迷子の夜に
「よし!じゃあまず布団から片すか!!」
真っ暗な部屋でケータイの明かりを片手に三人はおもむろに片付けを始める。敷きっぱなしの布団類を半分に折り畳み、部屋の端っこに放り投げ、その分空いたスペースに押し入れからスーツケースを引っ張り出した。目覚まし時計、さっきまで着ていた部屋着、自分の持ってきた分のゲームのコントローラー…あとなんかあったっけ?あっケータイの充電器、挿しっぱなしだった!!とりあえず目の前にあるものから片っ端からスーツケースに押し込んだ。ふと顔を上げた先にあったテレビの横で光流がゲームの延長コードを手に取り、その背中は月夜に照らされてやけに悔しそうに見えた。
「よし!行ける?」
ドアの前で部屋自体に話しかけるように海音が尋ねる。
「よっしゃ!行くぞ!!」
仁が答えた、なぜかスーツケースを頭の上に持ち上げながら…。単なる筋肉バカなのか…それとも階段を降りることをあらかじめ計算しているのか…この男の行動はまったく読めない。ドアを乱暴に閉めた三人は足元の非常灯に照らされてどこかあのゲームのラスボスの部屋へと続くのような不気味な廊下のど真ん中を変な霊に捕まらないように急いで走り抜けた。少し開けたエレベーターホールの男子使用禁止のエレベーターを軽く睨んで通り過ぎ、その横の非常階段を魔除け代わりに小気味良いリズムを足で打ち鳴らしながら駆け下りていった。
非常用電源があるのか、ロビーは少し明るくなっていた。まだ人の集まり具合は良くはない。ざっと見て三十人前後ぐらいだろうか。
「…はい。じゃあ次、えーと一ノ瀬…でえーと伊藤…とその連れ…ね」
出口の開けっ放しの自動ドアのところで我らが谷繁先生が手元の名簿の名前と目の前の顔とを神経衰弱的に引き合わせる。
「た、谷繁⁉︎なんで?なんで知ってんだよ??」
二人の関係を知っている者…いや二人は生徒の間では有名過ぎるので居るとするならばごくごく少数の恋愛情報に疎すぎる人を除くほぼ全員がギョッとこっちを振り向いた。谷繁から二人の関係をさも知ってるかのような言い回しの言葉の羅列が聞こえてきて周りの人間も一瞬、聞き間違いかと思った。当の本人であらせられる仁に至っては目ん玉が飛び出るとかそういうレベルではないくらい目が見開き、口は顎が外れたようにあんぐり空いていた。
「…次、えーと…」
とぼけようとする谷繁に
「おい!!答えろや!!谷繁!」
やっと意識が戻ってきた仁が食ってかかる。
「まず…伊藤くん。谷繁!…ではなく私は谷繁先生です。次に毎日毎日一緒にチャリ乗り回して帰っていたら誰でも先生がバカでも分かっちゃいまーす」
おもちゃでも遊ぶように楽しそうにあしらった谷繁は満足そうに仁と美雪の名前の横に一気に一筆書きのようにチェックをつけた。ぎゃーぎゃー文句垂れる仁を尻目に
「それで…次はぁ〜…」
そのこんな雰囲気の中、わざわざ名乗り出すのはすごく恥ずかしいことだろう。少なくとも俺は嫌だと思った。静まったその空間は気まずさが漂っていた。でもそいつは単色、グレーのまったく色気の欠片すら感じないスーツケースを引きずり、手を上げながら登場した。全員の視線がそいつに向けられる。
「はい…C組の雛森です」
誰かと思えば…澪かよ。やけにはっきりした口調で話した。さすがだな…というかなんというか。
「はい、えぇーと……雛森…ひ、ひ…あーあったあった…よぉ〜し、じゃあ四人とも、言っていいぞぉ!」
まだ澪とのことはいくら耳の早い谷繁でもまだ知らないようだ。海音は少し早歩きでエントランスの自動ドアを抜け、意識的に澪と目を合わせないようにしながらトランクの前で自分の含めて他の三人の分も含めてスーツケースを詰め込んだ。少しわざとらしくも感じたがこんなところで谷繁に悟られるのは嫌だった。
「それでは…発車いたします」
運転手の小綺麗なおじさんが外の先生たちに会釈してゆっくりとホテルの前の下り坂、一本道を下り始めた。前には何かを飲み込んでしまいそうな薄暗い闇にも見える海と左右をすり抜けていく緑の木々がどことなくトンネルに似た閉塞感を感じさせる。こんな暗闇の中、助手席の海音は後ろから聞こえてくるバカップルのさえずりが嫌でも耳に入ってきて身体がむず痒くなった。自分たちがバカップルになってるのと他人のバカップルぶりを見るのとでは少し感じ方が違うなと実感した。
「…ねえ……」
そのスベスベした細い腕はシュルシュルっと海音の首に巻きつき、暗闇からさっきとは対照的な小さな声を洩らした。多少ドキッとしたがその感情は純粋な驚きというよりはときめきと呼んだ方が近いかもしれなかった。無理にその手を振りほどくことはせず、上半身は彼女に委ね、自らは首だけひねって振り向こうとした。
「…っ…」
…びっくりした。声にならない声を出してしまった気がした。海音が思っていたより澪との距離は近かった。彼女は助手席の座席の淵に顎を乗せて彼が振り向くのを今か今かと待っていたようだった。その行動は不覚にも海音の心臓を大きく震わせ、バクバク暴れる心臓から背中へ…背中から全身にかけて血が駆け巡り、突き抜けた。なんだか身体が急に熱くなった気がした。どうやら右前から出ているクーラーが止まったことが原因ではないことくらいは自分で分かった。
「なんかさ、美雪さんとかはこっちに泊まっちゃうって言ってるけど…うちら…さ…どーする?」
言い終わるか言い終わらないかぐらいでさらにギュっと彼女の腕が強く首に絡みついた。自分の異様に早く波打つ鼓動が聞こえてやいないかと不安になった。少なくともこの動揺を本人には知られたくはなかった。どうしよう。え、いや、うん。必死に自分の中の理性が欲望を抑え込もうとするとその欲望が無理やり言い訳を見繕い、自分自身と理性をまとめて言いくるめてしまおうとする。いや、冷静になれ。仁たちと俺らはレベルが違う。二人はお互いの親も関係を知っているし、お互いの家によく遊びに通っている。一方、俺は彼女の家に行くどころか、自分の親にさえちゃんと伝えてはいない。…うーんやめておこう、また今度にしよう…そう思わないとこの誘いに軽々しく乗ってしまいそうな自分がいた。
「…いや帰ろう。送ってくからさ。親が心配するし…澪さえ、その…よかったらまた今度でも…?」
心の中の少し黒くなったところを一思いに握り潰し、未だに続く心の動揺が中途半端な話し方にさせたがとりあえず最後まで自分の言葉を吐いた。海音は恥ずかしさから逃げるようにして前を振り返った。これでよかったんだと少しの後悔を掻き消すように自分の中の理性くんの頭をゴシゴシと撫でた。
「…うん、そーしよ…」
そう言った澪は後ろからスッと自らの顔を海音の顔に近づけ、お互いの気持ちを確かめ合った。イマドキの学生の恋愛模様を垣間見た運転手はどこか気恥ずかしそうにその人差し指で頬をかいた。
熱海駅の前は来たときとは違い、黄色い光が眩しかった。一際際立って明るい活気に満ちた商店街からはもう夜になるというのに観光客の姿をやけ楽しげに映す。
「…はい、到着いたしましたー、お代の方は頂いてますので…どーぞ」
運転手はそう言ってドアを開いた。生暖かくて蒸し蒸しするのに雰囲気がいいのか不思議と不快な感じはなかった。海音は当然の方に駅の方に向かおうとすると
「じゃあ俺ら海行くわ!」
とその場で仁が立ち止まって言った。
「今から??」
こっちに見えるように美雪が楽しげに首を縦に振った。
「そーゆことじゃ!じゃあ…またな!!」
と片手を挙げるものの注目されて恥ずかしかったのかすぐに降ろして美雪と仲良さそうに手を繋いで暖かい光の中に入るというよりは彼らが輝いているように見えた。
「ほら!…こっちも行くぞ!!」
二人の後ろ姿を見つめてボーッとしていた海音の背中をバンバン叩き、澪が言った。
「いってぇ…分かってる、分かってるつーの!!」
澪の平手は割と強めだったようで海音は痛そうに背中をさすった。まだ痛みの取れない…恐らくは海音の背中には彼女の手形がいまだに刻まれていることだろう。少し懲らしめてやろうとツーンとしてスーツケースを引いて緑の窓口に向かう。
「ご、ごめんよぉ〜」
焦ったように謝る澪はいじらしい。さらに謝り慣れてないのかまた吃る感じがまたかわいい。まだまだ見ていたくてツンケンした態度を続けていると
「ねぇ!!ごめんってば!!」
を最後には自分の立場を忘れ、勝手にイジけてそっぽを向いている。それもまたそれでかわいいのだがやり過ぎるとイジけ過ぎて口も聞いてくれなくなることが予想されるので
「わかったよ…許すよ」
と澪の頭の上に手を乗せてポムポムと跳ねさせた。なんだか彼女の頬が風船みたいに膨らんだ。拗ねてるのも…意外といいかもしれない。彼女の新たな一面を見つけた気がした。
「………」
僕がいる方とは反対を向いて何か言ったが聞こえなかった。聞き返そうと思ったけどその必要はなかった。澪は何かを言い終えた後、あっちを見たままで海音の手をぎこちなく握ったからだ。もう離してやらない…と誰に言うわけでもないがそっと心の中で呟いた。そうこうやってるうちに長蛇の列の頭に達し、切符を手に入れた。なかなか長い時間待っていた気がするもののそんなこんなでそんなことはまったく苦にはならなかった。改札前の電光掲示板を確認し、さっき買った切符を澪に手渡す。改札を通るときはさすがに手を繋いでは入れないだろう…さっきの今だけど…離すかと海音は思った。しかし一向に澪の手は離れる気配を見せない。改札はだんだんと近づいてくる。どうしようと海音は焦るが澪は何事もないように平然と前を向いている。二つの改札は同時に開き、その二つの上には橋が架かっていた。はたから見れば単なるバカップルである。いやまあ文字上は大して違ったことはないのだがそれを周りに見られるのが…なんというか…痒い。すれ違う人や駅員、無数の目にまじまじと見つめられている気がしてちょっと恥ずかしい。しかし隣の澪はそれらすべてを蹴散らして堂々と歩いている。…仕方がない、彼女に合わせて歩いた。エスカレーターに先に乗った澪は海音が乗ったのを確認して振り向いた。さすがにエスカレーター、一段分あっては身長的には完璧に負ける。ムカつくが彼女の視線は自然と上から目線になる。何も話しかけてこないがなんだか楽しそうだ。もしかしたら俺よりも背が高くなって嬉しいのかもしれない。いやきっとそうだ。同じ段に登ってやろうかとも思ったが後ろにも人はいるし、止めておいた。段差は次第に平坦になるに従って二人の身長差も元に戻っていく。次の電車は…十分後かー長いなと海音は思った。澪もそう思ったみたいでホームの椅子に座りたかったみたいだがもう埋まっていた。仕方なくドアが来るであろう場所に並んだ。目の前には車のライトと街灯やらなんやらでキラキラ光る街並みと昼間より邪悪に見える海とが広がっている。昼と夜とでは同じ場所でも全く違う顔を見せる。海音は景色を見てこの時間を潰せると思ったが隣のやつはそうではないみたいだった。
「ね、あっち向いてホイするぞ!」
…なぜあっち向いてホイをチョイスしたのだろう。
「えー恥ずかしいよ…」
と海音はやんわり断ったつもりだったのだが
「はい、やるよ!」
押し切られてしまった。後ろにも仕事帰りのサラリーマンから帰省か旅行している家族まで続々と並び始めている。うっかり左を向いてその人たちの視線とぶつかったら…考えただけでこの上なく恥ずかしい。ここは左は捨てて三方向で勝とう…というよりじゃんけんで勝ち続ければいいのだ。ことは思いの外簡単に思えた。
「最初はグー…じゃんけんポン」
よし、勝った!
「あっち向いて……ホイ!」
こいつにも恥ずかしい思いをさせてやろうと思って僕から向かって左を指差した。澪はその思惑を知ってか知らずか反対を向いた。悔しくて自分からじゃんけんの掛け声を発してしまった。単純な自分が恥ずかしい。それが判断を鈍らせたのかもしれない。今度は澪に軍配が上がった。そもそも三択しかないのだが…。どうしよう。迷いに迷った挙句、適当に首を振ろうと思った。その時、何か大きな破裂音が聞こえた。その大きな音に反射的に反応して海の方を見ると…花火だ。海音が振り向くのにリンクして澪も振り向いた。海と空の区別などまったくない真っ暗なスクリーンの上により一層映えて見える。花火の光が波打つ水面に色をつける。夏だ。夏が来たんだなと暑さ以外から初めて実感した。話の途中だったのをそれを忘れて思わず見惚れていた。仁たちはこれを見に行ったのかなと思った。なぜだか少し得をした気分になった。こいつが浴衣でかき氷か綿あめなんかを片手に持っていたら完璧なんだが。澪も満足そうに花火の一つ一つに目を向けていた。若さとは花火のようなものだと聞いたことがある。一瞬で過ぎ去るけれど将来の僕たちの記憶に深く、奥深く刻み込まれるものだと。大きな大きな華を咲かせるためにパワーを貯める時期だと。でも当の本人は自分の状況が分からない。終わってみて初めて分かるのだ。そして今から打ち上がる華を見ては羨ましく思うのだ。今、輝いているのかな。分からない…まだ分からないけれど……今、すごく楽しい。それで今はいいのかもしれない。今を精一杯生きていればきっと分かる日が来るのかもしれない。澪がこちらをチラッと見てきた。海音もチラッと見てまた花火を見た。今度はここに花火を見に来たい、そう思った。まだ見ていていたい気分だったが無情にもお迎えが来てしまった。二人はボックス席の横の海に面する側の二人席に座わった。電車の中で見えるならラッキーと思ったが一つ目のトンネルをくぐってからはまったく見えなくなってしまった。するとストンと海音の肩に澪が寄りかかってくる。今までも通学の電車で見知らぬ人が寄りかかってくることはあったがそれらとはちょっと違った。なんか映画の主人公になったみたいでちょっと楽しかった。そんな夢から覚めるなんて勿体無い。彼女の頭に自分の頭を重ねて真っ暗な窓の外を眺めた。何も見えなくても話さなくても彼女の鼓動が聞こえてきて、一番近いところにいれる…それだけで十分だった。海音は終点に近い自分たちの駅に着くまで起きていることにした、その気分にずっと浸っていたくて。