第六章 名前
宿屋へ入るとヴァイスが慣れた様子で、私たちには二人部屋、ヴァイスは一人部屋と手際よく店主とやり取りをしている。
部屋へ荷物を置いたら、ヴァイスが悪びれもせず私たちを指差して声をかけた。
「飯が出るんだ。その前に汚ねぇからな」
改めて見ると、私たちはお互い皮膚が何色なのか、原因が何かも解らないくらい、頭から足の先まで着ている服さえもいろんな染みや汚れで黒ずんでいた。
(生きる事に必死で…これは良く無いですね)
ここまでの余裕が無かったのは事実だが、このなりで堂々と成し遂げた自分自身に驚いた。
ヴァイスについていくと宿屋の裏手には井戸があった。ここで身体を拭くように言われる。
ヴァイスがやり方を示し、購入したばかりの布で擦る。井戸の水は鉄の匂いが残るほど冷たく、肌を刺すようだった。だがその冷たさが心地よくもあった。
「汚ないですね」
「ははっ! だろ? くせぇし」
「臭いですね」
「はっ! お前おもしれぇな」
擦っても擦っても垢が落ちる。信じられないほどに。桶の水もすぐに茶色くなり、何度か水を変えて漸く落ち着いた。
私は隣で真似をする彼にも力加減を教え、皮膚を傷めぬよう気を配った。
「仲いいんだな」
「はい。彼が居なければ、私は……死んでいたかもしれません」
「ほぉ、逆に見えるが。まぁ、で? お前ら名は?」
はて、と気づく。互いの名前を知らないままだったことに。
ヴァイスも、呼び分けが出来ぬからと理由を述べる。
「……こ、りん?」
彼には名前があった。自己紹介などしてこなかったから知らなかったのだ。
少し恥ずかしげに、それでも真っ直ぐにヴァイスを見て告げる。
「コリンか。いい名前じゃねぇか。お前は?」
「……知らない?」
「シラナイ?」
「いえ、知りません」
「解らない、無いってことだ。そういう時はな」
正しい言葉を知らぬと思われたようだが、意味は通じた。
けれど今は名よりも、まずこの垢と臭いをどうにかする方が先決だ。
コリン――彼の口から出た名。その背景を探ろうとした思考を、私は止めた。
過去ではない。大事なのは未来だ。
昨日からの付き合いとはいえ、コリンは私を支え、共に困難を乗り越えてきた。
これから先を描く仲間。運命共同体。
そしてそれを導くヴァイスは欠かせぬ存在であり、恩師でもある。偉大な者に対し烏滸がましいとは思うが、私に出来ることは知識を惜しまず差し出し、力になること。
夕暮れの橙色の空に、改めて誓う。
宿屋で有難い食事をとり、屋根があり壁がある、そして寝台。文化の中で休める喜び。
寝具に身を沈めると、安堵のあまり意識を失った。
翌朝、夜明け前に宿を発ち、簡単な朝食を口にしてヴァイスの拠点へ戻る。
新しい古着に袖を通し、靴を履き、背負い袋を担ぐ。
粗末な作りに肌触りも悪いが、不思議と心は弾んだ。過去の衣服より劣ろうとも、この旅支度は未来へ続く扉に見えた。
振り返ることはない。街に未練などなく、大切なのは隣を歩くコリンだけ。
これから何が待つのか。最悪を想定しつつ、対応を頭の中でシミュレーションする。
重い荷を背負い、横にコリンを連れて、私はヴァイスの背を追いかけた。




