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ゴータマ・シッダールタ

作者: 春瑞

かの尊き師、覚った人、福運満ちたる世尊に、私は敬礼したてまつる。



これをお読みになっている多くの方は、仏教をご存じだと思う。

きっと家にはお仏壇があり、ご僧侶の唱えられるお経にみなで手を合わせた経験が、誰しもあるのではないだろうか。

そんな仏教の開祖とされている釈迦しゃかを、歴史的に実在した人物であると意識されている方は、存外少ないのではないか。


釈迦は今から約2500年前、インドのルンビニーというところに、釈迦族の王子として生を受けた。

ここでは仏教の教えや歴史については触れないから、興味のある方はお調べいただきたく思う。


ご存じの通り、釈迦は当時としては最高に恵まれた王宮での生活を捨てた。

そして、この世の苦悩を乗り越え、悟りを得るためにひたすらに走り続けた。

地位や名誉、財産、家族など、俗世で重要視されるものをすべて捨て、苦行をすることによって自身のうちに潜む欲望という悪魔に打ち克とうとしたのだ。


苦行中の釈迦に、悪魔ナムチが囁きかける。

「あなたは痩せていて、顔色も悪い。あなたの死が近づいた。

きみよ、生きよ。生きたほうが良い。命があってこそ諸々の善業をなすこともできるのだ。

苦行につとめ励んだところで、何になろうか。つとめはげむ道は、行きがたく、行い難く、達しがたい。」


それに対して、釈迦はこう答える。

「怠け者の親族よ、悪しきものよ。わたくしにはその世間の善業を求める必要は微塵もない。

わたくしには信念があり、努力があり、また智慧がある。このように専心している私に、汝はどうして命をたもつことを尋ねるのか。わたくしはこのように安住し、最大の苦痛を受けているのであるから、わが心は諸々の欲望に引かれることがない。」――スッタニパータ(中村元訳 岩波文庫)


釈迦は、「悟りを得るまでは絶対に退かない」と心に誓い、ピッパラの樹の下で人生をかけた瞑想に入る。それはまさしく骨肉砕けるほどのものであったのだろう。


しかし、ついに悟りは得られなかった。


死ぬほどの苦行をしてたどりついたのは、絶望でしかなかったのだ。

「いくら苦行をしてもダメだ。きっと、自分は劣った人間なのだろう」

失意のどん底にあった釈迦は、身も心も疲れ果てていた。


そんな釈迦を、近くの村に住んでいたスジャータという名の少女が見つける。

スジャータはそのありさまを見て、釈迦に乳粥(米でできたプディング)を供養として施したのだ。

釈迦はそれを食べて体力を回復し、再び瞑想に入る。自分は、もしかすると何か見落としていたのではないか――。

そしてついに、彼は「目覚めた人」ブッダとなったのだ。


一人の求道者が、すべてを捨ててたどり着いた絶望という深い闇の中で、一筋の光明を見た。いったい、それは何だったのだろうか。


晩年釈迦は、信者から供養された食物で中毒を起こし、弟子たちや信者に看取られながら静かにこの世を去った。罪悪感に苦しむ信者に、臨終直前の釈迦はこんな言葉を残している。


「誰かが、鍛冶工の子チュンダに後悔の念を起させるかもしれない、――〈友、チュンダよ。修行完成者はお前の差し上げた最後のお供養の食べ物を食べてお亡くなりになったのだから、お前には利益がなく、お前には功徳がない〉と言って。

アーナンダよ。鍛冶工の子チュンダの後悔の念は、このように言って取り除かれねばならぬ。

〈友よ。修行完成者は最後のお供養の食べ物を食べてお亡くなりになったのだから、お前には利益があり、大いに功徳がある。友、チュンダよ。このことを、私は尊師からまのあたり聞き、承った、――この二つの供養の食べ物は、まさに等しい実り、まさに等しい果報があり、ほかの供養の食物よりもはるかに優れた大いなる果報があり、はるかに優れた大いなる功徳がある。

そのふたつとは何であるか?

修行完成者が供養の食物を食べて無常の完全な悟りを達成したのと、および、このたび供養の食物を食べて、煩悩の残りのないニルヴァーナの境地に入られたのとである。

このふたつの供養の食物は、まさにひとしいみのり、まさにひとしい果報があり、ほかの供養の食物よりもはるかにすぐれた大いなる果報があり、はるかに優れた大いなる功徳がある。

鍛冶工の子である若き人チュンダは寿命を延ばす業を積んだ。

鍛冶工の子である若き人チュンダは容色をます業を積んだ。

鍛冶工の子である若き人チュンダは幸福をます業を積んだ。

鍛冶工の子である若き人チュンダは名声をます業を積んだ。

鍛冶工の子である若き人チュンダは天に生まれる業を積んだ。

鍛冶工の子である若き人チュンダは支配権を獲得する業を積んだ。〉と。

アーナンダよ。鍛冶工の子チュンダの後悔の念は、このように言って取り除かれねばならぬ。」――「ブッダ最後の旅 大パリニッバーナ経 (中村元訳 岩波文庫)


もしかすると、彼が気づいたものは、我々が日々その目で見、肌で感じている、ありきたりだけれど、とてもあたたかいものであったのかもしれない。


おわり

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