波は静かに
いつもの緑とオレンジの電車はビルとビルとの間に漂い溜まる暑苦しい空気から一刻も早く脱出するようにして目的地へと…当面は海へと向かい、その車内はこれから始まる季節に胸を踊らせ、膨らみ、膨張し続け、破裂しそうだ。その先頭一両目、左手の前方より…三個目の四人席にだけ人の姿はなく、それぞれ違う色のなかなか大きいスーツケースが向かい合った席と席の間に所狭しと押し込まれている。この荷物の主がさっきまで座っていたのか…それならなぜ荷物が放置してるのだろう…それとも目に見えぬ透明人間が今この瞬間も座り続けているのか…いやそんなはずはないだろう……おそらく。スーツケースの上には持ち主を無くしたような一組の靴と靴下が転がり、窓際の棚には開けたばかりの物も含むお菓子の山、そしてそれぞれの席にはトランプが三つに分けて置いてある。どこをどう考えても人がいる気配はするのにどこをどう見ても影すら見当たらない。
「まもなくよこはまー!よこはまー!お出口は右側です。………線に乗り換えの方は………」
聞き慣れない駅名となんとなくしか聞き取れない英語のアナウンスが響く。待望の夏休みの一日目というのは様々な形態こそあるものの、この夏への期待感が自然と高まる車内により一層…血走った目というか…目の前にあるご馳走に待てをかけられている獣のようなオーラがまだ固く閉じたドアに前のめりに体当たりしている。電車が止まるとすぐにガシャンとドアが独特な金属音とともにホームにそのオーラとオーラの主ごと一斉に解き放った。ここはもちろん一両目…ということは階段はおそらく向かって右手にあるは…ずなのに左手にある自販機に飛びつくように駆けていく影が……いくつか忙しなく足を動かす乗客たちの足元に伸びていた。リュックさえ背負わない、その身軽な影の正体は電車と人とが目まぐるしく動き回る構内で柱の上層部に取り付けられたホームの監視カメラだけがハッキリと捉えていた。
まさに波と化した乗客の群れが蛇口をひねることによって一滴残らず流れ出たのを確認した美雪は少し小さめなスーツケースを引き上げ、恵はボストンバッグを肩にかけ、そして千尋は自分も丸まったら軽々入れてしまうほどの千尋の身体との比率から言うと明らかに大きすぎるスーツケースを抱えてボックス席を見渡した。いるはずの人たちをいるべき場所に探すが…見当たらないようだ。
「え〜もうあいつらどこ??一両目にいるって言ってたのに…」
困り顔の美雪は首を伸ばせるだけ伸ばして右に左に、左に右に視線をフォーカスする。
「ね、どこいったんだろ?まあでもとりま座っちゃおうよ!!もう足疲れちゃって…」
千尋は空席になっていたボックス席に荷物を押し込み、ドスンと、なかなかな音を立てて座り込む。そりぁ…まあ…ねえ、自分が自分のこと背負ってればそりゃ疲れるでしょーよと恵と美雪は千尋にバレないようにこっそり苦笑していた。なんとなくその空気を感じ取った千尋は
「…で?なに、二人とも笑ってんの??」
となんとなく答えを把握しつつ聞いてみたが恵は何も言わずにニコッと笑うだけで
「あっ……てか…そっちの席のスーツケースってさあ…」
と飛ばしたお鉢は戻っては来ない。
「あ〜……うん……間違えたらあれだから多分って付けとくけど…多分、仁のだね」
と美雪は自分のスーツケースと色違いの同じスーツケースとを見比べて白々しく言った。さっきのことをまだ根に持っている千尋はどこかこちらから話しかけるのも癪だったのでそーいえば一昨日一緒に買いに行くって言ってたなと心の中だけで呟いた。
「早くしろよ!!乗り遅れっぞ!」
三人の中で瞬発力のあった仁は一足先に電車に乗り込み、冷房にあたりながら余裕をかましている。
「マジで、マジで!百円だけ!!お願いだよおおぉ〜貸してくれよおお」
真夏の熱気と日差しの中で一人だけ涼しげに仁王立ちする孤高の自販機さんの前で海音と光流による所要時間一分にも満たない仁義なき戦いが勃発している。どっちがさっきに買うかでまず争い、そのあとじゃんけんの結果で争い、終いには決着をつけるその回数で争い、いくら来るもの拒まずの自販機さんも流石にぐったりしている。結果としては二人とも買う前に発車のベルが鳴り響き、おめおめと退散する羽目になった。喉が限界まで渇いた二人は自慢げに見せびらかす仁に理性を失った。
「……ん?どうした?ふたりと……」
と仁が二人の視線に気づいた時には既に遅く、言い終わらないうちに右手のジュースは海音に掻っ攫い、それを光流と取り合っている。
「さ、三センチ!三センチならいいっしょ!」
「いや…キャップ一杯頼むよ!」
と勝手に誘拐しておいて交渉を持ちかけてくる。
「やだわ!時間かけてちびちび飲む計画なんだから!!」
と仁が奪い返そうとすると急に電車はカーブには入り、ジュースは誰の手からか空中へと発射され、
高く舞い上がり綺麗な弧を描くようにして左手のボックス席へと飛んでいく。仁は身体を折り曲げて二人の執拗なマークを振り切り、ジュースに向かって手を…伸ばした。一方、後ろの二人は責任回避のためにドアの方まで身を隠し、わざとらしく外を眺める。くるくる回転しながら徐々に緊急着陸の時間が迫ってくる。ペットボトルとそこにいるであろう乗客との距離がほぼゼロになった時にさすがにやばいと後ろの二人が顔を覆った。………数秒の沈黙が流れる。覆った手をそっと外してみるが特に変わったことは感じない。止まったのは時間ではなくペットボトルであり、それは仁の手がペットボトルをなんとか掴んだ、しかしその勢いでほんのちょっと誰かの頭にぶつかったようだった。
「いっーた!何して…」
とその誰かが頭をさすりながら怒ろうとするが
「あの〜ごめんね♪」
と見知った…いや毎日見ている顔が頭を下げる。その声を聞いた乗客三人は顔を手からその主へと向ける。
「ほ〜〜〜ら!やっぱこれ、仁たちじゃん!」
と自慢げに指差す美雪、さして痛くもないのに頭に手をわざとらしくのせる千尋、陸上部の練習で顔を真っ赤にした恵が見えてきた。見知った中で良かったと一度は逃げた二人も何食わぬ顔でさっきの位置まで戻ってくる。
「おお!なんかこゆの久々だな」
と光流は恵と一度目を合わせた後、三人の中間あたりを見ながら言った。文化祭の時は最後の方にいい感じになっていた二人だがそれが終わると元に戻って…いやむしろお互いやり過ぎなほど避けあっていて二人は果たしてどうなったのか海音には皆目見当がつかなかった。しかし前のまんまの関係ではないことは今の二人の視線を見れば明らかだった。
「……ねーねー!!なんで誰も心配してくんないの??」
と当の千尋だけは不満気だが周りはさしてそれを気遣う様子もなく
「てかお菓子ちょーだい、お菓子!お菓子!!」
「えーやだー、自分で買ってきなよー、てかこっちが慰謝料欲しいくらいだよ」
とさっきの事故も早々に忘れ、お菓子好きな仁は食べ物には厳しい千尋がバトルを繰り広げる、ペットボトルぶつけた挙句、無償でお菓子をよこせというのも虫が良すぎるとは思うが仁なら可能だろう。海音は分け終えてあったトランプをまた一つに戻し、そしてまた六人分に分け始めた。
海が見えてはトンネルに入っての繰り返しを終えた電車は熱海に到着した。さすが観光地だけあって多くの乗客が荷物をまとめ始め、電車も大幅なダイエットに成功し、少し身軽になったように見えた。狭っ苦しい電車の中からホームに降り立つと生暖かい風が海の方からゆったりと流れてくる。奥のホームの建物の隙間から水色に近いような青空が見えて無機質なコンクリートに鮮やかに映える。一気に夏休み感が出てくる。
「いや〜遠かったね」
と一番乗りで上陸した恵は背伸びしながら
「な!遠かった〜」
と二番手の光流が恵の荷物を持ちながら
「てか風が気持ちいい」
と仁は同じ車両の違うドアからこっちに向かって走りながら風と一緒に飛び込んできて
「でも暑い、めちゃ暑い」
と押されあいに負けて最後に出てきた千尋はひたすら項垂れる。
「ほら!行くよ!!」
と仁と美雪は元気そうに改札口に向かっていく。
「あ、あいつら元気だな……」
「…あいつら、自体が…アツアツだからじゃ…ん?」
と茹だるような暑さに光流と海音は押し潰される。重いバッグが…いやバッグだけではなく体全体がいつもより三倍も四倍も重く感じる。ブレザーを腰に巻き、スラックスを七分丈まで捲り上げ、第二ボタンまで開ける、夏を出来るだけ涼しく乗り切るための通称フォルムBに変更する。改札から入ってくる風を受けて気分は高く高く舞い上がった。
駅を出た一行はとりあえず暑さから逃げるようにして目の前のマックに飛び込んだ。時計を確認し、集合時間まであと四時間あることを確認した仁は海に行こうと騒ぎ出す。女子には日焼けがやだからと断られ、結局男子だけで行くことになった。涼しい楽園を惜しみながらも荷物を彼女らに任せ、身軽になった三人は左手に見える商店街をくぐってみることにした。お土産屋のおばちゃんに手渡されるままに饅頭の試食を貰い、それを片手にそのまま商店街を下っていく。右を見ても左を見てもどこの店にも客が溢れかえっていて街全体から観光地の活気がひしひしと伝わってくる。人だかりを抜けると車道に詰まる車だかりに足止めを食らう。車の列は全く切れることなくクネクネ道を色とりどりの大蛇みたいに下っていく。車に沿って五分くらい歩くと横断歩道の反対側に下り坂を見つける。上手くタイミングを見計らってその下り坂に入り込んだはいいものの傾斜はキツいし、進んでいる方向は海から直角になっていくし…曲がりたくても一本道だから進行方向を変えるわけにもいかない。すると左手のホテルの従業員入り口を発見した。
「……これさ、いけるんじゃない?」
仁はニヤリと悪だくみ顏をこちらに向ける。
「……行ってみちゃう?」
と海音が同調すると光流もまたニヤリと笑って頷いた。ドアノブをひねるとガシャンと音がしてどんなに強く引いても開かない。
「マジかよ!!これ鍵かかってんぞ!くそっ!」
と仁はドアを蹴り飛ばす。
「……んでマジどーする?」
と光流はドアの周りを入念にチェックしながら言った。するとドアが勝手に内側からガシャンと開いて、特に何か悪いことをしたわけではないが本能的にシャッターの陰に隠れた。すると茶色の甚平みたいな制服を着た従業員が両手にいっぱいのゴミを持って出てきた。その男は
「………ーーー」
何か言ったようだったがドアが閉まる音と重なって全く聞こえなかった。海音はシャッターの陰から顔をそっと突き出し、彼の行方を覗きみるともう既に20メートルは道沿いに下り、さらに先のごみ捨て場を目指しているようだった。
「……よし、行くぞ」
と小さい声で呟いた仁を先頭に光流、海音の順番に一列に壁に張り付くようにしてドアの前に移動し、そおーと………そおーとドアノブに手をかける。潮風のせいか多少錆びていてギィーギィーなるが構わず一気に開けて三人とも中に飛び込んだ。何かの気配を感じたのかさっきの彼はハッと振り向いたが、さっき自分が通った景色となんら変わりはない情景が目に映った。
ドアの内側でふぅーと息を吐いた三人は前の景色を見て吐いた息をすぐに吸い、目を見張った。海岸沿いの道路まで一直線の階段のてっぺん、ホテルとホテルの間の細長いスペースから垣間見えるところどころ小さな綿あめみたいな雲を散りばめた青い空とそれよりさらに濃く見える海とがこちらの暗がりからはさらに鮮明に、幻想的に見えた。高いところにある目映い太陽は波打つ水面をキラキラ輝かせ、白と青の清々しいボーダーに見えた。
「おいおい!早く行かないとまたさっきの茶色が来ちゃうぜ!」
と仁が急かしてようやく我に帰る。どこか名残惜しい気がしたが
「そーだった、急ごう!」
と踏ん切りをつけて階段を海岸へと駆け下りた。道路に出る前に車道を走り抜ける前以上に右、左、右と入念にホテル関係者がいないことを確認し、直前に横を通り過ぎた家族連れの後ろにサッと続いた。海岸沿いの道路の信号は赤のままで目の前が階段しか見えず早くさっき見た海が見たいという気持ちが募ったがこれが良かったのかもしれない。一分くらい経ち、信号は青へと変わり一斉に駆け出す群衆に並んで目の前の階段を駆け上がった。登り切った瞬間気持ちいい潮風が身体をを突き抜け、青いツートンの景色をバックに目の前には楽しそうな声が飛び交い、屋台からは美味しそうな匂いが夏祭りを連想させる。夏だ。夏から連想されるもので埋め尽くされた海岸は僕らのただ暑いだけの夏を少し夏らしくさせた。
「やっぱ…夏だな!」
「な!」
「てか海入ろうぜ!」
「え〜水着ないよ〜」
「いいんだよ!足だけしかつかんないし!」
僕らは波打ち際へと人の波を掻き分けて走り抜けた。先頭の仁がシャツを脱ぎだしたので同じように真似をしてシャツを脱いで吹いてくる風に向かって走った。水を足の裏に感じてもまだ走り続けた。ビシャビシャ、水が捲ったスラックスに飛び散ったがそんなこと気にしなかった。水を含んだ砂を足で十分に確かめ、夏を身体で感じた。押しては引いていく波は…優しく…穏やかに…淡々…と海音の足に打ち付けた。波は満潮に向けて歓声に紛れて…静かに…少しずつ…さらに陸地に押し寄せた。そんなことには海音はもちろん他の誰も気づかない。波はさらに深く…海音の足を飲み込んだ。