3話
リビングのテーブルの上、小さなランプが音を立てる。僕の手元にしか光はない。カララと鉛筆を転がし、ぼんやりと照らされる小さなメモ用紙を持った。
『おはよう、ナナさん。今日の朝はとても冷えるみたいだ。あったかくして過ごすんだよ?
ところで昨日、僕の親戚だと名乗る人が現れたんだ。どうやら生き別れた父親の弟さんらしい。僕の名前も誕生日も歳も、彼は知っていた。記憶はないけれど、でもビビッときたから合っていると思うんだ。きっと一緒に過ごしていくうちに色んなことを思い出すんだろう。とっても楽しみなんだ!
彼が早く会いたいと言っていたから、朝になる前にナナさんの家を出るつもり。落ち着いたら、また会いに行く。まだ恩を返せていないからね。元気でね、今までありがとう。』
自分で言うのもなんだが、僕の書く字は綺麗に整っている自負がある。忘れてしまった記憶の僅かに残る小さな断片の一つに、誰かが僕の字をとても褒めてくれたことを覚えている。でも、それだけ。場の情景も、褒めてくれた人さえ、頭から抜け落ちている。
改めて全文読み返す。思わず鼻で笑ってしまった。無駄に整った文字に見え見えの噓が重なって、凄く滑稽に見える。きっとこの紙のように、自虐行為に走り続ける僕の様子は誰から見ても狂っているのだろう。
やっぱり、僕は一人だった。
一瞬あの剣を思い出したが、罪悪感が簡単に潰していった。もう一回鉛筆を手に取る。
『どうか僕を忘れないで。』
そう書き終えた手は震えていて、字は大小を繰り返し斜めに下がっている。拙い、汚い、醜い文字。整然とした嘘と苦渋に満ちる本心が並んだ様は、目を背けたいほどアンバランスで。気付いた時には、僕はこんなに壊れて脆くなってしまった。
「……っ、やっぱり、おかしいんだ……」
ダメだ、抑えるんだ。どんなに見え透いた嘘だとしても、筋を通さないと。彼女を不安にさせるわけにはいかない。僕は不格好な十一文字を、力いっぱいの嘘で塗り潰す。胸の痛みを、長い溜息で誤魔化した。ランプを消して白いパーカーを羽織る。荷物がなくてよかった。靴を履いて後ろを振り返る。
皿を洗って、風呂に入って、本を読んで、寝て。起きたら朝食の香りと、おはようの声。幸せだった。二日間幸せだった。嫌な目で見られて最悪だ、なんて思っていた自分を殴りたい。僕は楽しくて優しくて温かい、この場所が大好きだ。
「ありがとう、さようなら」
深夜二時、三日目が始まった。扉を開けた先、冷えた風と闇。光なんてなかった。そんな景色が続くのだ。そう、ずっと
「んっ⁉」
手も足も、何もかも。動かない。
誰かに、捕まった?
あぁ、そうか、これが――暗殺――なのか。
僕は
そのまま
死んで――
――痛い、体が痛い。ゆっくりと目を開くと何かの影が揺れていた。体を起こす時の手の感触、硬くて冷たい……床か。左に窓がある。月は雲に隠れて、出てを反復する。影の揺れはこのせいか。
そもそも僕はなぜここに? あれ、僕……そうだ、誰かに捕えられたんだった……まだ生きてる⁉ 僕、生きてる、あぁ、よかった。
一番重要なことを思い浮かべて安堵、目が一気に覚めた。冴えた頭で周辺を探る。結構広い室内だ。でもこの感じ、どこかで見た気がする。
「納得いかない」
凛とした低い声が響いた。脳裏に過ぎる波長。コツ、コツと足音が近づいてくる。月光に近づく度、彼の影がくっきり現れ始める。高身長で脚長、小顔。波長は記憶の映像にシフトする。
「君は」
マイさんの隣にいた男。確か、名前はタクだったか。月が雲に隠れる。足音が止まった。
「どうしてお前はまだ生きている?」
また床を照らしだす。さっきまでなかった影が一つ。彼はそこにいた。
「力がなく、そのような境遇でなぜ生きている?」
彼は当然だろうと言いたげな顔をする。
「自分の身の安全も作れないのだろう。なら生きている意味もない。だから納得いかないのだ、理由を述べろ」
怒気を孕んだ刺々しい言葉たちが僕の身を刺してくる。放たれた威圧感と緊張感が思考を遮ってくる。縮こまりたい気持ちをなんとか制御して、口を開く。
「だ、誰にも……迷惑はかけたくない。自分の人生に、相手を巻き込みたくない……で、でも! これでも、僕の人生だ! 何か、ほんの少しだけでも、幸せを掴む為に……っ⁉」
月光よりも強い光。僕の目の前の彼が、輝きの中心にいる。床には大きな円とその中に文字、図形。きっとこれがよく聞く魔法陣、というやつだ。強烈な明かりを支配するように彼は両手を広げる。
「呆れたぞ。人は生活の基礎があるから幸せだと言うのだ。眠る場所があるから、明日を生きる幸福がある。料理を作り、食べられるから、美味いという満足感に浸れる。信頼できる人間がいるから、楽しい、嬉しいと言えるのだ。お前には何がある? もう全てを捨てたんだよな? なら幸福どころか生きる理由もないだろう!」
光線から黒の物体が生まれる。その数、五体。体格は彼と似ているが顔はない。黒の白衣、シャツ、ズボン、そして恐ろしいほど感じる殺気。ゴーストだ。彼が生み出したのか! 言葉の意味も焦りで何も考えられない。僕は、何もできない。
「生きることを許されたくせに他人を庇って自分の身すら守れない、お前のような愚か者なんて大嫌いだ! 生きる未来を放棄した者に、今を生きる資格などない。力が不確かなら、死をもって証明してみせろ! 行け、我が人形たちよ、奴を殺せ!」
襲いかかってくる五体の人形。一斉に僕へ向かって、上から囲うように。走る者、宙を舞う者、黒煙を手に纏う者。
僕は死ぬのか、今度こそ。
『一回だけでいいのかい?』
「その力、もう一回試してみないかい?」
【僕が力を欲するのなら、僕はまた僕を助けてあげるよ。】
〔紛い物じゃない、本物の力をね。〕
これで最後だ、頑張ってね、僕。
「――バギア」
白い光線が面に広がる。五体全て吹き飛んだ。そいつらのスタートライン。僕のスタートライン。
「抜け駆け攻撃は感心しないな」
一番奥の人形の親が大きく目を見開いている。黒紫の目だけじゃない、薄水色の瞳にも僕がいる。いつもは隠すその色を見せた彼は今、どんな気持ちなのだろうか。
「武器は揃った」
月光に反射するあの剣を右手で持ち構える。
「正々堂々、勝負しようか」
とりあえず光だ。暗くて遠くまで見えない。
「リィト」
黄色の球が周りを照らす。
奥から一体走ってくる。
迎撃しよう、周囲に気をつけて!
相手のパンチ、もう一回パンチ、今!
「はぁぁっ!」
避けられた。
前に避け、剣で受けて
「やっ!」
ワンダメージ!
倒せないか。
後ろから来てる、右も。
ならもう一回
「吹き飛ばすっ!」
力いっぱい剣を振る!
当たった!
迎撃の一体との距離が離れた。
そして向かってくる二体。
三体が攻めてくるタイミング、っ今!
「ロータション」
黄金に輝く陣を展開。立てた剣を持ち手から剣先に向けて左手でなぞる。炎のように揺らめく光を纏い、手を伸ばす三体にそれを投げる。木々を高速で切り倒すような重く鈍い音が辺りを包む。剣が円を描きながら何周も何周も回転する。その軌道に乗った三体の体は速やかに斬り刻まれていく。僕を中心にして暴れ狂った剣は真っすぐ挙げた右手に帰ってきた。被害者二体は吹っ飛び、もう一体は消えていった。
「残り、四体」
分かったことが二つある。まず一つ、剣は僕の言うことを聞いてくれる。でも敵に立ち向かわなければ暴れる。
「はっ」
いち、に、避ける! だから初戦闘の時、考えなしに動いたんだ。今は違う、僕が考えて動いている。
「うぐっ」
避けそびれた。
でも、まだまだ!
「エフゥティ!」
大きく飛んで、攻撃力上昇!
仕留める‼
「はああっ‼」
オレンジの光線と共に叩きつける‼
っよし、撃破!
「残り、三体、ふっ!」
攻撃回避。
二体同時の息を合わせたアタック。
これじゃこっちが攻撃できない!
とりあえず、分かったことっあぶね、二つ目。彼らの攻撃はパンチとたまにキック。単調だから慣れれば
「ぐっ⁉」
脇腹にっ、痛みが……。
弾き飛ばされて床を滑る。
僕がいた場所に三つの小さな魔法陣。
頭、膝の裏、そして脇腹の位置!
駆け寄る二体の後ろ……いた!
腕を交差して伸ばす魔法陣に立つ君か!
「粋なこと、してくれるね! ドークウェラ‼」
黒色の壁に一瞬怯む二体。
衝撃波の先にターゲット。
一秒で仕留める。
「ゲシュウィン‼」
緑と共に、疾風のように!
目の前に迫り、二回斬りつけて!
よし、オッケー!
「残り二体っ!」
一体後衛で詠唱、もう一体は攻撃。
剣で受け、軽くジャンプ。
魔法陣が出たから後ろに下がってっ、ついてくるし⁉
ヒットしないと消えないのか、厄介だ。
ヒュンと音が聞こえたら、腕や剣で受ける。
小さいダメージ、なんてことない。
「たぁっ!」
斬っても避けられる。
これは隙を見て、詠唱のほうを倒すのが先決か?
「ドークウェラ……っわ!」
でも叩いてきた!
二回も同じ手には乗らないってね!
「っはぁ……」
息が上がる。
でも、負けられない。
これは、命に関わる戦闘
『市民の盾となる任務もついてくるけど大丈夫、貴方なら何も問題ないわ。』
『無力者に用は無い』
『自分の身すら守れない、お前のような愚か者なんて大嫌いだ!』
……そうだ、これだけじゃない。軍隊に入れば、こんな戦闘を何回も繰り返すのだろう。いや、これ以上なのかも、ううん、これ以上だ。その中で今、僕は軽くへばっている。体力が、足りない。
「詠唱者を……うわっ!」
体を吹っ飛ばされて、壁に叩きつけられた。でも立たないと殺される。でも次は? 僕はちゃんと、生きていけるのか? 中途半端な力なんて、ゼロと一緒だって分かるよね? 一回でも足を引っ張れば人なんて簡単に死ぬんだぞ?
自立した力を僕は持っているのか?
「……でも、っ、動け!!」
避ける、動く、振るう、当たる。
負けたら、死ぬ。
なら動け。動くしかない。
でもどうする。
何の解決もしていない。
「うわっ!」
周りが回る。
奇妙にズレる。
「っ!」
全てが重くなる。
「はっ!」
剣が狂い始める。
「うっ……」
振り回される。
「あぁ!!」
めまいがする。
「くっ!」
痛い
「かはっ」
苦しい
「ぐぅ……」
僕は
おれは……
「……」
「……」
何回も壁に打ち付けられた背中。殴られた腹。蹴られた足。弾かれた頭。全てが痛い。でも、どこも腫れ上がらず変わらない肌。でも、痛い。その感覚に脳が慣れる。
「こんの……」
そう、慣れる。俺の常識外にある出来事が頻発するこの世界で、僕は無意識に慣れようとしていた。そしてナナさんに支えられて社会の一員になれたような、そんな気持ちに酔っていた。でも俺自身が常識外だと気付いた時、慣れていた感覚は消えて弱い心だけが残った。
誰かが助けてくれると望む心。僕は何もできないと否定する心。勝手に人と時が手を差し伸べてくれると思い込んでいた――甘えてんじゃねぇ。やっと痛みで目が覚めた、自分でも呆れてしまうぜ。そんな心なんて、捨ててしまえ!
「っバカヤロォォォ!!!!」
今、自分の身に起こることは全て意味があるらしい。そこには大小問わず、これからも生きる為の学びがあるらしい。数少ない記憶の中にあった教えの一つ。俺の想像した世界とここがどんなに違っていても、この教えは変わらないだろう。それを知っていたのにもかかわらず、僕は学ぼうとしなかった。怖くて逃げていた。
バカは、俺だ。
「もう僕はっ、負けないっ!!」
そして生きるんだ。生きる力を手に入れるんだ。自分の力で、生きる理由を、生きる自信を、掴むんだ。
誰からでもない未来を
自信を
自分を!
全てを!!
「はぁぁぁっ!!」
大きく振りかぶると見せかけての、フェイント横スラッシュ!
残り一体。
これで――ラストだ!