15話
――私は物心ついた時には、一人ぼっちだった。一番古い記憶は薄暗い路地裏で地べたに座っている時のこと。家庭ごみや粗大ごみが乱雑に捨てられている場所で狭い青空をただ見つめていた。親も兄弟も親戚も友だちもいない、そんな中で初めて大切な人と出会った。それが私が七歳の頃、シュリさん夫婦に引き取られた時のこと。優しくて、温かいと思った。それでも本当の両親ではないと分かっていた。二人はそのとき、二十二歳。七歳の私だと夫妻の年齢では若すぎていた。彼らはあまり私のことを褒めてくれなかった。大好きだと言ってくれなかった。頭は撫でてくれたけれど、抱きしめてはくれなかった。私の記憶が抜け落ちているだけかもしれない。でも私の心の中にはいつも何かが足りなかった。そして、一緒に暮らし始めて数ヵ月後にシェリルムは鎖国したのだった。
「今思えば、あの鎖国が一番私を歪ませた原因だったんだね」
六年制の下級学校に私はすぐ入学した。家計は裕福とはいえなかったけれど、私の為に学業を受けさせてくれた。しかも低レベルな学習をする塾のような所ではなく、国も認定している一般的な学校。私のことを大切にしてくれていると改めて思えた。でも、そううまく事は進まなかった。
「ユウも見たことあるよね。前に私が絡まれていた時の裕福そうな人たち。実はあの人、下級学校の時から私のこといじめ続けているの」
ああいう人たちの情報量は計り知れない。もちろん私が孤児で、本当の親も分かっていないことも簡単に知られてしまった。鎖国したのにも関わらず、本当は出生の分からない人間だって警察や自治団体に言ったらどうなる? そう言われて脅されたのが始まりだった。今でも忘れない、忘れられないあの言葉。
『俺は守ってあげてんだ。嫌がることもできないよな?
だってお前は存在自体が罪なんだ。』
私の心で蔓延る呪いの呪文を言ったら、ユウは息を飲んだ。驚きに満ちた顔で私を見てくる。上手に笑えているだろうか。
「これで分かったでしょ。私が貴方を助けた理由。勝手に昔の私を重ねて、同情して、私自身の罪を隠してただけ。理解者になろうだなんて、そんな気持ちさらさらなかったの。だって私は、私自身精一杯だったから」
それから私はバカ正直に自分の行いを善いものにしようとした。そうでもしないと生きていけなかったから。その姿を見て面白くなかったのか、彼はいじめを加速させた。
クラスメイトの無視。
所有物の故意紛失。
間違いの擦り付け。
暴行、喝上げ、性的虐待。
他にも小さないざこざや事件に何度も巻き込まれた。しかもその光景を面白がる仲間も増やしていった。そして金の力で正義を唱える者を押さえつけた。私を助けようとする人たち、シュリさん夫妻さえも過度に踏み出さなかった。助けたって待っているのは怖い脅しだけだ。皆、損得感情だけで動き、本気で助けてくれる人なんて、いなかった。
やっぱり私はひとりぼっちだった。
「……義務教育最後の冬、中級学校三年生の時に私は上級へ行くのを断念したの。さすがにもう迷惑かけられないし、私自身居た堪れなかった」
中級学校卒業後、私は一人暮らしを始め、働きだした。それが今から三年前のこと。安いお金で建ててもらった小さい家に一人で住んでいた。あのときの私は少し遅れた反抗期からか、がむしゃらに働いていた。皆みたいに自分の利益だけを考えて動くのではない、本当の気持ちで生きていこう、と。
相手が悲しむ自傷行為は絶対にしない。
困っている人がいるなら話を聴こう。
助けて欲しい人がいるなら力になろう。
全て全力で頑張れば、いつかきっと同志に出会える。そして友だちになれると信じていた。
今まで善行をしてきたから抵抗はなく、前を向き続けていられた。反対に一人でいる時間が増えたからか、いじめはエスカレートしていった。それでも希望を忘れなかった。生き続けた。『いつか報われますように』と彼らが去った肌寒い夕焼けの空の下、痣だらけの裸体で祈ったこともあった。
心の糸が切れる日までは。
「でも、気付いちゃったんだよ」
紙コップの水を見つめる。
「働くのは自分の為。慈善活動は友だちが欲しい自分の為。自傷しないのは自ら痛い思いをしたくない自分の為。そう、全部誰かの為を想ってやってきた事は、全部自分の為だった。もっと言うと……誰かの為と想って善行をする自分を肯定したかっただけだったの。それで結局、努力も泡になる。そうよ、嫌われ者の私がどんなに頑張ったって何も報われない。返ってくるのはゴミのような同情とむごい仕打ちだけ。それが社会の常識、社会のルール。結局私も皆と一緒だったの、それに気付いた時本当に絶望したよ」
ははっと笑い声を漏らし、水を飲んだ。
「でもね、面白いことを発見したの」
絶望を感じるまでの約一年間、いじめがあったにも関わらず私の周りの環境が少し良くなったことを実感していた。それはなぜか。
皆が都合のいい私を好んでいるからだ。優しく朗らか、気遣い上手、素直で純粋な女の子。そんな性格が扱いやすくて上辺だけ好かれやすい。
だったら、その女の子を演じればいいじゃないか。
それから私は自分の性格も歪ませた。あれじゃない、これじゃないと試行錯誤を重ねた。どうすれば好かれやすいか、どうすれば好印象に見えるか。アドバイスもない、教えもない、途方もないことをずっと考え続けた。
私は完璧な性格を手に入れたと同時に負の感情を溜め込むようになった。でも諦めはついていた、もう幸せになんてなれないと思っていたから。一人で居れば暗い現実が目の前にあったから。
「でもね、変わったの。私の人生の価値が大きく。ユウ、貴方のせいで」
ユウに朝食を振舞って、今の状況を話して、謝った時。彼はなんて言った?
『仲良くなってもいいですか?』
私には分からなかった。どうして目の前にいるよく分からない人間と仲良くなろうと思うのか。なぜそんなに綺麗な笑顔を見せるのか。そんな疑問の中で、ひとつ忘れていた感情が咲いた。
「喜び。貴方と共に過ごすことで喜びは増えていき、それは幸せになった。誰かの為に、そして自分の為に行動することがこんなに嬉しくて、温かいことなんだって気付いたの。当然な事じゃなくて、感謝の気持ちが返ってくる。私にとって、ありがとうの一言はとても新鮮で幸せな言葉なの」
でもどうせ裏があるのだろうと。彼は彼なりの考えで私を手のひらで転がそうとしているのだと思った。
「違った。貴方は本心でそうしているんでしょ、ユウ? 真正面から向かい合う潔く正しい人。そして人に本当の幸福を与える人。それを知った時、私の負の感情が許さなかった」
今まで十年間の苦しみ、憎しみ、悲しみ……全ての負の感情が爆発した。
私は幸せになれない。
私は罪を背負っている。
私は弱い。
私は孤独。
こんな人間は暗闇しか見てはいけない。
『ではなぜお前は心から笑っている?』
罪の借金を返すことに精一杯だった。更に幸福の支出が加わって、しまいこんでいた魔力と感情が顔を出した。
「そもそも私が魔術師なのは知っていた。でもこの力を使ったところでいじめは終わらないし、逆に一種の才能を気に入らずにもっと酷いことをされていたかもしれない。だから体と心の奥底に隠していたの。でもね、夜中の月の出る日にいつの間にか体を乗っ取られていたみたい。感情任せにドールを生み出して、発散していたのね。迷惑かけてたなんて、知らなかった……」
空の紙コップを握り潰した。
「昨日の髪が解けた瞬間に、今までやってきたこと全て見えたの。そして裏の冷酷で残虐で、あの殺意の塊……コントロールできずに振り回されてしまった」
ユウの必死な声と顔も、何一つ意味をなさなかった。今ある残された心がずっと泣いている。でも涙は、流れなかった。それだけ私は、汚れてしまったのだ。
きっとこんな私を、誰も愛してくれない。
*
知らなかった。ナナと僕が似た境遇だったなんて。今までの笑顔や行動はすべて演じていたものだったなんて。
「どう? これが本当の私。嫌いになった?」
ふっと笑うその顔を初めて見た。そして何より漂う雰囲気、オーラが全く変わっている。
「まぁ、だから言いたかったことはね。ユウはもう恩返しできていたの。知らずのうちにいじめっ子を追い払ってくれたし、私に幸せをくれた。本当にありがとう。でもね、もう、充分なの、お腹いっぱい。貴方のように性格が良い訳でもない。こんな私は死ぬしか助からない。ずっと守られるような善良なことしてないから」
本当に滑稽よね、とナナは笑った。
「なんなら、ユウ、貴方が私を殺してよ。正義が悪を倒すのは話のお約束でしょ? その剣で斬るなり、刺すなり」
「っ! そんなこと、できる訳ないだろ!」
感情がしゃしゃり出る。大きく体を震わせて、ナナは目を大きく開いた。想像以上の反応だと言いたげな顔をする。しかし不敵な笑みを浮かべた。
「何? まだ私のこと好きだと言うの? 貴方、想像以上にバカなの?」
「あぁバカで結構さ。僕はナナのことかけがえのない人だって思ってる! 大切な人を殺せるわけないだろ!」
「あのさ、今までの私と今の私は違うの。それでも好きだと言えるの?」
「あぁそうさ。痛みを知っている人は、優しいんだ」
「痛みを人に発散していた人が優しいと?」
「それはナナ自身知らなかったことだろ。あと、人のことをよく考えているから気遣いがうまいんだ」
大袈裟に彼女は溜め息をつく。
「だから、そうしないと私が生きていけないから!」
「それができない人だって世の中にいる。それに僕はナナがやってきた素敵なこと何回も見てきた」
「話聞いてた? 社会に溶け込む為に、自分の為にやってきたことなの。全部自分の為」
僕は食い下がり続ける。
「じゃ、なんで自分勝手なことをしなかったのさ。人に幸せを運ぶことよりも、自分が生きやすくする簡単な方法もあるんだろう? 僕はできないけれど、ナナだってそうなんだろ?」
少し息を詰まらせる。
「っ……罪滅ぼしをする為に」
「罪って何」
「だからっ! 本当の親も分からないのに」
「それが罪って誰が決めた? 確かにここでの法律があるけれど、ナナには仮だとしても親がいる。親がいるなら法律的な罪じゃない。言ってきたのはいじめてきた人だよね。ナナは自分のことしか見えていない、その人の言うことに従うの?」
「……」
ナナは言い返そうと口を開くが、苦しそうに目線を逸らした。
「やっぱり分かっているんだね。何が正しくて、何が駄目なのか。ナナは演じていたって言うけれど、その性格が本当のナナの心にあるんだよね?」
存在自体が罪、か。僕もあのとき思ったことは一生忘れないのだろう。自分自身を否定する辛さ。社会からいらないと言われる苦しさ、悔しさ。でもナナは約十年間その呪いと戦って生きてきたのだ。気持ちは分かるけれど、今までの苦悩や苦痛は僕には理解できない。だからといって残念だったね、で終わらせるつもりは微塵もない。演じていたとしても、裏切ってきたとしても、あの笑顔の輝きを失いたくない。あの空間の温かさを、忘れたくない。
「もう僕の前で演じ続けろなんて言わない。でも僕はナナの笑顔が本当に好きなんだ。あの顔を見ると元気が出て、癒されるんだ。ナナが必要なんだ、僕に」
「もうやめてよ!! そう行って結局何回も飽きられて捨てられてきたの! 誰からか好かれたと思ったら裏切られて無視されて……。必要だって言ってきたくせに、代わりができたらゴミ扱い! 一方的に嫌われて、引き離されて、怒られて、そんなのもう嫌なの! 社会不適合者に向かって必要なんて言わないで!! 期待させないで! 自惚れさせないで。私なんて……私、なんて……」
彼女は顔を大きく歪ませた。
頭を貫かれたような感覚。
小さく見えた、彼女の本質。
違う。
「――ナナ、本当に言いたいこと、教えて」
まだ演じている。
「もう言ったよ」
「まだあるでしょ」
まだ隠している。
「ないよ」
「いや、ある!」
自分の身を守る為に。
「ないもん!」
「ある!」
「ない!」
「ある‼」
叫びにも似た自分の声で、ナナはまた体を震わせた。一瞬怯えたような顔をしたのを見て、何度も申し訳ないと思ってしまう。しかしまた悲しそうに笑い、短く息を吐く。
「……ほんと、ユウ、貴方だけにはバレちゃうね。なんでだろ、私以上に繊細だからかな。でも貴方に言うつもりはないよ。最期まで演じきらなきゃ、ここまでやらかしてしまったんだし。対極にいる君に嫌われること、皆から社会の常識やルールから許されないまま実刑されて死ぬこと。それが、私に残された『誰も悲しまずに死ぬ最高のエンド』。それだけしか私は報われないの」
一瞬彼女が笑ったその時、桜の花びらが舞った気がした。儚さを感じたのだろうか。散って消えてしまいそうな彼女の肩を掴む。速まる鼓動を押さえつける感情が、僕の口を動かす。
「いいんだ、もういいんだナナ。社会の普通や常識なんて気にしなくていい」
僕は頭を下げ、毛布を見つめていた。
涙をこらえて顔がぐしゃぐしゃになっている。
「大切なのはナナが幸せになることだ。
精一杯生きてきたナナが……ずっと苦しんで考えて、優しさを持ったナナが本当に笑えるように生きることだ。
その力になれるのだったら、僕は支え続ける。
ナナもこんな弱い僕を支え続けてほしい。
ずっと……僕とナナが理解して離れていける時まで」
少しだけ手に力を込めた。
「お願いだ……自分自身の為に生きてくれ……たった一つの、尊い命なんだから……」
ナナの顔を見る。
僕をじっと見つめる瞳に一粒の涙が零れる。
「でも私、もうじき死ん」
「ユウ! ユウ、起きてる⁉」
驚いてドアを見やると早いノック音と強く扉を開いたマイが現れた。タクも後ろに立っている。いつも悠然な彼女が、こんなにも焦る事象は。
「ゴーストか、場所は?」
「すぐ近くの林の中よ! 暴走したら学校にも被害が……!!」
「なんだって⁉」
「急いで!」
「あの!」
ナナが自分の両手を握りしめる。
「私もついていきます」
「お前は」
「私に関わることなんです。お願いします」
タクの言葉を跳ね除けた彼女の目つきは真剣そのものだった。




