第八章 現実
「体力つけねぇと家にも辿りつけねぇぞ」
「す、すみません……」
何も言いたくはないが、答えない訳にもいかず必死に声を絞り出す。
イリスが降りたのは森の中。暗くなる前にここで夜を明かすという。
「イリスがいるから安心だ」
「どういうことですか?」
水を飲んでようやく落ち着いた私に、ヴァイスは説明した。
「イリスは魔物だ。珍しくもねぇ。ワイバーンは空の強者。だが辺りの動物や魔物なんざ、イリスの気配に怯えて姿も見せねぇ」
「……そうなんですね」
事実かどうかはわからない。けれど、ワイバーンと旅をしている彼の言葉を受け入れるしかなかった。
「寝ていいぞ。俺は様子を見ながら仮眠する」
「すみません」
そう言いながら手を振るヴァイス。その夜は、兎を狩り、彼が捌く姿を「覚えろ」と見せられた。これがこれからの日常なのだと必死に堪えながら観察した。
兎の毛を剥ぐとき、皮膚がべりと裂け、まだ温かい肉が露わになる。刃先が骨に当たると、手に痺れるような硬い感触が返ってきた。血の鉄臭さと焚き火の煙が混ざり合い、鼻を突く。
腹は減り、身体は栄養を求める。塩だけで炙られた兎の肉。噛み締めると肉汁が口の中に広がり、胃がようやく落ち着いていく。自分に何ができるのかを考えずにはいられなかった。
「起きたか?」
「はい、何か手伝えることは?」
「なら、あっちに川がある。新しい水を汲んで来い」
言われた先には透き通った浅い川が流れていた。ヴァイスはこれを知って、ここを夜営地に選んだのだと気付く。水袋をすすぎ、新しい水を汲む。
夜営――それはイリスと旅をする彼の日常。獲物を狩り、水を確保し、交代で夜を見張る。
「早く覚えろよ。夜は無理だがな」
「はい、ありがとうございます」
拾われた身。覚悟を決めてはいたが、私の思い描いた旅とはかけ離れていた。
けれど、コリンは街を出られた安堵の方が勝るらしく、ヴァイスの仕草を必死に盗もうとしていた。
(しっかりしないと)
私は何があっても受け入れると心を固めた。
眠る前、ヴァイスから知識を学ぶ。
コリンは獲物を捌けるようになり、私は手が震えて時間がかかり、途中で刃物を取り上げられた。代わりに薪を拾い、水を汲む。
「どうでしょう?」
「まあ、合格だ。ただ“できるようになった”だけだ」
それでも――ついに自分の手で兎を解体できた。焼かれた肉は相変わらず塩味だけだが、コリンが心配そうにこちらを見ている。彼に「大丈夫」とかけた言葉は、自分に向けた言葉でもあった。
空の旅は唐突に終わった。
ヴァイスの住む家へ降り立ち、初めてそこで「旅が終わった」と気付く。
翼が地を叩くようにたたまれ、草原の風が静かになった。あの理不尽な浮遊感も、耳を裂く風音も消え、ただ虫の声と土の匂いだけが残る。
イリスの巨体から降り立った足は、地面に縫い付けられるように重かった。膝が震えても、もう空は遠い。
(……結局、目を開ける余裕はなかったけれど)
それでも、頬を撫でる風はもう冷たくはなかった。現実に戻ってきた安心と、二度と同じ高みを見られないかもしれない寂しさ。そのどちらとも言えない感情を胸に抱え、私は深く息を吐いた。




