしてこう言った。
「やっと笑ったね。私、星凪ちゃんの笑った顔好きだよ。」
笑顔が好きだなんて初めて言われた。
私は少し熱を持った頬を自覚したので、もう左を向けなくなってしまった。
「見て!星が綺麗だよ。」
明るい声のトーンから、きっと真希さんは目をキラキラさせているに違いない。
そんな真希さんを思い浮かべながら私も空を見上げた。
今日は星が綺麗な日だった。