明日も
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ずっと変わらずに仕事が続く。世の中は不況なのに、あたしは働かされっぱなしだ。ゆっくりする間もなく業務が続くので、疲労は雪だるま式に溜まっていく。会社のフロアにいて、ずっと椅子に座っているので、幾分坐骨神経痛気味だ。パソコンのキーを叩きながら、上の人間に見せる企画書などを作るのがメインの仕事である。データは随時フラッシュメモリに保存していて、常にバックアップを取っていた。企画書の類はボツになるものが実に多い。あたしも大学卒業後、一年のブランクを経て今の会社に入ってきてから、十年以上経つのだし、フロアの主任を任されていた。別に気にすることはなかったのだし、仕事内容もほとんど変わらないとなると、新しいことは覚えずに済むのだが、疲れてしまう。業務の合間の休憩時間、いったんフロアを抜け出て、隣接している休憩室で深呼吸する。苦めのコーヒーをブラックで飲みながら一息ついた。あたしも生身の人間だから、どうしても疲労が来る。それにずっと椅子に座っていれば、持病の坐骨神経痛も悪化してしまう。いつも腰にコルセットを巻いていて、痛みがひどいときは掛かり付けの病院からもらっていた痛み止めを飲み、抑え込んでいた。やはり三十代ともなれば、病気の一つや二つ出てきたとしてもおかしくない。今日もフロアにいる時間帯はずっとキーを叩き続ける。そして昼になれば食事を取りに出かけた。あたしもランチタイムはとても楽しみだ。昼食時にはいつものランチ店で日替わりを頼むのだけれど、料理のメインが毎日変わるので日々楽しむことが出来た。昼食時ぐらいはゆっくりする。さすがにずっと同じ空間に詰めっぱなしなので、昼ぐらいは何も考えずに済むのだった。食事を取り終われば、ホットコーヒーをカップ一杯口にして、襲ってくる眠気を追い払う。そして会社に向け、歩き出した。
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「高丘主任、お電話が入ってます。内線二番です」
その日の午後四時過ぎ、部下の男性社員から声が掛かったので受話器を手に取り、二のボタンを押す。そして右耳に押し当てた。
「はい、お電話代わりました。高丘ですが」
――ああ、高丘君か。俺だよ。東中物産専務の中橋だ。
「ああ、中橋専務。……何かご用件で?」
――うん。実は今夜の夕食に君を誘おうと思ってね。いつも同じものばかり食べてちゃ飽きるだろ?
「ええ、まあ……」
咄嗟のことで判別が付かなかった。ただ、食事会となれば、多分中橋はステーキハウスなどに誘って奢るのだろう。あたしも普段からステーキ肉などはほとんど食べてない。別に食事自体倹しくても構わないのだが、豪勢な食事をご馳走してくれるとなれば、それに越したことはない。あたしも誘いに乗る形で言った。
「分かりました。参ります」
――通りにある<ラジャードル>で午後七時半に待ってるよ。じゃあまたね。
「失礼いたします」
頷き、受話器を置く。そして残っていた仕事を片付け始める。さすがに疲れていた。だけど、あたしにとって中橋から誘われる食事は初めてだ。ずっと仕事ばかりでろくに休む間もない。疲労が続いている。ゆっくりと食事をし、会食の席上で今後うちの社と東中物産の取引などが継続することなどが決まれば、それで一定の意義があるのだ。食事会というのは何かを取り決めたりする際によく設けられる場である。あたしもそういった点に関して全く同じ考えだった。特に中橋は美食家だから、食事は豪勢に、ということだろう。あたしもそういった場所でゆっくりと夕食を取りながら、決まることがいろいろとあるものと思われた。いつもはコーヒーが一杯付いていて千円ちょっとで済む昼食を食べるのだが、中橋のように夕食には分厚いステーキ肉などを食べる人間も大勢いる。いくら不況でも、東中物産は全国展開する大手の商社だ。そこの商品の企画を考えるのが、うちの社のような中小の下請け会社の仕事なので、いろいろと話が出ると思う。その日は電話を受けてからずっと夕食の時間が楽しみだった。美味しい物を思い浮かべると、つい口の中に唾液が出てしまう。ずっと仕事ばかりしていたので疲れていた。だけど、ゆっくりする間も欲しい。そう思いながらパソコンに向かっていた。ずっとキーを叩き続けるから、以前よりも腱鞘炎がひどくなっていたのだし……。
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目抜き通りにあるラジャードルに午後七時半前に着くと、中橋がテーブルに座って待っていた。一礼すると、
「座りなさい。一応ステーキのセット物を二人分頼んでおいたよ。飲み物は何がいいかい?」
と訊いてきた。いつもアルコールフリーのビールばかり飲んでいるので、たまには違うものもいいかなと思い、
「じゃあ、シャンパンかワインを」
と言った。中橋が頷き、近くに立っていたウエイターにワインを一本頼む。そしていろんな話が出た。うちの社との今後の提携方針や、他にいろんなことなどが話題として遡上に昇る。あたしもビジネスのときは対等に話をしたいので、ゆっくりと時間を掛け、進めていた。テーブルに届いていたワインを開けてグラスに注ぎ、飲みながら……。ラジャードルは幾分高い店だ。だけど中橋にすれば、自分のポケットマネーで食事を奢っている感覚だろう。あたしも思っていた。こんなに高そうな料理ばかり食べていたら、病気にでもなるだろうなと。実際、五十代後半の中橋が糖尿病を患っているのは聞いている。あたしも一言言おうか言うまいか迷っていた。だけど、この和やかな席でムードをぶち壊しにする話はまずいと思う。ゆっくりと食事に付き合った。十月上旬で日が落ちるのが早く、夜になると、辺り一帯が暗くなり始める。こんな夜は酔って自宅まで歩いて帰るのが一番だった。通勤は徒歩である。いつも歩いて通っていた。バスや電車などを使わなくても、十分行ける距離に自宅がある。一通り食事が終わると、中橋も立ち上がり、
「明日も仕事があるからね。今日の食事は俺の奢りだ」
と言って、店出入り口でカードを提示する。いつもキャッシュカードを使っているようだった。金銭感覚はまるでない。だけど、これが大手商社の専務の私生活だ。あたしも半分は呆れている側面すらあった。別に中橋がジャンジャン金を使うことに対し、何かを言うことはなかったのだが……。それに今日の食事会は半ば接待のようなものだったし……。まっすぐに家路に着く。疲れていたのだが、あたしも足取りが軽かった。食事を済ませてお腹一杯になったのだし……。店の前で別れた後、中橋はタクシーで帰ったようだった。自宅マンションに帰り着いて、すぐにパンストを取る。パンパンになっていた。むくみがあったし、肌に脂が浮いていたので服を脱ぎ、着替えを持ってバスルームへと入っていく。そしてシャワーを浴びた。ゆっくりと温めのお湯を体に掛ける。この季節は幾分温いお湯でも十分大丈夫だ。ずっと続く仕事へのご褒美だと思えば、今夜の豪勢な夕食も説明が付くだろう。そして入浴後、リビングへ戻り、風呂上りなので冷蔵庫からミネラルウオーターのボトルを取り出す。キャップを捻り開け、ゆっくりと呷った。冷たい水が喉を通り抜けるときは実に心地いい。あたしも満足していた。それと同時にまた明日も仕事があると思って遅くまで起きておかずにベッドへと潜り込む。BGMに静かなクラシック音楽を掛けて眠気を誘わせながら……。
(了)