片道切符(前編)
太陽が高く上がる前から小山駅前のビルの間を暑い空気が交差し、地面のアスファルトを照りつける。文化祭の日限定の無料運行バスの窓からは道沿いの木々が生き生きとした葉をめいいっぱい伸ばし、その隙間からは祭り日和の青く晴れ渡った空が広がっていた。いつも赤信号に捕まるガストと薬局の前の信号にも今日は飛び道具を使ったおかげかスムーズに橋を渡れた。学校の校門の前に横付けしたバスの前のドアから降りた海音は少し先に見える実行委員がパイプを組み立て、カラフルな装飾が施されたゲートと対峙する。昨日、沙也加が頑張ったから入ってみろとしつこく言っていたのでみんなその横をすり抜けて行く中でゲートへと近づいてみる。綺麗に飾り付けてんなあと感心して入ろうとすると……遠くで見たより高さがないようだ。あと一瞬遅れてたら頭をぶつけているところだっただろう。少し前かがみに進むが焦って体勢を作ったため、周りは見えず、足元しか見えない。無駄に長いトンネルは一種の罰ゲームのように思えてくる。やっと足元に光が差してきたのを確認して一歩大股に足を踏み出し、一気に脱出する。さっきまでのうだるような暑さがさらに暑いところからの帰還でいくらか涼しく感じる。ステンドグラス風に作ったと言っていたがそれが天井のみならば海音にとっては単なるサウナトンネルを歩いていただけのことである。三言くらいの文句を物申してやろうと思うが……その何倍もの攻撃が返ってくると思うと……やめとこうと思い、下駄箱にローファーを押し込んだ。
控え教室の場所を職員室で確認して、そのままA棟、東の階段から三階の向かって左手の奥に足先を向ける。教室の中を覗くが電気はついておらずなぜかカーテンも閉まっていて真っ暗だ。それに廊下には女子のバックがいくつか並べられていた。鍵がかかっていて入れないのだろうか思ってドアのノブに手をかけるが鍵はかかっていないようだった。ギィーと鳴らないようにゆっくりと扉を開けて足音を立てぬように電気のスイッチを探す。すると
「おい!」
と聞き覚えの……あるというか毎日聞いている声がする。
「なんだよ??仁?」
と目に見えてめんどくさい顔をして答える。
構わず仁らしき像は
「おい!貴様!俺は仁ではない!それより貴様はどれが肉体美という言葉に相応しい身体か答えろ!!」
とよくある刑事ドラマの取り調べを気取っている。その声と同時に黒板の前に並んでいる男の像はそれぞれのポーズを決めて筋肉をより固く隆起させる。段々と目が慣れてきてよくよく見ると仁の他にも光流や和彦、順也…そして意外なことに航輝までもポーズをとっている。趣旨がまったくわからないので
「…てかこれなんのために…?」
と聞くとやれやれみたいな動作をして順也が
「今日、麗奈さんと一日シフト同じにする権利かつお化け屋敷に入る権利だよ!」といかにも常識だろ!みたいなノリで答える。少し状況が見えてきて面白くなってきた海音は
「えっと……それでなんで…筋肉なん?」
とさらに重要なところを聞くと
「そりぁお前、麗奈さんがマッチョな男の人がタイプだって言ってたからだよ!!」
といつも大人しめな和彦まで興奮気味に話す。そういえば昨日、麗奈さんが重い荷物を運ぶ場面でそんなことを言っていたらしいと順也がネットでつぶやいていたのを思い出した。その場は筋肉の見せ合いとなり、結果C組の河野がその座を勝ち取り運んだらしい。本当は線の細い人が好みだと聞いていた海音はそれに近いシルエットを探した。
「じゃあ和彦でいんじゃん??」
と言うと和彦以外のメンバーは大ブーイングで判定を覆すように求めてくる。しかしそこで人を変えたところで状況は変わらなかっただろう。するとそこに沙也加が飛び込んできて
「もう!!早く着替えちゃいなよ!!他の女子入れなくなってるじゃん!!」
と電気のスイッチを躊躇なくつけて七人の頭を文化祭のパンフレットで殴りつける。なぜ俺まで……?と思うが不満なことを少しでも顔に出したらもう一発叩かれそうだったので黙っておいた。
「B棟三階でお化け屋敷やってまーす!」
と段ボールの看板を片手に宣伝に回る。時計はまだ開始から九十度しか回っていないがこの単純で客からのレスポンスのない仕事に飽き飽きしてくる。そんな海音と仁がA棟二階の廊下を歩いているとかき氷を売っているクラスが見えてくる。
「…めっちゃ食いたい!」
と半ば本能的に声が仁の口から漏れると
「でも財布控え教室に忘れたし…どーする??」
とあくまでかき氷を食べる方向で話を進める。お金がなくても涼しくなる方法としてガリガリと大きく透き通った氷が雪のように積み上がっているところをじっと見つめてみたがもちろんまったく涼しくはならない。ふとその機械を回している手の主を見ると……海音のサッカー部と仁のハンドボール部の後輩の二人でかき氷を作っている。悪い二人の先輩は一瞬にして物欲しげな目から狼の目にかけかわり、目の前の羊を狙って舌舐めずりをする。
「森く〜ん!」
「玉田!」
とそれぞれがそれぞれの後輩の名を呼ぶとぎょっとした顔で振り向く。
「い、一ノ瀬先輩!こんちわっす!」
「伊藤さん!ちゃっす!」
とほぼ同時に頭を下げて挨拶をする。目に見えて獲物を狙う顔をしている先輩を前にうろたえる後輩二人はエプロンで慌てて手を拭いてメニューを手渡す。
「えっと…ですね、こっちがシロップの種類になっててこっちがトッピングになってます!」
と森くんが気を利かせて説明すると
「通常が百円でトッピングが一つ二十円です!」
と玉田くんが付け足す。
「えーじゃあ俺は〜、レモンがいいな〜!」
と柑橘類が好きな海音が注文すると
「えっとな、うんとな、ちょっと待て!ん〜、ブルーハワイかイチゴか…あっじゃあどっちもくれよ!」
と途中で何かを思い出した仁が加えて注文する。
「二人で三百円になります!別々にしますか?てか特別にシロップサービスしますよ!」
と玉田くんがメモしながら元気に特別サービスまでつけてくれちゃう。
「あのなぁ玉田、すごい悪いんだけど財布ないんだわ…だからさあ……無料お試しセットみたいなの頼むわ!」
と頭を書きながら全然申し訳なさそうに見えない顔で仁が打ち明ける。
「え〜!!先輩!なにやってんすか!もう作っちゃってますよ!!てか化粧品じゃないんだからんなもんあるわけないでしょ!!」
と若干予想通りだが予想通りになって欲しくなかった森くんは言っても無駄だがそれを承知で一応先輩たちに文句を言う。
「じゃあそれ、俺らがもらってやるって!」
なんの解決にもならない解決策をさも最高の解決策のように提案する仁に
「え〜もうなに言ってんすか…」
とまったく予想していなかった玉田くんは言葉を失う。本当にかわいそうだなと思うが自らの食欲の前ではそんなちっぽけな正義感は勝てない。玉田くんにしろ、森くんにしろ、先輩にいい顔をすることはいくらでも出来るが他のクラスメイトから…特に男社会がわからない女子からのバッシングはなんとしても避けたいものだ。さすがにかわいそうに思った海音は
「じゃあさぁお化け屋敷の優先権でどう?今日の二時から四時ならシフトだからさ!なあ頼む!!」
ととりあえず言ってみる。それと同時に顔の前で手を合わせている海音に合わせて仁も真似して合わせてみる。後輩2人の脳内で損得計算が始まる。…三秒後にはレジの代役をしているお菓子の缶に三百円は吸い込まれていた、もちろん払うべき人間の財布からではないが。
「先輩!ほんとたのんますよ!」
「三時に行きますからね!!」
と再三念押しして三百円のもとをとった気になろうとする。それを右手をひらひらさせながら
「わーったよ。後でな!」
と渡されたかき氷をテーブルから両手に持ち上げ、満足そうに教室を出ていく。狼が去ったことに対する安堵感からか財布が少し寂しくなったことからの物寂しさからか……お客さんでテーブルがいっぱいの騒がしい教室に二つのため息が聞こえた。
さっき徴収したかき氷を食べながら一階に降りてB棟に行ってみる。かき氷で両手が埋まっているので看板を脇に挟みながら動き回るのは不便なことこの上なかった。もういっそのこと何処かに飾っておこうかと考え始めたとき前から美雪と沙也加と千尋がぬいぐるみやお菓子を両手に抱えて歩いて来る。
「仁!!……と海音」
と美雪が仁に思いっきり手を振って寄ってきてあくまで海音はグリコのオマケ的に付け加えられる。それをカバーするかのように
「海音!さっきそこで取ったお菓子あげるよ!!」
と千尋が営業スマイルでお菓子を手渡す。千尋は元々モテる方だが誰にでも無駄に優しさを振りまくきらいがあり、そこが本命の男の子の不安心を煽って遠ざけ、どうでもいい人は浮かれて近寄って来る、負のスパイラルを生み出してると海音は思うのだが…。
「おー!さんくす!」
と言いながら袋を開けてみる。
「あんたち!サボってんじゃないでしょーね!」
と沙也加はいちゃいちゃしている仁と美雪を一瞥してほとんど海音に言ってくる。
「ほらほら、ちゃんと看板持ってるじゃん!」
と仁が海音の脇から看板を引き抜き、沙也加の顔の前に焚きつける。
「それを脇に挟んでちゃ見えないでしょ!!バカなんじゃないの??」
呆れ顔になって看板で海音の頭を叩き、そのまま仁に手渡すと
「そろそろ、シフトだから戻るよ!」
と仁の横にいる美雪と早々に別の男子にお菓子をあげている千尋に声をかける。階段を二人は人が溜まっているであろうエントランスがある下の階へ、三人はお化け屋敷がある上の階へと歩み出した。
「ただいまをもって青葉祭一日目の一般公開時間を終了とします。」
と実行委員の無愛想な言葉がスピーカーから流れ出し、入場客は帰り出す。今日は澪の髪型がいつもと違ってたぞと順也から情報が入ってきていたが、昨日あんなことがあって澪が俺のことを避けているのか…、それともたまたまシフトが被っていなくて顔を合わせるチャンスがなかったのか…。まあどちらにせよ、明日には同じ時間にシフトが被っているし、なにより二年生のパフォーマンス大会で見に来ると言っていたから明日には会えるだろうと思った。少し片付けをした後、控え教室で明日のパフォーマンスの最終確認をみんなでして気づいたら外は真っ暗になっている。窓のカーテンを開きながら谷繁先生が
「今日は帰り暗いから女子は男子と帰れよ!!」
と言うと女子はお互いの顔色を見ながら誰にいくかを探り合い、男子は一緒に頼まれたいがそれを女子に感づかれないように必死に冷静を装う。その教室を取り巻く、表面上は静かながらさまざまな思惑が飛び交う不思議な空間が成り立つ。あったとしても空々しい会話が流れている空間を
「美雪、帰りマックよろーよ!」
とまったく空気を読めない仁が周りの異様な空気を読むことなくその空間を切り裂き、大きな風穴を開ける。
「んじゃいこ!先生、さよーなら!みんなもばいばーい!」
とあくまで二人のペースで教室を後にしていった。それを皮切りに男子から女子からは問わず続々と帰り始める。海音は莉乃から帰ろうと言われたが本人には悪いと思ったがみんなと帰ることにした。今は他の女子について新たになにも知る気にはなれなかった。わざとみんなとの帰り道の間もなるだけ男子と話しをするように意識していた。駅でみんなと別れた海音は誰もいなくなった反対側のホームを見てふと寂しい気持ちになった。文化祭で満たされたここ一ヶ月の達成感と胸の穴を塞いだもろもろが明日を最後に終わるのだ、と考えると妙な虚無感に襲われる。何かに没頭することで逃げてきた自分からその没頭するものを取り上げられてしまったら何がどうなってしまうんだろう。自分を取り巻く環境が変わって自分も変わったと勘違いさせているのか…それとも自分がもう以前とは変わってきているのか…。どちらにせよ、明日が終われば分かることである。しかし見えない明日が、不安で予測不能な未来が怖かった。認めたくはない何かがはっきりするのが怖かった。楽しい時間が流れる、この空間に一生いれたらいいのにと思った。まだ夢から覚めたくはなかった。それでも刻一刻と朝を告げる針は動き続けた。
昨日の天気予報ではキャスターの横で傘マークの大群が一糸乱れぬダンスを披露していたたが今朝の窓の外に広がる空はところどころ雲はあるもののおおよそ晴れと言えた。空に浮かぶ小さな雲の塊は羊の群れの大移動のように同じ目的地を目指し小さくなっていく。カーテンの隙間からは心地よい風と朝日が流れ込む子供部屋には一人分の寝息しか聞こえてはこなかった。 太陽がまだ十分に照らし切れていない駅のバス停には時刻表を覗き込む海音の姿があった。まだバスの運転手が出勤さえしていない時刻に時刻表を確かめるだけ無駄であり、それに気づくのに幾ばくもかからなかった。日が強くなる前に校舎に逃げ込もうと信号の根元の赤いボタンを何度も押した。風がシャツの裾から入り込み、身体とシャツの間を駆け抜けた。その心地よい風が海音を包み込み、学校に着いた時にもシャツのどこの部分も濃くなってはいなかった。