5話
そこに少女はいた。
目に涙をいっぱいに溜めて、私にひたすら手を伸ばす。
「――――!」
口を大きく開いて何かを叫ぶ。
叫んでいるように、見える。
「――――!!」
少しずつ少女が離れていく。
いや、離されていく。
見えないものたちに押さえつけられて、大粒の涙が頬を伝っていった。
「――――っ!!」
周りの光が強くなる。
ぽっと少女の胸元の一点が輝きだした。
もう顔も見えないほど遠くの少女は、大きな光に包まれる。
まるで、彼女が太陽になったみたいだ。
「ナナ!!」
――乱れた呼吸。止まらない汗。軽い手足の震えと強制的に引き戻した意識。真っ暗な天井を見上げてようやく、夢から醒めたのだと気付く。重い体を起こせば、パジャマの背面がぴたりとくっつく。なんとも不快だ。
「……マイは、起きてないか」
囁き声で独り言を漏らし、ベッドから降りる。物音を立てずに、抜き足差し足忍び足……。ドアノブをゆっくり捻って、手を離し、大きく息を吐いた。今すぐにシャワーを浴びたい。でもこの夜遅い時間だ、せめて顔に付いた汗を流そう。洗面台の鏡に映る自分は随分とお疲れのようだ。そんなになるまで嫌な夢だったのだろうか。素肌に触れる水が心地良い。そのまま今まで辛かったことを攫っていってほしい……なんてね。
「ナナ?」
「ひっ⁉」
「あぁ、ごめん。驚かせちゃったね」
落ち着く優しい声。困り眉をした彼が立っていた。
「ユウ……どうしたの、こんな時間に」
「なんだか寝付けなくてね」
ユウはすぐに寝れるタイプなのに珍しい。いつも穏やかでにこにこしている彼でも、疲れのせいでなかなか眠れないのかもしれない。でも絶対弱音を吐かないから、そんなこと何があっても言わないだろう。彼は私の顔を数秒見つめると、眉を少し下げた。
「やっぱり、顔色良くないよ。ナナ、本当は無理してない? 僕、心配で……」
ユウは彼自身の変化に鈍感な一方で、相手の変化には敏感に感じ取って心配してくれる。もっと彼には彼自身のことを気遣ってほしいと、最近よく思う。
「無理してないよ、心配してくれてありがとう」
本当は少しだけ無理している部分もある。特にめいぷるくらふとに滞在してから、体の魔力保有量が不安定だ。遠征以前から急激に魔力が吸われていくような感覚に襲われる時があるが、ここ最近はかなり頻度が多い。魔力が一気に減少すると、頭痛や吐き気、倦怠感が表れる。普段でさえ感覚が過敏な方なのに、より色々な刺激を繊細に感じ取ってしまうようになる。顔色が優れないのはそのせいだろう。とはいえ、活動できないほど具合が悪いわけではないし、元々体は強くないから体調不良には慣れている。しかも、不調の原因である不安定な魔力について対処法があるわけでもない。皆に言ったところでどうしようもないのだ。まあ、目の前の彼は納得してなさそうな顔をしているけれど。
「夢見が悪くて、ちょっと気持ちがざわざわしてるみたい。落ち着くためにホットミルク飲もうかなって思うんだけど、ユウもどう?」
「うん、僕も飲みたい、おっ」
洗面台の電気を消して、薄暗い廊下に仄かな明かりが揺らぐ。光源の先を見つめるユウの視線はダイニングへと向いていた。この不規則な揺れは蝋燭に似ている。どちらにせよ、この奥に誰かいるようだ。
「ジュナルかな」
彼の小声に頷く。一応コンコンとノックをしてみる。
「はーい、どうぞー」
聞き慣れたあの声。静かに彼が扉を開くと、柔らかなオレンジ色の光が私たちを招き入れた。その中に佇む彼女はこちらに顔を向け、不思議そうに首を傾げる。
「おふたりさん、どうしたんですか?」
「目が覚めちゃったの。ジュナルもホットミルク飲む?」
「わーい! いただきますっ!」
テーブルの上には無数の魔術グッズだった物たち。そして彼女の無理した笑みと翳りのある明るさ。やはりあのときの出来事が相当辛かったのだろう。必死に取り繕う姿がひたすら苦しそうで、見ているこちらもやりきれない気持ちになる。
「僕作るよ」
「ううん、私が言い出したんだから私作るよ。ユウは座ってて」
「でも」
「いいの、作りたいの」
「……わかった、お願いします」
ユウは私に背を向けて、椅子へ向かっていく。心なしか、彼のアホ毛がしゅんと垂れているように見える。さて、小鍋とミルク、蜂蜜も少しだけ入れようかな。ミルクを注いだ小鍋を火にかけて、ぼんやりとそれを見つめる。ユウ、最近特に私の体調を心配してくれることが増えた気がする。さっきだって、私が言い出しっぺなのにホットミルク作るよって言ってくれた。私、そんなに元気ないように見えるのかな。そうだとしたら申し訳ないな……沈黙が続くこの空間には沢山の心情が混ざり過ぎていて、牛乳の独特の匂いさえ忘れてしまいそうだ。あ、牛乳。我に返って鍋を見直すと、湯気がふわふわと踊っている。そろそろ良さそう。三つマグカップを用意して、火を止める。ミルクを均等に分けて、蜂蜜を目分量入れてスプーンで軽くかき混ぜる、と。よし、完成。マグカップをトレーに乗せて、二人の元へ歩いていく。
「お待たせ。はい、どうぞ」
向かい合って座る二人の前にマグカップを差し出した。
「ありがとう」
「ありがとうございます!」
「いいえ」
私はユウの隣の椅子に腰を下ろした。カップに口をつけるとじんわり感じる温かさ。うん、丁度良い温度、そして美味しい。優しい甘さが私の心を癒してくれる。自然と口元が緩んだ。
「あの」
ジュナルの落ち着いた声。
「その感じだと、ジュナルが凹んでいるの分かっちゃってますよね……。あはは……また恥ずかしいところ見られちゃいました」
悲しそうに笑う彼女。蝋燭の光が大きく揺れる。
「……あのとき、助けに行きたかったんだ。でも何もできなくて」
ユウは俯き、両手でカップを握りしめる。あれを思い出すだけで、無念やる方無い思いが胸を締め付けてくる。
「ジュナルのことよりも御二方を守らなきゃいけない。それがジュナルのお仕事ですから!」
「でも!」
「こんなこと商売やってると何回も経験しますし! ジュナル、心も強い子ですからっ! きゃるんっ!」
目元にピースサイン、いつもの決めポーズ。しかし彼女の瞳は、暗い。テーブルの上のミィミも下を向いている。心がずきんと鳴った、まるで昔の私を見ているようで。誰にも相談できなくて、ずっと一人で抱え込んで。無理矢理自分を奮い立たせてみるけれど、心底はずっと空っぽのまま。
「ジュナル」
少しの躊躇が喉を痞えた。それでも考える前に口が開く。今までの自分が背中を押した。
「辛いこと、苦しいこと、悩んでいること……何でもいい。言いたいこと、言ってごらん」
彼女の右手のチョキが、ぴくりと震えた。
「嫌ならいいの! 無理に話したくないなら、それで。でも、その……スッキリするから、心が、軽くなるから……」
私の拙い話で伝わっただろうか。藁に縋る思いでユウを見た。いつも通り、穏やかに微笑んでくれた。愁眉を開く気持ちがじんわりと胸に満ちる。
「昔から可愛いものが好きだったんです」
不意に彼女から中性的な声が聞こえてきた。テーブルをじっと見つめ、隠れた顔の側でミィミを抱き締める。
「そして、下級生時代から好きな物たちに囲まれたお店を作ろうって夢があったんです。紆余曲折、沢山の困難を乗り越えて、やっと叶えられたんです」
一呼吸置いて、ジュナルはカップに口をつけた。飲み終えた後の表情は、ミルクを飲んだとは思えないほど酷く苦い。
「確かに可愛い物の中で生きていくのはとても楽しいですよ。今までで最高に充実しているし、自分の性格に合っている感じもする。でも、それと同時に残酷なんですよ」
蝋燭の火が一瞬消えた。
「馬鹿にされて貶されて。挙句に私の大切な物たちも壊される。その度に、なんでこんな思いをしなきゃいけないんだろう。こんな物好きにならなければ、こんなことにならなかったのかな、って思ってしまうんです。だからと言って、物たちが嫌いになったかと言うとそういうわけじゃない。魔法グッズを作る時や可愛い新商品を考案する時が、一番楽しくて胸が高鳴るんです。それでも……それなのに悩む自分が許せない。どっちつかずの自分が……大っ嫌いで……」
言葉が途切れ途切れになる度に、彼女は肩を震わせた。涙声で必死に伝えてくれたその姿を見ているだけで、私が泣いてしまいそうだ。でも一番辛いのはジュナルなのだから、泣いちゃダメ。気持ちを整えよう。
「話してくれてありがとう、ジュナル」
ユウの温もりのこもった声。
『居場所はここにあるよ』
ふとあのときのことを思い出した。あ……だめだ……泣きそう……。
「いえいえ、ジュナルがお礼を言うところですよ。聞いてくれて、ありがとうございます」
彼女はテーブルに額がつくくらい、深いお辞儀をする。
「ジュナルもう何十回も考えたんですけど、どうしても分からなくて。だからアドバイス……というか意見を聞かせてください。これからどうするべきか」
「それは僕が言ってはいけないことだよ。簡単に店をやめろ、なんて無責任なこと言えないし」
「じゃあジュナル、どうすれば!」
彼はカップの中身を飲みきり、ふーっと息を吐き出す。濃い茶色の瞳がゆっくりと彼女を捉える。いつにも増して真剣な表情だ。
「僕の意見、それは……」
そしてへにゃりと彼は笑った。
「ジュナルは頑張りすぎたんだよ」




