第三十三章 温冷
私たちはあれから街を離れる理由もなく、シルバーランクのまま活動を続けていた。
気が向いた時には遠征に出て魔物を狩り、休息の日にはヴァイスたちの暮らす家に招かれ、ハリーと遊び、ナリエルの用意してくれる温かな夕食をいただく。
そんな平穏な日常が繰り返され、私の心も安定していた。
ただ、最近は少し様子が変わり始めていた。
この日もコリンと遠征に出かけ、獲物が悪くならないうちに組合へ持ち込んだところで――
---
「お帰りなさい! コリンさん」
声をかけてきたのはマリン。
獲物を組合へ持ち込む日は、決まって彼女が待っている。
きっかけは以前、組合の前で人とぶつかり転びそうになったところをコリンが支えたこと。
それ以来、彼女は私たちの前に現れるようになった。
マリンは街で刺繍を生業としており、依頼人として組合に出入りしているわけではない。
---
「これ、昨日焼いた菓子なのぉ。コリンさん好きでしょ?」
「……ありがとう」
最初は控えめだった彼女だが、最近では焼き菓子を渡す時にさりげなくコリンの手に触れ、さらには豊かな胸元を押し付けるような仕草まで見せるようになった。
彼女の狙いは明らかで、色恋に疎い私にも理解できるほどだ。
なぜか彼女は私の存在を完全に無視し、まるで透明人間のように扱っている。嫌われる覚えもないのだが、視界から排除されている。
---
「マリン。コリンさんのことが心配でぇ、本当に心配でぇ」
名前の響きが似ているせいで、「マリンとコリン」と繰り返すだけで、妙なリズムが頭の中にこだまする。
彼女の行動は観察対象として実に興味深い。
今もまた、果実のような胸を巧みに使い、コリンの視線を誘導しようと――しかし失敗。
顔を歪めつつもなお距離を縮める。必死さが伝わってくる。
だが、肝心のコリンは何も感じていないのか、意識していないのか、全く反応がない。
これまでの旅でエルフの特性について聞いていたが……二人を見ているといたたまれなくなる。
ヴァイスとナリエルが出会った時のような情感がコリンにあれば応援する気にもなるのだが、そうした気配は皆無だ。
---
「わぁ~、こんなに沢山っ。すごい! コリンさんの戦うところ、マリン見てみたいなっ」
普通なら日を改めて出直すところだが、彼女は臆することなく、魔法鞄から獲物を取り出す場面まで付き添っていた。
その光景を、中にいる組合員たちが横目で眺めている。
受付前の大広間には木の机と椅子が並び、依頼を終えた者や出発前の者が酒を飲み、談笑し、時に地図を広げて作戦を立てていた。
---
「おい、またマリンがやってるぞ」
「あれは本気だな。見てて気合を感じるわ」
「でもコリンは全然気づいてねぇだろ」
「鈍感にも程がある。あんなの、俺だったら一発で落ちる」
さらに、後ろの卓では賭け事まで始まっていた。
「今度こそ抱きつくぞ、銀貨一枚賭ける」
「いや、今回は失敗する。ほら、もう顔歪めてるじゃねぇか」
小さな山に積まれた銀貨が、周囲の興味をさらに煽る。
組合職員もそれを咎めず、むしろ面白そうに眺めていた。
特に犬耳の獣人女性は、控えめな笑みを浮かべながら頷き、まるで応援団のような雰囲気を出している。
その周りの職員も帳簿をめくる手を止めたり、わざとらしく咳払いをして様子を伺っていた。
---
「マリンちゃん、頑張ってるなあ」と呟く若い組合員。
「俺もあんなふうに迫られてみてぇ」と羨む者。
「ああやって熱心に想われるのも才能だな」と笑う者。
空気全体が一種のお祭りのような熱を帯び、日に日に熱を増していた。
だがその熱は、当のコリンにはまるで届いていない。
彼は獲物の受け渡しに集中し、無関心を貫いている。
その様子を見て、私はとうとう声をかけた。
---
「そこのお嬢さん」
「へ? あたし?」
マリンを正面から見据える。
広間のざわめきが一瞬止まり、注目が集まった。
「まずは、その無駄な果実をしまいなさい」
赤面した彼女が胸元を抑えると、酒を飲んでいた男たちが噴き出し、数人は咳き込み、別の卓では「ほら言われた!」と歓声が上がった。
「な、なによ! スケベ!」
「スケベなら忠告などしない。見苦しいからしまえと言った」
私の声が低すぎたのだろう、空気が張り詰めた。
笑っていた者たちも一斉に口を閉じ、視線を泳がせる。
マリンは怯えたように身を引きながらも、なお言い返す。
「わ、わかったわよっ」
私は笑みを深め、さらに言葉を続けた。
---
「コリンの気持ちは分からないが、お嬢さんのやり方では無理だ。
その策を伝えた者は愚か者だ」
愕然とする犬耳職員。
その隣で帳簿を抱えていた若い職員は顔を青ざめさせ、酒場の方では賭けていた冒険者たちが一斉に銀貨を掻き集める。
「気持ちは自分の言葉で伝えなさい。
身体を押し付けるばかりでは相手の心は動かない」
---
私の言葉に、沈黙していた広間の空気が重く落ちた。
マリンは小さく頷き、俯いたまま組合を出ていった。
残された冒険者たちは苦笑しながら酒をあおり、「まあ、正論だな」と呟く者もいれば、ただ気まずそうに視線を逸らす者もいた。
私はコリンに礼を言われ、職員に軽く釘を刺し、その場を後にした。
組合に残された者たちは、何か熱気を失ったように、静かなざわめきだけを漂わせていた。
---
それ以降、マリンの姿は見かけなくなり、犬耳の職員も別の支部へ移されたと聞いた。
組合の幹部からは謝罪を受け、組合内の空気もどこか重苦しいものに変わった。
「なぜか……組合の空気が重いですね?」
「まあ、気にしないけど……」
余所余所しさはあったが、業務が円滑になったのはむしろありがたい。
「もう、街を変えてもいいかな」
---
コリンの一言に私は驚いた。
ヴァイスの家がこの街にある以上、移る考えはないと思っていたからだ。
だが、彼は以前から別の街を見てみたいと思っていたらしく、今回の件が良いきっかけとなったのだという。
「構いませんよ。ヴァイスさんに伝えたら、いつでも」
そうして私たちは、長く過ごした街を離れる決意をした。
後日、ヴァイスの家を訪れ事情を話すと、彼は笑いながら言った。
「行ってこい。たまには帰って来いよ」
その言葉に送られ、私たちは新たな地へ向かうこととなった。




